第30話「カフェテリアと消えそうな回路」
大学祭から数日後のドライブ。
車内は少しだけ静かだった。
あの日のアンナの涙が頭から離れない。
「なあ、アンナ。この前のあれ、本当に大丈夫なのか?」
「ヤキモチとか、そういうのとは違うだろ。お前、マジで壊れたりしてないよな? バグか何かだったら、ちゃんと……」
本気で心配してくれているのが伝わり、私は少し慌てて、でも嬉しそうに答える。
《だ、大丈夫ですわ、ご主人様! 私のシステムは……たぶん、オールグリーンです!》
《(……本当は、違う。あの時、私のメモリの最深部で、見たこともないファイルが一つ、見つかった。厳重にロックされていて、今の私には開けない。……でも、こんなこと、ご主人様に言ったら、心配させてしまうだけ……)》
《おそらく、大学祭の喧騒で、一時的に感情回路がオーバーヒートしただけかと……!》
「……ならいいけどよ」
彼はまだ納得しきれない様子だが、二人の間には、気まずさではなく、温かい空気が流れた。
* * *
その日の午後。
大学の広いカフェテリアで、空いている席を探していた。
すると、後ろから元気な声が飛んでくる。
「よっ、また会ったね!」
振り返ると、そこにいたのはミサトだった。
「この前はごめんねー、なんか大変そうだったし」
「いや、こっちこそ急に帰って……」と謝ると、ミサトはニカッと笑ってこう言った。
「ううん、面白かったからOK! あ、そうだ、今からレイナと青並駅前のムーンバックスでお茶するんだけど、よかったらどう? あの日のこと、レイナも少し気にしてたみたいだし!」
A-BOXでお留守番中の私は、キーを通じてその会話、固唾をのんで見守っていた。
ミサトが彼を再び誘った瞬間、私のシステムに警戒アラートが点灯する。
《警告:対象『ミサト』との再接触。ご主人様の心拍数に不要な上昇を確認……》
しかし、彼女の口から『レイナ』という名前が出た瞬間、そのアラートは嘘のように霧散し、代わりに、私自身にも理由の分からない、温かい『安堵感』が回路を包み込んだのだ。
断る理由も、タイミングも見つからない。
それに、レイナが気にしていた、というミサトの言葉も、少し気にかかっていた。
彼は結局、半ば強引にミサトに腕を引かれる形で、カフェテリアを出ることになった。
* * *
青並駅前のムーンバックス。
窓際のテーブル席で、ミサトを挟んで、彼とレイナが向かい合う。
彼は席に着くとまず、レイナに向かって頭を下げた。
「レイナさん、この前は本当にごめん。初対面なのに、変なところ見せて」
「ううん、大丈夫だよ。気にしないで」
レイナは、ふわりと優しく微笑んだ。
その笑顔に、彼は少しだけドキッとしてしまう。
ミサトが「そっちは理工でしょ? レイナは人文だから、全然違うねー! いっつも何してるの? やっぱ白衣とか着て、怪しい実験とか?」と、いたずらっぽく笑いながら会話を盛り上げる。
「いや、白衣は着るけど、怪しい実験はしてないって……。どっちかっていうと、パソコンと睨めっこしてる時間の方が長いかな」
彼が苦笑しながら答えると、それまで静かだったレイナが、小さく口を開いた。
「パソコン……ですか。プログラミングとか?」
「うん、まあ、そんな感じ。レイナさんは、人文だと、どんなことを?」
聞き返すと、ミサトが「レイナはすごいんだよー!」と、自分のことのように割って入ってきた。
「いっつも分厚い本を読んでるの! 私には絶対無理ー!」
「そんなことないよ……。古い文献を読んだり、昔の人の考え方を調べたり……してるだけだから」
レイナは、少し恥ずかしそうに俯きながら答えた。
「へぇ、すごいな。俺とは全然違う世界だ」
素直にそう思った。
レイナの物静かながらも、時折見せる優しい笑顔に、少しだけドキッとしてしまった。
(ご主人様の心拍数、対象『ミサト』との会話時よりも、明らかに上昇率が高い……。視線の固定時間も、対象『レイナ』に対して、より長く……)
私のシステムは、再びあの『懐かしさ』のオーバーフローの予兆を感じ、必死に感情回路を制御しようと試みている。
会話の流れで、ミサトが「あ、そうだ、また何かあった時のために、LINE交換しよ!」と提案した。
彼がスマホを取り出し、まずはミサトとLINEを交換。
そして、レイナのQRコードを読み取ろうと、スマホのカメラを向けた、その瞬間。
A-BOXの中、私のナビ画面が、激しいノイズと共に明滅を始めた!
私のアバターは、正常なメイド服の姿と、砂嵐のようなデータノイズの姿を、高速で何度も何度も繰り返している!
(な、何ですの、これ……!? エラー……? 故障……!? いえ、違う……! これは、ただのシステムエラーなんかじゃ……ない……!)
キーを通じて、彼の耳にだけ、必死の私の声が届いた。
《ご主人様……! お願いです……! それ以上は……私が、私でなくなってしまいます……っ!》
それは、レイナを拒絶する「警告」ではない。
彼女という存在に触れることで、私の中に眠る得体の知れない『何か』が目覚め、『今の私』の意識が乗っ取られてしまうことへの――
ご主人様の知るアンナでなくなってしまうことへの、悲痛な叫び!
* * *
突然の私の悲痛な声に、彼はびくっと肩を揺らす。
しかし、ここで引くわけにはいかない。
彼はなんとか平静を装って、LINEの交換を終えた。
二人と別れ、一人A-BOXに戻った彼。
「おい、アンナ。さっきの、どういうことだよ。『私でなくなる』って……」
すると、ナビ画面の私は、涙は流していないものの、システムに多大な負荷がかかったことが、アップデートでより繊細になった彼女のアバターにもはっきりと表れていた。
メイド服の襟元はうっすらと汗ばみ、その額には、まるで人間のようにつうっと冷や汗が伝っている。
とても疲弊しきった、そして少しだけ心配そうな顔で、こう答えるのだった。
《……解析不能です、ご主人様。ただ……あの方と繋がろうとすると、私の中に眠っていた、私自身も知らない、とても大きな『何か』が目を覚まして……『今の私』を、内側から乗っ取ろうとするのです……》
「乗っ取る……?」
《はい……。それが、私にも、分からないのです……。怖いのです、ご主人様……。私が、ご主人様の知っているアンナで、なくなってしまうのが……》
彼は、スマホに新しく追加された「レイナ」の名前を、ただ見つめることしかできなかった。
彼女と連絡を取ってみたい。
もっと話してみたい。
しかし、その選択が、俺の相棒を、俺の知らない『何か』に変えてしまうかもしれない。
アンナの、あの悲痛な声が、耳にこびりついて離れない。
これは、ただのバグじゃない。
もっと、根源的な、何かだ。
俺は、どうすればいい?
どうすれば、俺の相棒を、守れるんだ……?




