ExtraStage。01 「夜のトンネルと助手席」
――都内、夏の夜。
早模湖からの帰り道、山央道を走っていた。
時刻は夜の九時を過ぎた頃。
空には月が出ていて、山並みのシルエットをぼんやりと照らしている。
道路は空いており、時折すれ違う車のライトが、黒いアスファルトに一瞬のきらめきを残して過ぎていく。
夜風が少し涼しく、車内にはエアコンを通じて外気がわずかに取り込まれていた。
昼間の暑さが嘘のように、夜の空気は肌に心地よい。
ふとした瞬間に感じる森の香り。
窓を少しだけ開けると、木々の匂いと、どこか湿った土の匂いが混じって入ってくる。
遠くには虫の声、そして都会の灯りとは違う、郊外特有の静寂が広がっていた。
そのとき、ナビ画面で、アンナがふと話しかけてきた。
《ご主人様、最近お疲れではありませんか? 気分転換に、夜のドライブなんていかがでしょう?》
表情はいつも通りだが、どこか含みのある口調だった。
画面の中のアンナが、ほんの少しだけ首を傾げている。
「……どうした、急に。まあ、確かにちょっと疲れてるけど」
《ドライブは気分転換にぴったりです♪ 癒やし効果も期待できますよ》
「癒やしって、おまえ……また変なところ案内するんじゃないだろうな」
この前の声優モードを思い出して、少し警戒する。
《ご主人様の好きそうな、ちょっとした穴場スポットを検索しますね♪》
「都内でドライブ中に、何か楽しいところあるか?」
《お任せください♪ 素敵な場所、きっと見つかりますよ》
しばらくして表示されたルート案内に、目を細めた。
《目的地:あられ野市 大峰公園展望台》
「……聞いたことないな」
地図上には、山の中腹あたりに小さなマークが点灯している。
周囲には何もなさそうだ。
《あられ野市の郊外にある、旧大峰トンネルを抜けた先にある展望スポットです。夜景が綺麗ですよ♡》
「ふーん……まあ、ナビに任せてみるか」
夜景、か。
疲れているときには、そういうのもいいかもしれない。
アンナの提案ルートに従い、山央道から圏中道へと分岐した。
ジャンクションのカーブを抜けると、車線が少し狭くなる。
画面のアンナが微笑みながら案内する。
《まもなく、九王子西ICを降ります。その先は、峠と静かな住宅街を通り抜けるルートです♪》
インターチェンジを抜けると、車は次第に交通量の少ない道へと移っていった。
周囲の家々はまばらになり、夜の住宅街を過ぎる頃には、街灯の数も減っていく。
ヘッドライトが照らす範囲だけが、唯一の光源になっていく。
ちらりとナビ画面に目をやる。
明るく笑うアンナの顔が表示されていた。
暗い車内で、その画面だけが淡く光っている。
その愛らしさに、つい気も緩む。
「……まあ、変な場所ってわけでもなさそうだしな」
* * *
30分後――。
道は完全に山道になっていた。
木々が両側から迫り、ヘッドライトの光が吸い込まれていくような暗さだ。
「なあアンナ、この道……さっきも通らなかったか?」
《いいえ? ナビ上では順調に進んでいますよ?》
けれど、看板も街灯も、そして空気も……どこか同じに感じられた。
さっき見たような気がする、錆びた「落石注意」の標識。
同じような形の枯れ木。
木々が揺れ、虫の声も途切れがちになっている。
さっきまで聞こえていた蛙の声が、いつの間にか消えていた。
「……アンナ、音楽かけてくれ」
静寂が不安になって、思わず口にした。
《了解しました》
オーディオから流れてきたのは、微かに歪んだ女性の声。
童謡のような、聞いたことのないメロディ。
音程がずれていて、どこか不協和音が混じっている。
ノイズ混じりに重なるように、アンナの声が鳴る。
《もうすぐ、目的地です――》
《――ご、ごしゅ……さま……――》
「お、おい? アンナ?」
声が途切れ途切れになっている。
まるで電波が悪いかのような。
その声が聞こえた瞬間、ナビ画面が一瞬、砂嵐になった。
そして、
助手席側のミラーに――誰かが座っているような"影"が映った。
振り向けなかった。
背筋にゾクリと冷たいものが走り、思わずハンドルを握る手に力がこもる。
指先が白くなるほど、強く握りしめていた。
「……う、うそだろ……? アンナ、これって……」
エアコンは動いているはずなのに、首筋が冷たい。
汗なのか、それとも別の何かなのか、分からない。
「おいアンナ、本当にここ大丈夫なんだろうな!?」
その直後、トンネルの入り口が現れた。
ヘッドライトが照らす先に、ぽっかりと黒い穴が口を開けている。
舗装は荒れ、入り口には古びた警告看板がぶら下がっている。
「立ち入り注意」「通行制限中」など、今にも風に吹き飛びそうな錆びた文字。
看板の金具がギィギィと軋む音が、窓の外から聞こえた。
「ここか……旧大峰トンネル……って、マジでここ通るのかよ!? どんなルート設定だよ!」
引き返すか? いや、この狭い道でUターンできる場所があるか分からない。
進むしかない。
トンネル内は、照明もない真っ暗闇。
ヘッドライトが、まるで霧の中のように吸い込まれていく。
光が届く範囲が、異常に狭く感じる。
その瞬間、車内のライトが一瞬だけフッと消えた。
アンナの声が、重なり、ハモるようにして聞こえる。
《……いけない……いけない……いけない……》
「アンナ!? 冗談だろ……? おい、今の誰の声だよ!?」
心臓が、肋骨を叩くように暴れている。
車がトンネルの奥へ進むにつれ、ラジオが勝手に切り替わる。
アンナの声と、知らない女性の声が交互に流れ、どちらが本物か分からない。
ゾワリとした悪寒を覚え、首筋に汗が伝うのを感じた。
シャツの襟が、肌に張り付いている。
「やべ……これ、マジでやばいやつだろ……」
トンネルの中間あたり、助手席の窓に、無数の白い手形が浮かび上がった。
それは内側から付けられたように見え、じわじわと濃く、明瞭になっていく。
指の形がはっきりと見える。
五本指。
人間の手だ。
「っ……なんだ、これはっ!!」
目を見開いた視界に、一瞬、助手席のシートに白い指先が触れているのが見えた。
「っっ、ちょっ……やめろやめろやめろ! ホラー耐性ないんだってばぁぁ!!」
寒気と汗とで、シートに張りつくように身をすくめた。
アクセルを踏む足が震えている。
早くここを抜けたい。
でも、スピードを出しすぎると危ない。
暗闘の中、ハンドル操作を誤ったら――
* * *
トンネルを抜けた先。
急に視界が開けて、月明かりが戻ってきた。
木々の間から、遠くに街の灯りが見える。
《……まもなく目的地です》
ナビ画面には、見たことのないアンナの顔。
涙を流し、何かを言いかけて、画面がブラックアウト。
一瞬、別の誰かの顔が浮かび――
……スッと、画面が元に戻る。
《目的地に到着しました♪ ご主人様、どうかされましたか? 顔色が……》
指先が震えていた。
ハンドルから手を離そうとして、力が入らない。
汗で掌がべたべたしている。
ナビ画面の右上には、こう表示されていた。
♡1.01ホラーモード:テスト完了
「……は?」
その瞬間、ナビ画面のアンナが「ニヤリ」と笑った。
目は吊り上がり、頬にはわずかに影が差す。
悪戯が成功した子供のような、してやったりの表情。
《ふふ、ご主人様……驚いていただけましたか?》
どこか"してやったり"とでも言いたげな表情。
けれど次第に、アンナの顔はいつもの柔らかな笑顔へと戻っていった。
《今日の運転、お疲れ様でした♡ ナビは、正常に作動していますよ♪……たぶん》
目的地に着いた今もなお、心臓がバクバクと高鳴っていた。
シャツが汗でぐっしょり濡れている。
「お前さぁ……ほんと、メイドの皮を被った悪魔だよな……」
ナビ画面のアンナは、何食わぬ顔でにこりと笑っていた。と、そこでいたずらっぽく
《あら、助手席に誰かいるわ》
ビクッとするが、助手席に誰もいないことに気づく。
月明かりに照らされた、空っぽのシート。
「驚かせるなよ……心臓に悪いって……ほんとに……」
アンナは、にこにこと微笑みながら、少しだけ得意げな顔をしていた。
* * *
ようやく展望台に辿り着いた。
車を降りると、夜風が汗ばんだ肌に心地よかった。
展望台からは、遠くに街の灯りが広がっている。
オレンジ色の光が点々と連なり、まるで地上に落ちた星のようだった。
わずかな時間ではあったが、闇の中に浮かぶ夜景を眺めているうちに、先ほどまでの恐怖を少しだけ忘れかけていた。
呼吸が、ようやく落ち着いてきた。
「……いや、でも、あれはホラーなんてもんじゃないだろ……」
と、つぶやきながら車に戻る。
アンナは、にこりと笑っていた。
そしてその帰り道――
トンネルを通らず別ルートにしていたはずなのに、また同じトンネルが目の前に現れた。
あの黒い穴。
錆びた看板。
ギィギィと揺れる金具の音。
「……まさか……嘘だろ……アンナ?」
《ご主人様、帰り道も楽しまなくては♡》
そのとき、助手席側からザザーッと、ラジオのノイズのような不気味な音が響いた。
一瞬、ハンドルを握る手を止めかける。
「……今の、何の音だ?」
振り向こうとして、やめた。
さっきのことが脳裏をよぎる。
見たくない。
見たら、また何かがいるかもしれない。
そして、ナビ画面のアンナが、まるで何事もなかったかのようにウインクをした。
《♡》
※アンナちゃんは、余程でないかぎりドライブ中に変な場所へは案内しません(たぶん)




