第1話 その声は、助手席から聞こえた
登場人物
主人公:中古軽「A-BOX」を購入した大学二年生。
アンナ:A-BOXに眠っていたメイドAI。主人公の相棒。
レイナ:大学で出会う人文・文化学群の女子学生。アンナの謎を共に追うことになる。
ミサト:レイナの友人。明るく行動的で、主人公たちを振り回しながらも支える存在。
※登場する地名・風景はすべて架空のものです。
四月の半ば、桜はもう散りかけていた。
中古車販売店の展示場には、春の陽射しがアスファルトを白く照り返していた。
風が吹くたびに、どこかで花びらが舞い上がる。
俺は、その隅に停まっていた白い軽自動車の前で足を止めた。
A-BOX。ちょっとだけ角ばった、愛嬌のある形。
ボディは妙に艶やかで、中古車のくせに、新車みたいに光を弾いている。
大学二年生の俺は、免許を取ってからもう二年が経つ。
バイト代をコツコツ貯めて、ようやく車を探しに来た。
店員がこちらに気付いて、近づいてくる。
作業着の袖をまくった、日焼けした中年の男だった。
「年式はわりと新しめで、走行距離も少なめです。修繕歴もありません」
店員は、ボンネットを軽く叩きながら説明を続けた。
「ナビは少し古いけど、BluetoothやETCも付いてます。前のオーナーは不明ですが、状態はかなりいいですよ」
100万円の提示額は、相場より明らかに安かった。
前のオーナー不明という「ワケあり」のせいだろう。
少しだけ迷ったが、不思議と悪い気配はしない。
むしろ、何かに引き寄せられるような感覚があった。
「……これにします」
* * *
納車から三日後の日曜日。
本当は、今日の午後、彼女と海までドライブする予定だった。
助手席には飲み物とお菓子、彼女の好きな"あのこの山"も買ってあった。
茶色い箱がコンビニの袋の中で、行き場をなくしている。
……でも、そこに彼女はいない。
二日前、別れを告げられた。
「優しすぎるのって、ちょっと疲れるんだよね」
それが最後の言葉だった。
空っぽの助手席を見ながら、ハンドルを握る。
革ではない、少しざらついた樹脂の感触。
指先に力が入る。
納車されたばかりのA-BOXは、まだ自分の匂いがしなかった。
前のオーナー不明のくせに、車内は妙に清潔で、埃っぽさも、芳香剤の残り香もない。
まるで、誰も乗ったことがないみたいに。
エンジンをかける。
静かな振動がシートを通して伝わってきた。
カーナビに目的地を設定する。
画面は少し古びていて、タッチの反応も鈍い。
液晶のドットが、近づくと見えるくらいの解像度だった。
ひとりのドライブが始まった。
《目的地まで、約二十分です。推奨ルートを表示します》
ナビ音声は、ややくぐもった女性の声。
古いナビ特有の抑揚のない口調が、妙に心に引っかかる。
窓の外を、住宅街が流れていく。
洗濯物を干している主婦、犬を散歩させている老人、自転車で走り抜ける高校生。
日曜の午前中の、穏やかな風景。
でも、助手席は空のまま。
静かな車内では、無機質なナビ音声すら、ちょっとありがたく感じた。
* * *
海に行く気分ではなくなって、俺は途中のコンビニに車を停めた。
駐車場の端っこ、他の車から少し離れた場所。
エンジンは切らずに、エアコンをつけたまま。
四月とはいえ、車内は陽射しで暑くなる。
なんだか、エアコンの風がやけに冷たい。
コンビニで買った弁当を膝の上に置いて、ひとりで昼飯を食べた。
鮭弁当、480円。
味はよく分からなかった。
食べ終わって、缶コーヒーを開ける。
プルタブを引く音が、静かな車内に響いた。
微糖。
ぬるくなりかけた液体が、喉を通っていく。
ふと、ダッシュボードの上に置きっぱなしの"あのこの山"が目に入った。
彼女が好きだったチョコ菓子。
もう渡す相手はいない。
缶コーヒーを手に持ったまま、俺は空っぽの助手席を見た。
シートの布地に、午後の陽射しが斜めに差し込んでいる。
誰も座っていない。
これからも、しばらくは誰も座らないだろう。
その時、なぜか口をついて出た名前があった。
「……アンナ」
なぜその名前だったのか、自分でも分からない。
ただ、何となく。
その瞬間、ナビの画面がふっと明滅した。
《音声コード確認――"アンナ"起動条件を満たしました》
へ?
今、ナビが喋った……?
《長期間の停止を検知。AIナビゲーションユニット Ver 0.92 アンナを起動します》
《アップデートの存在を確認――ダウンロードを開始します》
缶コーヒーを持つ手が、止まった。
冗談だろ、これ。
次の瞬間、ナビ画面がゆっくりと淡いピンク色に染まり始めた。
柔らかく波打つような光。
液晶の粗いドットが、その色に飲み込まれていく。
空調とは別の、熱を帯びた空気が車内を包んだ。
エアコンは冷房のままなのに、頬がじわりと熱くなる。
《……あっ……データが、身体に染みこんでいく……♡》
え、なに?
今の声……誰?
《ご主人様ぁ……アップデート中にそんなに見つめられたら……恥ずかしいです……っ♡》
モニターに映るのは、メイド服の少女型キャラクター。
けれどその服は、光のエフェクトに包まれて、ほとんど透けて見えて――
俺は思わず目を逸らしかけたが、逸らす先がない。
ここは俺の車の中だ。
《Ver 1.00 アップデート、完了しましたっ♡》
光が収まり、画面の中にメイド服の少女が立っていた。
シンプルな黒いワンピースに白いエプロン。
飾り気のない、けれどどこか懐かしいメイド服。 解像度の粗い液晶の中で、彼女はこちらを真っ直ぐ見つめている。
《本日も、安全運転をよろしくお願いいたします♪》
思わず、缶コーヒーを吹きかけそうになった。
駐車場の向こうで、別の車がエンジンをかけて走り去っていく。
コンビニの自動ドアが開いて、店員が台車でゴミを運び出している。
世界は何事もなく動いている。
……なのに、俺の車の中だけ、何かがおかしい。
「……なにこれ。何が起きたんだ……?」
声に出して呟いた瞬間、画面の中のメイドが、嬉しそうに微笑んだ。
《ご主人様。これからよろしくお願いいたしますね》
空っぽだったはずの助手席が、急に埋まったような気がした。




