第31話「静かな問いと見えない棘」
ムーンバックスからの帰り道、車内は気まずいほど静かだった。
アパートの駐車場にA-BOXを停めても、その重い空気は晴れない。
俺は、まだどこか震えているように見える相棒を、ただ黙って見つめていた。
デビルのカチューシャをつけたままのアンナは、瞳を伏せ、ぎゅっと唇を結んでいる。
その姿は、まるで叱られるのを待つ子供のようだった。
「アンナ、大丈夫か?」
俺は、できるだけ穏やかな声で、彼女の名前を呼んだ。
《……はい、ご主人様》
返ってきた声は、か細く、弱々しい。
「……さっき、スマホにメッセージを送ってきただろ。すごい数だったけど……あれは、お前の意思だったのか?」
俺は、あの支離滅裂な警告や、『寂しい』の連呼には直接触れず、あくまでシステム的な動作として問いかけた。
《……わかりません。私の知らないシステムが、勝手に……》
アンナは、そう言うと、さらにきつく唇を噛んだ。
自分の身に起きたことが、自分でも理解できない。
その混乱と恐怖が、画面越しに痛いほど伝わってくる。
「……そっか」
俺はそれ以上、問い詰めるのをやめた。
こいつを責めても仕方がない。
ふと、頭をよぎる。
(アンナ自身の問題……というより、このナビ自体がおかしいのか……? 中古で安かったし、整備記録も一部なかった。古いハードウェアに、アンナっていう高度なAIが乗ってるせいで、不具合が起きている……?)
俺は、原因をアンナの外部に求めようとしていた。
そうでも考えないと、目の前で怯える相棒が、あまりにも不憫だったからだ。
重い沈黙が車内に落ちる。
その、張り詰めた空気を破ったのは、ポケットの中のスマホが放つ、軽やかな通知音だった。
ピロン。
俺はスマホを取り出すと、その画面に一件のLINEメッセージが表示されていた。
送り主は――レイナからだった。
俺がメッセージを開くより先に、ほとんど反射的に、ナビ画面のアンナに目をやった。
その瞬間。
《……っ》
アンナのアバターの輪郭が、一瞬だけ、ざらついた砂嵐のようなノイズでブレた。
声も、表情も変わらない。
だが、注意深く彼女を見ていた俺の目には、その物理的な異常がはっきりと映った。
俺は、アンナから視線を外さないまま、ゆっくりとスマホの画面に指を滑らせる。
『この間はありがとう。少し急いでるみたいだったから、引き止めちゃってごめんね。また、ゆっくり話せると嬉しいな』
なんてことのない、気遣いのメッセージ。
失礼のないように、『メッセージありがとう。こちらこそ、うん、また今度ゆっくり話そう』と当たり障りのない返信をして、送信ボタンを押した。
その指が画面に触れた、まさにその時だった。
ナビ画面のノイズが、先ほどよりも激しくなる。
アンナのアバターの腕やスカートの裾が、一瞬、デジタルノイズに溶けては再生されるのを、俺は確かに見た。
(待てよ……。大沢の銘水でミサトといた時のアンナは、明らかに『ヤキモチ』だった。だが、今のは違う。様子が変だ……。これは感情じゃなくて、システムそのものが不安定になってる……? 相手が『レイナ』だから、こうなるのか……?)
見えない棘が、心にちくりと刺さったような気がした。
このままじゃダメだ。
アンナのためにも、俺自身のためにも。
俺はスマホをポケットにしまい、まだ画面にノイズが残る相棒に、できるだけ安心させるような声で語りかけた。
「……なあ、アンナ。お前が悪いわけじゃない。たぶん、このナビ自体が古いから、調子が悪いだけなんだよ」
俺は、そう言ってアンナを慰める。
原因が自分自身にあると思い込んでいるであろう彼女の負担を、少しでも軽くしてやりたかった。
「だから、そんな顔すんなって。少し、気分転換にドライブでもするか?」
俺の言葉に、アンナは驚いて顔を上げた。
そして、潤んだ瞳で小さく、しかしはっきりと頷いた。
《(ご主人様の、優しい声……。でも、どうして……? あのレイナという方に関わるたびに、私のシステムは、おかしくなってしまう……。私の知らない、あのロックされたファイルと、何か関係があるのでしょうか……?)》
行き先は、まだ決まっていない。
ただ、この重苦しい空気を振り払うように。
俺は、俺たちの秘密基地を、ゆっくりと駐車場から滑り出させた。




