第56話「ネオ・ジェノバへ」―さよならカステルッチ
大統領晩餐会の翌朝。カステルッチの空は晴れていた。
長く続いた雨と霧が嘘のように消え、石造りの街並みには淡い朝日が差している。
安全家屋の前では、帰宅準備が進められていた。
ミアは久しぶりに、茶色のフライトジャケットにレザーパンツ、革ブーツのスタイルに戻った。
「うん!やっぱりこの格好が、一番落ち着く」
ミア、ビアンカ、ギヤ爺は、一足先にネオ・ジェノバへ戻ることになっている。
サム、フローラ、Qじいは、カステルッチでの残務処理とネオ・ジェノバ支局設立準備を終え次第、後から合流する予定。
コラージョはすでに玄関前で待機している。
黒い猫のような車体。
磨かれた外装。
柔らかく光る猫目のライト。
尾のような排圧制御管が、機嫌よさそうに小さく揺れている。
ミアは荷物を肩にかけ、当然のようにコラージョへ近づいた。
「よし、ビアンカの後ろに乗るね」
ビアンカはコラージョの横で手袋をはめながら振り返る。
「何言ってるの?」
「え?」
ミアはきょとんとする。
「ネオ・ジェノバまで、コラージョで帰るんでしょ?」
「私はコラージョで帰るわ」
「じゃあ私も後ろに――」
「長距離よ」
ビアンカは即答した。
そこへ、サイドカー付きの大型バイクを点検していたギヤ爺が声をかける。
「お前はこっちだ」
「え?」
「サイドカーに乗ってけ」
ミアの耳がぴんと立つ。
「なんで!?」
「五日かけて帰るんだぞ。コラージョの後ろにずっと乗ってたら、途中でお前の尻が死ぬ」
「死なないよ!」
「いや死ぬな」
ビアンカも頷く。
「死ぬわね」
「ビアンカまで!?」
「それに、長距離移動で後ろに人を乗せ続けると、コラージョにも負担よ」
コラージョが低く鳴った。
≪ミア、サイドカー。安全。休める≫
ミアは目を丸くする。
「コラージョまでそっち側なの?」
≪長旅。ミア寝る≫
「寝ないよ!」
ビアンカが無表情で言う。
「寝るわね」
ギヤ爺も頷く。
「絶対寝るな」
ミアは頬を膨らませた。
「みんなしてひどい」
サムが荷物の確認をしながら淡々と言った。
「合理的判断だ」
「サムおじさんまで!」
「おじさんはやめろ」
フローラが微笑む。
「サイドカーなら毛布も積めるし、途中で寝ても安全よ」
「完全に寝る前提……」
ミアは不満そうだったが、最終的にはギヤ爺のサイドカーへ荷物を置いた。
「じゃあ、途中でコラージョにも乗るからね」
ビアンカが頷く。
「短い区間ならいいわ」
「約束ね」
「はい約束」
コラージョも低く鳴る。
≪途中で一緒≫
ミアは少し機嫌を直した。
⸻
出発前、サムはミアたちを呼び止めた。
「ディクソンとジュリアードについて、現時点の決定を伝えておく」
ミアの表情が変わる。ビアンカも静かに振り返った。
サムは淡々と説明する。
「エドガー・ディクソンは、十年前の研究所事故に関する虚偽報告、事故隠蔽への関与、今回の民営化工作への関与について、司法当局の取り調べを受ける」
ミアは何も言わなかった。
「ただし、公聴会での自発的証言、証拠提供、アーリア工作の実態解明への協力が考慮される。身柄は当面、情報局の保護下に置かれる」
「……刑務所には行くの?」
ミアが小さく訊いた。
「可能性はある」
サムは正直に答えた。
「だが、量刑は司法が判断する。少なくとも、彼は逃げないと言っている」
ミアは視線を落とした。
「そっか」
ビアンカがそっとミアを見る。
ミアは続けた。
「許したわけじゃない」
「ああ」
「でも、逃げなかったことは……よかったと思う」
サムは頷いた。
「彼の母親も安全な場所にいる。証言後、短い面会も許可された」
ミアは少しだけ息を吐いた。
「うん」
ギヤ爺が低い声で言う。
「遅すぎても、言わねえよりはいい」
誰も否定しなかった。
サムは次に、声を少し硬くした。
「ジュリアードについては、資源管理局局次長の職務を停止。逮捕状が請求されている」
フローラが補足する。
「収賄、国家機密漏洩、外国企業との不正接触、証拠隠滅への関与。かなり重いわ」
ビアンカが言う。
「本人は認めているの?」
「否認している」
サムは短く答えた。
「十年前の研究所事故についても、責任整理は正当だったと主張している。今回の件も、民営化推進の政治的判断に過ぎないと言い逃れしている」
ミアの耳が伏せる。
「最後まで逃げるんだ」
「逃げようとしている。だが、もう逃げ切れん」
サムの声は冷たかった。
「ディクソンの証言、フローラの追跡記録、捕らえた内部協力者の供述、アーリア関係者との接触記録。積み上げる材料は十分にある」
フローラが静かに言う。
「ジュリアードは、誰かに責任を押し付けて生き残るやり方を繰り返してきた。でも今回は、その記録が全部残っている」
ミアは少しだけ目を閉じた。十年前、父に押し付けられた責任。貶められた父の名前が、ようやく元の場所へ戻ろうとしている。
「……お父さんの名前、ちゃんと戻るかな」
ビアンカが言った。
「戻るわ」
サムも頷く。
「再調査は始まった。正式な名誉回復には時間がかかるが、流れは変わらない」
ミアは静かに頷いた。
「うん」
⸻
Qじいは、ミアへ革表紙のファイルを渡した。
「これは?」
「お前さんが預けた飛行艇改造案の資料、写しをまとめておいた。原本はこちらで保管するが、設計の要点はそこに入っておる」
ミアはファイルを受け取る。
「もう見たの?」
「見た」
「どうだった?」
Qじいは深くため息をついた。
「寝不足になる」
ミアはにっこり笑った。
「最高の褒め言葉ね」
「褒めとらん」
だが、Qじいの目は完全に技術者のものだった。
「ネオ・ジェノバに移ったら本格的に始めるぞ。飛行艇のティルトローター化。反重力リフター制御。量子AIプロセッサー二系統。考えるだけで頭が痛い」
「楽しそう」
「楽しいとも…あっ…」
Qじいは認めてしまってから、少し悔しそうな顔をした。
ギヤ爺が笑う。
「素直じゃねえ爺だな」
「お前に言われたくない」
「俺は素直だ」
「どこがだ?」
二人のやり取りに、ミアは笑った。
⸻
フローラはビアンカへ歩み寄った。
「ネオ・ジェノバ支局ができるまでは、連絡員を通じて情報を送るわ。あなたたちは表向き、通常生活に戻ることになる」
ビアンカは頷く。
「分かったわ。スチームハンターの資格もそのままだし」
「ただし、身辺警戒は続けて。アーリア本社は今回の件を現地法人の暴走で切ったけれど、完全に終わったわけではない」
「ええ」
「それと、ミアを外に一人で出さないように」
「努力するわ」
「努力じゃなくて、徹底して」
ビアンカは少し笑った。
「それ、最近私がミアに言ってることね」
フローラも笑う。
「似てきたのかも」
ミアが横から言う。
「何が?」
「あなたの周囲の人間が、みんな心配性になっているって話」
「私のせい?」
全員が沈黙した。
「……なんで黙るの?」
ギヤ爺が言う。
「自覚しろ」
「うー」
ミアは不満そうに腕を組んだ。
⸻
出発の時間が近づいた。
ビアンカはコラージョにまたがる。長いドレスでもスーツ姿でもない。頭にはゴーグルの付いたレザーキャップ。茶色のライダースジャケットに、レザーパンツ、リングブーツを履いたスチームハンターのスタイルに戻った。
胸元に勲章はない。
だが、昨日の夜に一度つけたことで、何かが少し変わったように見えた。
ギヤ爺はサイドカー付きバイクのエンジンを始動する。蒸気核が唸り、低い排気音が響く。
ミアは渋々サイドカーに乗り込んだ。
「なんか、子ども扱いされてる気がする」
ギヤ爺が言う。
「長距離用の賢い配置だ」
「言い方だけ大人っぽくしても駄目」
ビアンカがコラージョのハンドルを握りながら振り返る。
「途中で交代してあげるから、まずはそこで我慢しなさい」
「分かった」
コラージョが低く鳴る。
≪先に走る。見てる≫
「うん。お願い」
サムが近づき、三人を見た。
「五日行程だ。無理はするな」
「了解」
ビアンカが答える。
ミアも手を上げる。
「了解、サムおじさん」
「おじさんはやめろ」
フローラが笑う。
「それ、もう定着してるわね」
「定着させない」
Qじいはミアへ言う。
「ネオ・ジェノバで余計なものを爆発させるなよ」
「爆発させないよ」
ギヤ爺が即座に言う。
「爆弾を拾ってくるかもな」
「拾わない!」
ビアンカが静かに言う。
「前科があるからね」
「ビアンカまで!もうそれを言わないで」
笑い声が、安全家屋の前に広がった。それは、別れの笑いではない。少しの間だけ別行動になる者たちの、またすぐ会うための笑いだった。
⸻
ビアンカがコラージョを前へ出し、ギヤ爺のサイドカー付きバイクが続く。ミアはサイドカーから身を乗り出して、サムたちへ手を振った。
「じゃあ、ネオ・ジェノバで!」
フローラが手を振り返す。
「気をつけて」
Qじいも手を上げる。
「準備ができ次第、私達も行く」
サムは最後まで表情を崩さず、短く言った。
「またすぐ会おう」
ミアは笑った。
「うん!」
コラージョの尾灯が柔らかく光る。
黒い猫バイクと、サイドカー付きの古い蒸気バイクは、朝のカステルッチをゆっくり走り出した。
議事堂も、大統領府も、情報局本部も、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
ミアはサイドカーの中で空を見上げた。
父の名誉。
ディクソンの証言。
ジュリアードの罪。
国家との契約。
ネオ・ジェノバ支局。
飛行艇改造計画。
いろいろなものが動き出した。でも今は、帰る。自分たちの街へ。工房へ。新しい始まりの場所へ。
「ねえ、ジジイ」
「何だ」
「サイドカー、意外と快適だね」
「だから言ったろ」
「でも途中でコラージョにも乗るから」
「寝てなければな」
「寝ないってば」
ビアンカが前から言う。
「たぶん寝るかな」
「寝ない!」
コラージョが楽しげにゴロゴロ鳴った。その声を聞きながら、ミアは頬を膨らませたまま、けれど少しだけ笑った。
カステルッチを出て、ネオ・ジェノバへ。五日間の帰路が始まった。
続く




