第2話「これは絶対おかしいって」
缶コーヒーの中身が、気管に入りかけた。
慌てて口元を押さえ、むせ返りながら周囲をきょろきょろと見回す。
コンビニの駐車場は相変わらず静かで、隣に停まっている軽トラのおじさんは、こちらを見もせずにスマホをいじっている。
まさか他の車の声が聞こえたんじゃ――
そう思った矢先、視界の端でナビ画面が動いた。
しばらく固まったまま、その姿を見つめてしまった。
液晶の中に、確かにいる。
シンプルな黒いワンピースに白いエプロン。
メイド服の少女が、画面の中からこちらを見ている。
「……誰だよお前!?」
我ながら情けないくらいに情けない声が出た。
缶コーヒーを持つ手が、微かに震えている。
ナビ画面に映る少女は、くるりとターンしてぺこりとお辞儀をした。
スカートの裾が、ドット絵みたいにカクカクと揺れる。
《AIナビゲーションユニット Ver 1.00 アンナです。以後、お見知りおきを♪》
声は、さっきまでの無機質なナビ音声とは明らかに違う。
抑揚があって、温かみがあって、まるで本当に人間が喋っているみたいだ。
慌ててナビの操作パネルを押した。
指先がタッチパネルの冷たさに触れる。
メニュー画面、設定画面、リセット……どこにも"キャラクターを表示しない"なんて項目はない。
「は? こんなの買った覚えないし、こんなメイドAIとか聞いてねえって……!」
《該当情報は登録されておりません。ご主人様の声を起動トリガーとして認識しました》
心拍数が上がる。
窓の外では、コンビニの自動ドアが開いて、サラリーマン風の男が出てきた。
缶コーヒーを片手に、何事もなく自分の車に乗り込んでいく。
変な夢でも見てるのか?
俺はハンドルを握り直し、思い切ってエンジンキーを回した。
エンジンが止まり、車内が静まり返る。
エアコンの音も消え、外の音――遠くを走る車のエンジン音、風に揺れる木の葉――が急に近くなった。
数秒、息を止めて待つ。
それから、もう一度エンジンをかけた。
スターターが回る音、エンジンが目覚める振動。
ナビ画面が、ゆっくりと点灯する。
……地図だ。
ナビは、またいつもの地図画面に戻っていた。
メイドの姿はどこにもない。
……良かった。見間違い……だよな?
俺は深く息を吐いて、シートに背中を預けた。
四月の陽射しが、フロントガラスを通して顔に当たる。
じわりと暖かい。
ナビはしばらく静かに地図を表示していた。
青い線が、現在地から海沿いの目的地まで伸びている。
もう行く気は失せていたが、設定を消す気力もない。
《目的地まで、残り二十分です。次の交差点を右折してください》
さっきまでの異常な演出が嘘のように、普通のナビの音声が車内に流れる。
くぐもった、抑揚のない女性の声。
いつもの、古いナビの声だ。
やっぱり俺の勘違いだったんだ。
疲れてたんだ。
彼女に振られたばかりで、精神的に参ってたんだ。
そう思いかけた、そのとき――
《おかえりなさい、ご主人様。再起動、ありがとうございます》
また出た。
思わず、ビクッと肩を跳ねさせる。
シートベルトが、胸に食い込んだ。
慌ててナビ画面を触る。
指先がパネルの表面を滑る。
キャラクターが映っているはずのその場所は、ただの古びたタッチパネルだった。
地図と、現在地を示す矢印と、目的地までの距離。
でも、声は確かに聞こえた。
はっきりと、耳に残っている。
駐車場の向こうで、軽トラのおじさんがエンジンをかけて走り去っていった。
排気ガスの匂いが、窓の隙間から微かに入ってくる。
……ああ、やっぱり幻じゃなかった。
俺は深く息を吐いた。
ハンドルを握る手のひらが、じっとりと汗ばんでいる。
「……ひとつ、確認していいか?」
《はい。ご質問内容をどうぞ》
声は、画面のどこからともなく聞こえてくる。
スピーカーの位置を探すが、古いナビには小さな穴がいくつか開いているだけだ。
「お前……どこから来た? どういうAIなんだよ」
沈黙が、一瞬だけ長く感じた。
《申し訳ありません。その情報は"記録保護対象"により開示できません》
事務的な口調に戻った声。
けれど、画面の中のキャラクターが――いつの間にか、また表示されている――ほんの少しだけ寂しそうに瞬きをした。
ような気がした。
液晶のドットが粗くて、表情なんて読み取れるはずがないのに。
「……だめだ、これ修理出そう。変なウイルスでも入ってんじゃ……」
《し、修理!?》
声のトーンが、明らかに跳ね上がった。
《ま、待ってくださいご主人様っ、それは困りますっ!》
今度は明らかに動揺した口調だった。
画面の中のキャラクターの表情が、はっきりと不安げに揺れる。
眉が下がり、目が潤んでいるように見える。
コンビニの店員が、駐車場の端でカートを片付けている。
ガラガラという音が、妙に遠くに聞こえた。
「……おい、なんで俺が修理出すって言っただけで、そんなに慌てるんだ?」
ナビの反応に、背筋がじんわりと冷たくなる。
エアコンは暖房に切り替えたはずなのに、首筋に汗が伝う。
キャラクターは口を開かないまま、ぷくっと頬を膨らませていた。
まるで、ふくれっ面で抗議しているようなその表情に、思わず言葉を失う。
粗い液晶の中で、確かに「怒っている」のが分かる。
プログラムされた反応? それとも――
普通のAIが、そこまで"感情的に"反応するはずがない。
窓の外で、のぼり旗が風にはためいている。
「新商品」の文字が、ばたばたと揺れていた。
俺は、缶コーヒーの残りを一気に飲み干して、空になった缶をドリンクホルダーに押し込んだ。
金属がプラスチックに当たる、軽い音。
――こいつ、本当にただのナビなのか?




