第36話「二人きりの部屋と未来の筆跡」
A-BOXをアパートの駐車場に停め、俺はレイナを自分の部屋へと案内した。
ドアを開けた先にあるのは、決して汚くはないが、ひどく殺風景な部屋だった。
きれいに畳まれた洗濯物。
壁際に積まれた、背表紙の色が褪せた理工学の専門書と、無骨な工具箱。
テーブルの上には、読みかけの自動車雑誌が律儀に揃えられている。
生活感に乏しい、俺の趣味と真面目さだけが詰まった、無味乾燥な空間。
「あ、えっと、散らかっててごめん……椅子とか、ないんだけど、まあ、適当に座って」
俺は、顔が真っ赤になるのを感じながら、しどろもどろに言った。
「ううん、お邪魔します」
レイナは優しく微笑むと、部屋で一番大きな家具であるベッドの端に、ちょこんと腰掛けた。
その光景を見て、俺の頭の中で、けたたましい警報が鳴り響いた。
《警告、警告! 未知の女性個体が、プライベートエリアに侵入!》
アンナなら、きっとそんな風に叫んだだろう。
その幻聴が、頭の中で何度もリフレインする。
まずいまずいまずい、女の子が、俺の、ベッドに、座っている……!?
アンナのことで頭がいっぱいだった俺は、この状況になって初めて、事の重大さに気づいていた。
夜に、女の子を、自分の部屋に上げてしまった。
その事実に、俺の思考回路は完全にショート寸前だった。
「の、飲み物……! ええと、麦茶しかないけど……!」
俺は訳の分からないことを叫びながら、小さなキッチンでマグカップを探す。
やっとのことで二つ見つけ、麦茶を注いでテーブルに置いた。
完全に挙動不審だ。
そんな俺の様子を見かねたレイナが、俺が差し出したマグカップを静かに受け取りながら、ふっと真剣な表情になり、空気を切り替えてくれた。
「……アンナさんのこと、心配だよね。今、私たちにできることを考えよう」
その言葉に、俺はハッと我に返る。
そうだ、感傷に浸っている場合じゃない。
「……うん。……実は、一つだけ、手がかりがあるんだ」
俺は、この状況を打開する唯一の希望……スマホに撮っておいた、あの謎のメモの画像をテーブルの中央に置いた。
『この子と対話できる、次のドライバーへ』
「これなんだ……」
「うん……」
レイナは、その画面を食い入るように見つめる。
俺も、彼女の隣からスマホを覗き込んだ。
自然と、俺たちの顔が近づく。
ふわりと、彼女の髪の優しい香りがした。
彼女は、指で画像を拡大しながら、真剣な眼差しでその文字を追っている。
その知的な横顔に、俺は不覚にも、ドキッとしてしまった。
「……『この子』っていう擬人化も気になるけど、それ以上に『対話』って言葉……まるで、この車が意思を持っていることが、最初から分かっているみたい。不思議な書き方だね」
「ああ、俺もそう思った」
「それと……」
レイナは画像をさらに拡大し、眉をひそめた。
「この文字……。少しだけ古風というか……現代の人がボールペンで書く字とは、違う癖がある気がする。万年筆で書いたような、独特の『とめ』や『はね』……」
彼女は、そこで言葉を切ると、不思議そうな顔で、自分の手のひらをじっと見つめた。
「……でも、なんでだろう。初めて見る字のはずなのに、すごく懐かしい気がする。まるで、昔の自分が書いた字を見てるみたいな……」
「え、そうなのか?」
「……私の専門は歴史だけど、どの時代の古文書の文字とも違う……。まるで、未来の人が、過去の文字を必死に真似て書いたような……そんな、不思議な違和感があるの」
彼女の洞察力に、俺はただ驚くばかりだった。
未来の人が、書いた文字……?
その、まるでSF小説のような言葉が、妙に頭に引っ掛かった。
アンナ。あいつの存在自体、現在の科学技術では到底説明がつかない。
自己進化して、感情のようなものまで見せるナビゲーションAI。
――まさかな。ありえない。
俺は頭を振って、その非現実的な考えを打ち消した。
俺たちは、時間を忘れ、スマホのメモが示す、途方もない謎について語り合った。
気づけば、壁の時計の針は、もう日付が変わろうかという時間を指していた。
「あ……!」
レイナが、悲鳴のような声を上げた。
「ご、ごめん、私、大学の宿舎だから、もう帰らないと……門限が……」
彼女の言葉に、俺もハッとする。
アンナのことはもちろん、レイナの話に夢中になっていて、時間のことなど全く頭になかった。
こんな夜更けに、女の子一人で帰すわけにはいかない。
俺は、人生で最大級に顔を真っ赤にしながら、どもりながらも、ありったけの勇気を振り絞って提案した。
「お、俺の部屋でよければ……泊まって、いくか……? も、もちろん、俺は床で寝るから!」
レイナは、俺の言葉に顔を赤らめ、しばらく俯いていた。
やがて、何かを決意したように顔を上げると、俺の目をじっと見つめて、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……うん。……ありがとう」
テーブルの上に置かれていたA-BOXのキーが、チカッと、一瞬だけ赤い光を放った。
沈黙を続ける相棒からの、肯定とも、あるいは嫉妬ともつかない、小さなシグナル。
だが、目の前の女性に舞い上がっていた俺が、それに気づくはずもなかった。
アンナへの罪悪感と、彼女といる時の不思議な安らぎに戸惑いながら、俺はテーブルの上に残されたマグカップと、その隣で沈黙を続けるキーを、ただぼんやりと見つめていた。




