第55話「大統領晩餐会」―胸に戻る勲章
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大統領府迎賓館は、夜の光の中でまるで別世界のように輝いていた。
白い石造りの外壁。
高い円柱。
蒸気灯に照らされた庭園。
正面玄関へ続く赤い絨毯。
表向き、この晩餐会はウィリアム・マーティン大統領の二期目就任を祝うためのものだった。
本来なら、就任直後に行われるはずだった。
だが、資源管理局の問題。
北方採掘場の増幅路暴走事故。
蒸気石輸送船事故。
公聴会。
そしてアーリア・インダストリーをめぐる一連の工作。
それらの対応に追われ、三か月ほど延期されていた。
ようやく開かれることになった今夜の晩餐会には、あらゆる方面から人々が集まっていた。
政府関係者。
軍関係者。
政党関係者。
上院議員。
各省庁の高官。
外国からの要人。
大使。
企業関係者。
そして、新聞社や通信社の記者たち。
迎賓館の大広間には、音楽隊の柔らかな演奏が響いていた。
笑い声。
グラスの触れ合う音。
低い会話。
上品な香水の匂い。
磨かれた床に映るシャンデリアの光。
ミアはその入口で、完全に固まっていた。
「……人、多い」
淡いクリーム色のドレスを着たミアは、思わずビアンカのドレスの裾をつまんだ。
「大統領府の晩餐会だもの」
深い青のドレスを着たビアンカは、落ち着いた声で返す。ただし、その表情もいつもより少し硬かった。
「これ、ただのご飯会じゃないよね」
「当然違うわ」
「私、帰っていい?」
「駄目」
「即答……」
ミアは耳を伏せた。
少し離れた場所では、ギヤ爺が濃いグレーの特注スーツを着て、腕を組んでいる。
本人は堂々としているつもりらしいが、どう見ても場に馴染まない迫力があった。
ミアは小声で言う。
「出所祝いのボスみたい」
「聞こえてるぞ」
ギヤ爺が低い声で言った。
フローラがその横で微笑む。
「ハンスさん、今日は大統領府です。睨みすぎないように」
「睨んでねえ。普通の顔だ」
「だから困るのよ」
Qじいは少し離れたところで、迎賓館の天井付近にある蒸気式空調設備を見上げていた。
「ふむ……なかなか良い配管じゃな」
ミアがQじいの隣に来て目を輝かせる。
「分かる? あれ、面白いよね」
ビアンカが即座に言った。
「ちょっと、今日は配管見学に来たんじゃないのよ」
「ちょっとだけ」
「駄目よ」
サムはいつものように隙のないスーツ姿で、周囲の動きを観察していた。晩餐会であっても、彼にとっては半分以上が任務なのだろう。
そして、そのすぐ後ろにロイスが立っていた。
白毛の猫族秘書。長い金髪を上品にまとめ、今日は秘書服ではなく、落ち着いた銀灰色のドレスを着ている。
彼女はミアとビアンカを見て、満足そうに微笑んだ。
「お二人とも、とても素敵です」
「まだ落ち着かないよ」
ミアが裾を気にする。
「それも含めて可愛らしいですよ」
「ロイスさん、褒め方が逃げ道を塞いでくる……」
ロイスは上品に笑った。
⸻
大広間へ入る前、フローラがビアンカを呼び止めた。
「ビアンカ」
「なに?」
フローラは小さな箱を手にしていた。黒い革張りの箱。それを見た瞬間、ビアンカの表情が少し変わった。
「これを、今夜つけてほしいの」
フローラが箱を開けると、中には勲章が入っていた。
大統領勲章。
イーストウォール紛争で、ビアンカが住民避難に貢献した功績により授与されたものと同じ意匠。
ビアンカは一歩も動けなくなった。
「……どうして」
「大統領府で用意されたものよ。正式な予備章として、記録に基づいて再製されたの」
フローラの声は穏やかだった。
「あなたが以前授与されたものと同じもの」
ビアンカは目を伏せた。
「私は……」
言葉が続かなかった。勲章、それは名誉の象徴だった。だが、ビアンカにとっては、それだけではない。
南イーストウォール本島。
サンタマリアの街。
避難列車。
鉄橋。
少年兵の叫び。
それらすべてが、あの金属の光に重なっていた。ミアは何も言わず、ビアンカを見ていた。
フローラも急かさなかった。
「無理にとは言わないわ」
フローラは静かに言った。
「でも今夜、あなたがそれをつけることには意味があると思う」
「意味?」
「あなたは、戦場に縛られている人ではない。けれど、戦場で救った人たちの記憶を消す必要もない」
ビアンカの目が揺れた。その言葉は、この間大統領が言った言葉と重なった。
――あの勲章は、君を戦場へ縛るためのものではありません。
――救われた人々の記憶を、君だけに背負わせるためのものでもない。
ビアンカは胸に手を当てた。ドレスの布越しに、自分の鼓動が伝わる。
長い沈黙のあと、彼女は小さく息を吐いた。
「……分かったわ」
ミアが少しだけ目を見開く。
「ビアンカ」
ビアンカはミアを見た。
「大丈夫」
その声は、まだ少し震えていた。けれど、逃げる声ではなかった。
「つけてくれる?」
フローラは頷いた。
慎重な手つきで、深い青のドレスの胸元に勲章を留める。銀と金の光が、布の上で静かに輝いた。
ビアンカは鏡の前に立つ。
そこには、かつての海兵隊伍長ではなく、現在のビアンカ・アンドリーニがいた。
勲章をつけている。けれど、軍服ではない。戦場に戻るためではなく、戦場を越えてここに立つために。
ミアは小さな声で言った。
「……すごく似合ってるよ」
ビアンカは少しだけ笑った。
「ありがとう」
ギヤ爺が腕を組んだまま言う。
「堂々としてりゃいい。そいつは、お前が守った連中の証だ」
ビアンカは少し驚いたように彼を見る。ギヤ爺は顔を逸らした。
「それだけだ」
Qじいも頷く。
「うむ。立派だ」
サムは短く言った。
「よく似合っている」
ビアンカは目を伏せ、静かに答えた。
「ありがとう」
⸻
大広間に入ると、視線が集まった。ミアはすぐにそれを感じた。
猫族の小柄な少女。
淡いドレス。
隣には大統領勲章を胸につけたビアンカ。
後ろには情報局のサム、フローラ、Qじい、ギヤ爺。
ただの招待客ではないことは、一目で分かった。しかも、公聴会の直後である。
記者たちは遠巻きにこちらを見ていた。政府関係者の何人かは、明らかにミアの顔を知っている。軍関係者はビアンカの勲章へ目を向けた。
ミアは小さく呟く。
「なんか、すごく見られてる」
ビアンカは落ち着いた声で返す。
「堂々としていなさい」
「ビアンカは平気なの?」
「平気じゃないけど、平気そうに見せるのは得意」
「さすが元海兵隊」
「そこは関係あるようで、少し違うわね」
その時、近くにいた壮年の軍人がビアンカへ歩み寄った。ローマン共和国海軍提督の礼服を着た男性。
「アンドリーニ伍長……いや、失礼。アンドリーニさん」
ビアンカは姿勢を正す。
「こんばんは」
男は胸元の勲章を見て、静かに頭を下げた。
「イーストウォールでは、私の部下の家族も避難列車に乗っていました」
ビアンカの表情が止まる。
「……そうでしたか」
「直接礼を言う機会がありませんでした。今夜言わせてください。ありがとうございました」
ビアンカは返事に迷った。だが、逃げなかった。
「私は、自分の任務を果たしただけです」
男は静かに首を振る。
「それでも、感謝しています」
彼は深く礼をして去っていった。ミアはそっとビアンカを見る。ビアンカの指が、ほんの少し震えていた。
ミアは何も言わず、隣に立った。ビアンカは小さく息を吐く。
「……私は大丈夫よ」
「うん」
「今の言葉は、ちゃんと受け取る」
「うん」
⸻
やがて、大統領夫妻が大広間へ姿を現した。
拍手が広がる。
ウィリアム・マーティン大統領は、穏やかな笑みで招待客へ挨拶した。
その横には大統領夫人。落ち着いた雰囲気の女性で、柔らかながらも芯の強そうな目をしている。
大統領は壇上へ上がり、短い挨拶を始めた。
「本日は、私の二期目就任を祝うためにお集まりいただき、心より感謝申し上げます」
広間が静まる。
「本来なら、この場は三か月前に設けられるはずでした。しかし、我が国はその間、資源管理局をめぐる重大な問題と向き合ってきました」
会場の空気が少し硬くなる。
「不正、隠蔽、外部からの干渉。そこには、我々が目を背けてはならない現実がありました」
大統領は続ける。
「しかし同時に、真実を語る者、証拠を守る者、現場の責任を背負う者、そして未来を信じて技術を使おうとする者たちもいました」
ミアは少しだけ肩をすくめる。まるで自分たちのことを言われているようで、落ち着かない。
ビアンカは静かに聞いていた。
「今夜は、就任の祝いであると同時に、共和国が再び前へ進むための場でもあります」
大統領はグラスを掲げた。
「ローマン共和国の未来に」
会場全体がグラスを掲げる。
「共和国の未来に」
ミアも慌ててグラスを持ち上げた。中身は、彼女用に用意された果実水だった。
ギヤ爺は隣でワインを掲げている。フローラがじっと見ていることに気づき、ギヤ爺は低い声で言った。
「一杯だけだ」
「見てますよ」
「分かってる」
⸻
ミア達がテーブルに座り晩餐が始まると、ミアにとって本当の試練が始まった。
皿が多い。ナイフとフォークが多い。グラスも多い。しかも料理が少しずつ出てくる。
「ビアンカ」
「なに?」
「これ、どのフォーク?」
「外側から」
「外側が二つある」
「落ち着きなさい」
ビアンカは小声で教える。ミアは真剣な顔でフォークを選んだ。
「これ、発明より難しい」
「それはないと思うわ」
「あるよ。発明は間違えても直せるけど、これは間違えたら恥ずかしい」
「大丈夫。誰もそこまで見てないわ」
「見てる気がする」
「気のせいよ」
実際には、ロイスが少し離れた場所から穏やかに見守っていた。ミアがフォークを間違えそうになると、ロイスはごく小さく首を横に振る。
ミアはそれに気づいて、そっと正しいフォークへ持ち替えた。
「ロイスさん、ありがとう」
「助かったわね」
ビアンカが小さく笑う。
その一方で、ギヤ爺は料理を見て少し渋い顔をしていた。
「量が少ねえ」
Qじいが言う。
「こういう場は、腹を膨らませるための食事じゃないからな」
「何のための食事だ」
「会話と政治じゃな」
「面倒くせえ」
フローラがにこやかに言う。
「ハンスさん、声が少し大きいですよ」
「……分かった」
⸻
ローマン共和国とミアとの特別技術提携の締結については、後日議会でも正式に承認される予定。
事前に政府関係各所に通達された事もあり、食事の合間、何人もの人物がミアたちへ挨拶に来た。
政府関係者。
軍高官。
大学の研究者。
外国の外交官。
その多くは、ミアの技術に興味を持っていた。
「フォルトゥナ嬢、貴女の新技術について、ぜひ一度――」
「今は契約上、詳しい話はできません」
サムが横から遮る。
「では、後日正式な照会を――」
「情報局を通してください」
フローラが微笑みながら受け流す。ミアは心の中で感謝した。自分だけなら、つい技術の話を始めてしまいそうだった。
ビアンカの元にも、人が来た。軍関係者は勲章に敬意を払い、政治家は彼女の名を知っているふうに話しかけた。
そのたびに、ビアンカは丁寧に応じた。以前なら、勲章の話を避けていたかもしれない。だが今夜の彼女は、逃げなかった。
胸の勲章は重い。でも、押し潰されるための重さではなかった。
⸻
晩餐会の中ほど、大統領がミアたちの席へやって来た。周囲が自然と静かになる。
「楽しんでいますか?」
大統領が訊く。ミアは少し緊張しながら答えた。
「料理はすごく美味しいです。どのフォークを使うか難しいです」
大統領夫人が小さく笑った。
「正直でよろしいですね」
ミアは少し赤くなる。大統領はビアンカの胸元に目を向けた。
「つけてくれたのですね」
ビアンカは静かに頷く。
「はい。まだ少し、重いですが」
「重く感じるなら、それはあなたが忘れていない証拠です」
大統領は穏やかに言う。
「ですが、今夜のあなたにはよく似合っています」
ビアンカは少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
ミアは横で嬉しそうに見ていた。
大統領はミアへ視線を移す。
「フォルトゥナさん、契約の件は急ぎません。あなたの納得が第一です」
「はい」
「ですが、今夜の場を見て分かるでしょう。あなたの技術に興味を持つ者は多い」
ミアは会場を見渡した。確かに、いくつもの視線を感じる。
好奇心。
期待。
計算。
欲望。
すべてが混ざっていた。
「……はい」
「だからこそ、あなたを守る枠組みを作りましょう」
大統領はそう言って、少しだけ微笑んだ。
「ただし、あなたらしさまで失わないように」
ミアは驚いたように瞬きした。
「私らしさ?」
「ええ。報告書を読む限り、それが最も重要そうです」
サムが横で小さく咳払いした。
ミアはサムを見る。
「報告書に何を書いたの?」
「事実だ」
「その“事実”が怖い」
大統領夫人が楽しそうに微笑んだ。
「良いチームですね」
サムが答える。
「はい。少し騒がしいですが」
ビアンカが静かに答える。
「特にミアがね」
「ビアンカ!」
⸻
夜が更けるにつれ、会場の空気は少しずつ柔らかくなっていった。音楽が変わり、食後の甘い菓子が運ばれてくる。
ミアの目が輝いた。
「デザート!」
ビアンカが小声で言う。
「落ち着きなさい」
「落ち着いてるよ。すごく落ち着いてデザートを見てる」
「それは落ち着いているとは言わない」
出された菓子の中に、カンノーリがあった。ビアンカはそれを見て、少しだけ目を細める。
ミアはすぐ気づいた。
「ビアンカ、食べる?」
「ええ」
ビアンカはひとつ手に取る。今夜のカンノーリは、サンタマリアの菓子屋のものでも、基地の食堂のものでもない。大統領府迎賓館の、洗練された菓子だった。
それでも、甘い香りは同じだった。ビアンカは一口かじる。
ミアは隣で静かに見ていた。
「……美味しい?」
「ええ」
ビアンカは小さく笑った。
「今日は、ちゃんと美味しい」
ミアも笑った。
「よかった」
⸻
晩餐会が終わりに近づく頃、ビアンカは一度だけ大広間の端へ移動した。窓の外には、大統領府の庭園が見える。胸の勲章が、シャンデリアの光を受けて静かに輝いていた。
そこへ、ミアがやって来る。
「ここにいたんだ」
「少し外を見たくなって」
「疲れた?」
「少しね」
ミアは隣に立った。
「勲章、つけてよかった?」
ビアンカはすぐには答えなかった。窓の外の夜を見ながら、静かに言う。
「まだ分からない」
「そっか」
「でも、逃げなかったことは、よかったと思う」
ミアは頷いた。
「うん」
ビアンカは胸元の勲章に触れる。
「これは、私を縛るものじゃないって、大統領は言ったわ」
「うん」
「今夜、少しだけ、その意味が分かった気がする」
ミアは何も言わず、隣にいた。
ビアンカは小さく笑う。
「あなたも、契約で同じことになるかもしれないわね」
「同じこと?」
「国と結ぶ契約が、あなたを縛るものになるか、守るものになるか。それは、あなた次第でもある」
ミアは少し考えた。
「……うん。ちゃんと考える」
「それでいいわ」
遠くで音楽が終わり、拍手が起きた。二人は並んで、その音を聞いていた。ミアはドレスの裾を少し持ち上げる。
「ねえ、ビアンカ」
「なに?」
「ドレス、ちょっとだけ慣れてきた」
「それは良かったわ」
「でも、次はスパナ隠せるドレスにしたい」
「やっぱりそこに戻るのね」
ビアンカは呆れたように笑った。ミアも笑った。
大統領晩餐会。それは、彼女たちにとって新しい舞台だった。
戦場でもなく、事故現場でもなく、議場でもない。けれど、そこにもまた、それぞれが背負ってきた過去と、これから選ぶ未来があった。
ビアンカの胸に戻った勲章。
ミアの前に置かれた契約。
そして、ネオ・ジェノバへ帰る日が、もうすぐそこまで来ていた。
続く




