第57話「ホーム・スイートホーム」―ソウジロウからの贈り物
カステルッチを出てから、最初の一時間。
ミアは起きていた。
サイドカーの縁に両腕を乗せ、前を走るコラージョとビアンカの背中を見つめながら、流れていく景色に目を輝かせていた。
三人はそれぞれ、Qじい製の双方向無線機を装着している。公聴会で使った小型改良型ではない。バイク運転に適した、最初のヘッドホン型だ。
耳を覆う厚めのレシーバー。口元まで伸びる細いマイク。風切り音を防ぐため、マイク先端には黒い小さなカバーが付いている。
『やっぱり、陸路で帰るのっていいね!』
ミアの声が無線に入る。
ギヤ爺のサイドカー付きバイクは、低く安定した蒸気音を響かせながら街道を走っていた。
前方では、ビアンカがコラージョを操っている。
黒い猫のような車体は滑らかに走り、尾のような排圧制御管が時折、小さく揺れる。
ミアはブレスレットに指を触れた。
コラージョとの会話は、無線機ではなくブレスレット経由だ。
≪コラージョ、楽しい?≫
コラージョが軽く尾灯を点滅させる。
≪風。道。帰る。良い≫
『コラージョ、楽しいって!』
ミアが嬉しそうに言う。
『よかったな』
ギヤ爺が短く返す。
『ジジイも楽しい?』
『俺は運転中だ』
『それ答えになってない』
『楽しくなけりゃ、こんな遠回りで帰らん』
ミアは少し笑った。
『素直じゃないね』
『お前に言われたくねえ』
その会話から、さらに三十分後。
ミアは寝ていた。
サイドカーの中で毛布にくるまり、猫族らしく丸くなって、規則正しい寝息を立てている。
ギヤ爺は横目でそれを見て、鼻を鳴らした。
「ほら見ろ」
前方で、ビアンカがコラージョの速度を少し落とし、隣へ並ぶ。
『寝た?』
『一時間半もたなかった』
ビアンカは小さく笑った。
『やっぱりね』
コラージョも低く鳴る。
≪ミア、寝た。安全≫
ビアンカには正確な意味までは分からないが、言いたいことは何となく分かった。
「ここ最近、寝不足だったもんね」
コラージョが満足そうに喉を鳴らした。
⸻
一日目の夕方。三人は街道沿いのバイカーズホテルに入った。
蒸気バイク乗りたちのための宿で、広い屋根付き駐輪場、簡易整備場、給水設備、バイクの蒸気核点検台まで揃っている。
ミアは目を輝かせた。
「ここ、最高!」
ギヤ爺が言う。
「長距離乗りにはありがたい宿だ」
ビアンカはコラージョを駐輪場へ入れながら頷く。
「コラージョも安心ね」
コラージョが低く鳴る。
≪良い場所。油の匂い≫
ミアは笑った。
「そこが気に入ったんだ」
宿の食堂には、革ジャン姿の旅人や商人、工房職人らしき者たちが集まっていた。
壁には古いレースポスターや、各地の街道地図が貼られている。
ミアは夕食を食べながら、隣のテーブルの古い蒸気バイク談義に耳をそばだてた。
「ねえ、あの人たち、リアサスペンションの話してる」
ビアンカが即座に言う。
「長くなるから、話しかけないでよ」
「ちょっとだけ」
「駄目」
ギヤ爺がパンをちぎりながら言った。
「工房に帰ったら好きなだけ語れ。今日は寝ろ」
「また子ども扱いしてる」
「実際、さっき寝てただろ」
「そ、それはサイドカーが快適だっただけ!」
ビアンカは静かに言う。
「つまり、明日も快適に寝られるわね」
「寝ないってば!」
⸻
二日目。街道は山間部へ入った。
結構な坂道が続き、ところどころに蒸気エンジン用の給水所が、オーバーヒート対策で設けられている。
昼頃から、ミアはビアンカの後ろに乗せてもらった。
コラージョの後部座席に小柄な体を収め、ビアンカの腰にしがみつく。
『やっぱりこっちがいい!』
『落ちないでね』
『落ちないよ』
コラージョが少し得意げに加速する。
「コラージョ、飛ばしすぎない」
ビアンカが言うと、すぐに速度が安定した。ミアはブレスレット越しに囁く。
≪コラージョ、ビアンカのこと好きだよね≫
≪信頼。落ち着く。強い。でも怒ると怖い≫
ミアが吹き出した。
『ビアンカ、コラージョがね――』
「最後だけ聞こえなくても分かる気がするわ」
『えっ』
「私の悪口でしょ?」
『悪口じゃないよ。評価』
「余計悪いわ」
コラージョが低音で鳴く。ビアンカは前を向いたまま言う。
「二人ともあとで覚えてなさい」
ミアは笑いながら、ビアンカの背中にしがみついた。
⸻
三日目の夜。山を越えた先の湖畔で野営することになった。
宿場町まで距離があり、無理に進むより安全だとギヤ爺が判断したのだ。
湖のほとりに小さな焚き火を起こし、バイク二台を風よけのように停める。
コラージョは自分でスタンドを立て、湖面に映る月をじっと見ていた。
ミアは焚き火の前で膝を抱えている。
「ネオ・ジェノバに戻ったら、まずお母さんに会いに行く。いろいろ心配も掛けたし」
ビアンカは静かに頷いた。
「…そうね、私も行くわ。久しぶりにミアのお母さんに挨拶したいし」
「ありがとう。」
しばらく焚き火の音だけが続いた。やがてミアは星空を見上げる。
「観測者って、今も見てるのかな」
「見てると思う?」
「分からない。でも、見てる気がする時がある」
「嫌?」
ミアは少し考えた。
「前はちょっと怖かった。でも今は……こっちも見返してやるって感じ」
ギヤ爺が笑った。
「お前らしいな」
コラージョが低く鳴る。
≪見られる。進む。選ぶ≫
ミアはその音を聞いて、静かに頷いた。
「うん。選ぶのは私たちだよね」
その時、ブレスレット越しにコラージョの声が続いた。
≪大丈夫。怖くない。“ビンス”も見守ってる≫
ミアの息が止まった。
“ビンス”。
その名を聞いた瞬間、三年前の記憶が胸の奥で開く。
観測者の代理こと、古代文明のAIアーカイブ管理者。その中に存在した人格パーソナリティのひとり。
ビンスこと、ビンセント・アンドリーニ。
ミアは彼の人格パーソナリティから、この世界の真実を聞いた。そして、自分が観測対象者になることで、古代文明技術を供与された。
量子AIプロセッサー。
ブレスレット。
コラージョに繋がる技術。
そしてビンスは、かつて実在した黒毛の猫族の少年コラージョの友人であり、名付け親でもあった。
まだ言えない。サムにも、Qじいにも、ギヤ爺にも。そして、ビアンカにも。
ミアはそっと喉を鳴らした。
≪ビンスのことは、皆にはまだ言えない。でも、いつか話す≫
コラージョの返事は柔らかかった。
≪いつか。皆、分かってくれる≫
ミアは小さく頷いた。
ビアンカと出会った時から、ずっと気になっていた、もう一つの事が頭をよぎる。
“ビンセント・アンドリーニ”。
“アンドリーニ”。
ビアンカと同じ姓だ。
単なる偶然なのかな…それとも――。
ミアは焚き火の向こうでコーヒーを飲んでいるビアンカを見た。
ビアンカは気づいて、首を傾げる。
「どうしたの?」
「……ううん。なんでもない」
「そう?」
「うん」
ミアは視線を星空へ戻した。
いつか話す。でも、今はまだ。
⸻
四日目。
街道を進んでいると、道端で一台の蒸気トラックが立ち往生していた。
荷台には木箱が山ほど積まれ、運転手らしき中年の男性が頭を抱えている。
「故障かな?」
ミアがサイドカーから顔を出す。ビアンカは少し速度を落とした。
「寄るの?」
「困ってるみたいだし」
ギヤ爺がため息をつく。
「こうなると思った」
三人が止まると、運転手はぱっと顔を上げた。
「すみません! 蒸気圧はあるのに駆動が抜けるんです。次の町まで荷物を届けないといけなくて……」
ミアはもう目が技術者になっていた。
「見ていい?」
「分かるんですか?」
「たぶん」
ビアンカが横から言う。
「“たぶん”は大抵分かってる時の言い方よ」
ミアは工具袋を開け、ギヤ爺も面倒くさそうにしながら降りた。
「どれ、見せてみろ」
結果、原因は駆動弁のリンクピンの摩耗だった。
ギヤ爺が応急用のピンを削り出し、ミアが蒸気圧調整を再設定する。
コラージョは横で見張り役をしていた。
修理は三十分ほどで終わった。運転手は何度も頭を下げる。
「助かりました! お礼にこれを」
彼が差し出したのは、荷台の木箱から取り出した小さな包みだった。
「焼き菓子です。次の町の祭り用ですが、少しくらいなら」
アーモンドの香ばしい匂いに、ミアの目が輝く。
「ビスコッティだ!いいの!?」
ビアンカが即座に言う。
「一つだけよ」
「二つ?」
「ひ・と・つ」
「うーじゃあ、ビアンカと半分こ」
ギヤ爺が笑った。
「俺の分はねえのかい」
その日の午後、三人は焼き菓子を食べながら走った。ミアはサイドカーで包みを抱え、満足そうに言う。
『旅っていいね』
ビアンカが前方から返す。
『あなたの場合、食べ物が出るとだいたい良い旅になるわね』
『否定できない』
コラージョが低く鳴る。
≪甘い匂い。良い≫
ミアは笑った。
「コラージョも匂いだけ楽しんでる」
⸻
五日目の夕方。ついにネオ・ジェノバの街が見えてきた。
海沿いに広がる港町。
蒸気クレーンが並ぶ埠頭。
赤煉瓦の倉庫街。
中央駅へ向かう高架線。
遠くに見える工房街の煙突。
潮の匂いと油の匂いが混ざる、懐かしい空気。
ミアはサイドカーから身を乗り出した。
『帰ってきた……!』
ビアンカもコラージョの上で少しだけ表情を柔らかくする。
『ええ』
街へ入ると、最初に声をかけてきたのは、行きつけのカフェAntoni Genova(トニーの店)の店主アントニーだった。
「おーい! ミアちゃん! ビアンカさん!」
店先でエプロン姿のまま手を振っている。
「戻ったのかい!」
ミアは大きく手を振り返した。
「ただいま、トニー! 明日マリトッツォ食べに行く!」
「任せな! クリーム多めにしておくよ!」
ビアンカが小さく言う。
『明日はまずお母さんでしょう』
『そのあと!』
『ならいいわ』
少し進むと、今度はギヤ爺に声がかかる。行きつけのバーのマスターだった。
「ハンス! 生きてたか!」
ギヤ爺は片手を上げる。
「勝手に殺すな」
「今夜来るか?」
「荷物を置いたらな」
ミアが即座に言う。
「ジジイ、飲みすぎ禁止!」
「フローラみたいなこと言うな!」
マスターが笑う。
「じゃあ一杯だけにしとくか!」
「二杯だ!」
ビアンカが冷静に言う。
『一杯半よ』
『お前まで刻むな!』
⸻
そして、工房前。看板には、見慣れた文字がある。
“Laboratorio Della Fortuna”(ミアの工房)。夕陽を受けて、その文字が柔らかく光っていた。
扉の前には、大柄な男が立っている。
ジョー・スミサーズことミア命名、ジョーズ君。カステルッチでミア達の護衛をした、国家保安情報局の職員だ。彼はギヤ爺と入れ替わりで、ミアの工房を警備していた。
いつもは無表情な彼だが、三人を見ると、少しだけ表情を緩める。
「お帰り。長旅、お疲れさま」
ミアはサイドカーから飛び降りる。
「ジョーズ君! 留守番ありがとう!」
「うん。工房は異常なかった。あと、ヨネダという人からの荷物も受け取ってる」
ミアの耳がぴんと立つ。
「…ヨネダ?あっソージローから!?」
「ソージロー?」
「カステルッチで、あなたが羽交締めした犬族のおじさんよ」
ジョーズ君が思い出した。
「あっ、あの不審者」
ミアが少し笑いながら答える。
「不審者じゃないよ。凄くいい人だよ」
「とりあえず大型の荷物と手紙。見たらびっくりする。中で保管している」
ギヤ爺が工房の中を覗いて、少し驚いた顔をした。
「……綺麗だな」
ビアンカも中を見て目を丸くする。
「本当。前より片付いてる」
ジョーズ君は少し真面目な顔で言う。
「警備中、見通しが悪いと不便、整理しておいた。勝手に触っていけないものは、ラベル確認して避けた」
ミアは工房の中へ入る。
床は掃かれ、工具は分類され、部品箱は整えられていた。
作業台の上には、見覚えのある未完成品が、きちんと布をかけられている。
「ジョーズ君……すごい」
「掃除は好き」
ジョーズ君は普通に答えた。
ビアンカが感心する。
「あなた、警備員より管理人に向いてるかも」
「任務なら、どっちもやる」
ギヤ爺が笑った。
「俺が留守番してた時よりよほど丁寧だな」
ミアとビアンカは同時に言った。
「そうね」
ギヤ爺が顔をしかめる。
「即答するな」
⸻
工房の奥には、布をかけられた小型バイクが置かれていた。
ミアは目を輝かせる。
「これ……!」
ジョーが手紙を差し出す。
「これも一緒に届いた」
封筒には、力強い字でこう書かれている。
ミア・デラ・フォルトゥナ殿
ヨネダ技研 ヨネダ
ミアは封を開ける。
中には、短いが熱のこもった手紙が入っていた。
『ミアちゃんへ。ローマングランプリ決勝、無事に勝ったぜ。
あのバルブ軽量化の助言が効いた。うちの連中も、全員あんたに礼を言ってた。
約束どおり、別の形で礼をさせてもらう。今度ローマン共和国でも販売する、小柄な犬猫族でも扱いやすいスチームバイクだ。
名は「スーパードリーム号」。
停車時の補助輪機構も入れてある。足が届かなくても倒れねえ。あんたなら、きっと面白がってくれると思う。
いつかまた、コラージョも見せてくれ。ビアンカさんにもよろしく伝えてくれ。
ヨネダ技研
ヨネダ・ソウジロウ』
ミアは手紙を読み終えると、布を勢いよく外した。
そこには、偶然にもミアが晩餐会で着たドレスと同色の淡いクリーム色フレームに、銀色のタンク。そして、新品の香りがする茶色の革シートの綺麗な小型の美しいバイクがあった。
丸みのある車体。扱いやすそうな低いフレーム。工房の天窓の光を反射させた銀色のタンクには、「YONEDA」の力強いエンブレム。後部には停車時用の補助輪機構が装着されている。
ミアは息を呑んだ。
「……これがスーパードリーム号」
ビアンカが微笑む。
「よかったわね」
ミアは何度も頷いた。
「うん。すごい!すごいよこれ!」
コラージョが工房へ入ってきて、小型バイクをじっと見る。
≪新しい友達?≫
ミアは笑った。
「そうかも」
ギヤ爺が腕を組む。
「まず整備確認だ。いきなり乗るなよ」
「分かってる!」
ビアンカが言う。
「本当に?」
「かなり以上に分かってる!」
全員が少し笑う。長い帰路は終わった。そして工房にはすでに新しい贈り物が待っていた。
ミアは工房の中央で、手紙を胸に抱いた。ビアンカが隣に立つ。
「ただいま!」
今度ははっきり、工房に向けて言った。コラージョが低く、温かく喉を鳴らす。
≪家。戻った。始まる≫
ミアは笑った。
「うん。ここからまた始めよう」
続く




