第54話「ドレス・ユー・アップ」―大統領晩餐会前の攻防
大統領晩餐会。
その言葉を聞いた時、ミアは、正直なところ少し楽しみにしていた。
豪華な料理。
珍しいデザート。
もしかしたら、見たことのない蒸気式給仕装置などもあるかもしれない。
だが、同時に大きな問題がひとつあった。
「で、服はどうするの?」
安全家屋の居間で、ビアンカがそう訊いた。ミアは当然のように答える。
「いつものスーツでいいんじゃない?」
「私もそのつもりだったわ」
二人は顔を見合わせ、同時に頷いた。情報局の臨時協力者として動いてきた間、二人はずっとスーツ姿だった。
動きやすい。
隠しポケットもある。
必要なら武器も装備も携帯できる。
なにより、余計なことを考えなくていい。
「晩餐会って言っても、正式な場でしょ? スーツなら失礼じゃないよね」
「ええ。少なくとも変ではないわ」
ミアは安心したように頷いた。
「よし。解決」
その瞬間、背後から柔らかな声がした。
「解決していません」
フローラだった。
長身の犬族の女性エージェントは、にこやかな笑みを浮かべている。だが、その笑顔を見た瞬間、ミアとビアンカは同時に嫌な予感を覚えた。
「大統領晩餐会に、いつもの捜査用スーツで出るつもり?」
「捜査用じゃないよ。普段着兼仕事着」
「余計駄目です」
フローラは即答した。
ビアンカが冷静に言う。
「でも、私たちは軍人でも貴族でもないわ。過度に着飾る必要は――」
「あります」
「……あるの?」
「あります」
フローラはきっぱり言った。
「あなたたちは今回、大統領に招待された功労者です。しかも、これからローマン共和国との特別契約に関わる重要人物でもある。場に合わせた装いは、礼儀であると同時に戦術です」
「戦術って言われると少し納得しそうになるのが嫌ね」
ビアンカが眉をひそめる。
ミアは耳を伏せた。
「でも、私たち、そういうオシャレ詳しくないよ」
「だから用意しました」
フローラがそう言った瞬間、居間の扉が静かに開いた。入ってきたのは、白毛の猫族の女性だった。
猫族としてはかなり背が高い。
長い金髪を上品にまとめ、ぴしりと仕立てられた秘書服を着ている。
姿勢も、歩き方も、微笑み方も、すべてが整っていた。
ミアは思わず見上げた。
「……ロイスさん?」
その女性は柔らかく一礼した。
「お久しぶりです、ミアさん、ビアンカさん」
国家保安情報局局長秘書、ロイス。初めて本部に出頭した時以来の再会だった。
彼女の後ろには、情報局員が大きな衣装箱を二つ運び込んでいる。
ミアの耳がぴんと立った。
「その箱……なに?」
ロイスはにっこり笑った。
「本日の任務装備です」
「任務装備?」
ミアが少し安心しかけた瞬間、ロイスは続けた。
「パーティドレスです」
ミアとビアンカは同時に後ずさった。
「いや、私はスーツで――」
「私もスーツで十分――」
フローラとロイスは、ほぼ同時に言った。
「駄目です」
ギヤ爺が隅の椅子で腕を組み、にやりと笑った。
「いいぞ。俺の気持ちを味わえ」
ミアが振り返る。
「ジジイ、楽しんでるでしょ!」
「おう。大いにな」
「ひどい!」
「スーツを着せられ、髪をいじられ、酒を取り上げられた俺の苦しみを知れ」
フローラがさらりと言う。
「ハンスさん、今夜も飲み過ぎは禁止です」
「まだ言うか!」
ロイスはそのやり取りを上品に微笑みながら見ていた。
「では、まずミアさんから」
「え、待って、心の準備が」
「大丈夫です。とてもお似合いになると思います」
「そういう言い方はずるい!」
ビアンカが一歩下がろうとする。
「私は後で――」
「ビアンカさんもです」
フローラが逃げ道を塞いだ。
「あなたは背が高くて姿勢が綺麗だから、ドレスが映えるわ」
「褒めても無駄よ」
「では、任務です」
「……それもずるいわね」
サムは書類を読みながら、淡々と言った。
「諦めた方が早い」
ミアが睨む。
「サムおじさんは味方じゃないの?」
「今回に限っては違う」
「裏切り者!」
コラージョが部屋の隅で低くゴロゴロ鳴った。ミアは振り返る。
「コラージョまで面白がってる!」
≪見たい≫
「見たいじゃない!」
ロイスが笑みを深めた。
「では、参りましょう」
ミアとビアンカは、フローラとロイスに左右から連行されるようにして、隣室へ連れていかれた。
ギヤ爺は満足そうに呟く。
「これで少しは分かっただろう」
Qじいがぼそりと言った。
「いや、たぶん後で倍返しされるぞ」
ギヤ爺は少しだけ顔をしかめた。
「……そいつ困るな」
⸻
試着室と化した隣室では、まさに戦闘が始まっていた。ただし、相手は敵兵でも工作員でもない。
ドレス。
コルセット。
髪飾り。
手袋。
靴。
化粧道具。
ミアは鏡の前で固まっていた。
「これ、動きにくくない?」
「晩餐会で走り回る予定がなければ問題ありません」
ロイスが淡々と答える。
「予定はないけど、予定外はよくあるよ」
「その場合は、フローラさんとビアンカさんが対応します」
「私も対応する側がいい!」
「今日はされる側です」
ミアは耳を伏せた。
一方、ビアンカも別の意味で苦戦していた。
「この靴、踵が高すぎるわ」
フローラが微笑む。
「姿勢がさらに綺麗に見えるわよ」
「戦闘時に不利」
「晩餐会です」
「でも非常時は」
「非常時は脱げばいいわ」
「それはそれで問題では?」
ロイスはミアの髪を整えながら言う。
「ミアさんのツインテールは活かしましょう。少しだけ巻いて、リボンを合わせます」
「リボン……」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないけど……私、子どもっぽくならない?」
ロイスは少し驚いたように瞬きし、それから優しく微笑んだ。
「大丈夫です。可愛らしさと品は両立します」
ミアは少しだけ赤くなった。
「……そういうの、慣れてない」
「慣れなくてもいいんです。今日は、少しだけ違う自分を楽しめばいいのです」
ビアンカはその言葉を聞いて、鏡の中の自分を見た。
スーツではない自分。
軍服でもない。
狙撃手でもない。
情報局協力者でもない。
ただ、一人の女性として装う自分。それは少し落ち着かなかった。
フローラが静かに言う。
「似合っているわ、ビアンカ」
「……ありがとう」
「でも、たぶん本人よりミアの方が驚くわね」
「なぜ?」
「あなた、自分が綺麗だってあまり自覚してないから」
ビアンカは一瞬言葉に詰まった。
「……そういう話は苦手よ」
「知ってる」
フローラは楽しそうに言った。
⸻
しばらくして、居間の扉が開いた。
先に出てきたのはミアだった。
彼女は淡いクリーム色のドレスを着ていた。猫族の小柄な体に合わせて仕立て直されたもので、動きやすさを残しながらも、柔らかい布がふわりと広がっている。
ツインテールには小さなリボン。
首元には控えめな飾り。
いつもの工具袋は当然ない。
ミアは落ち着かない様子で裾をつまんだ。
「……変じゃない?」
部屋が静かになった。
Qじいが眼鏡を上げる。
「ほう」
ギヤ爺が腕を組んだまま、少しだけ目を細める。
「馬子にも…いや、猫にも衣装だな」
「ジジイ!」
「褒めてる」
「絶対違う!」
サムは短く言った。
「似合っている」
ミアは固まった。
「……サムが普通に褒めた」
「事実だからな」
コラージョが低く、嬉しそうに鳴った。
≪きれい≫
ミアの耳が一気に赤くなる。
「コラージョまで……」
そこへ、ビアンカが出てきた。
深い青のドレスだった。
派手すぎず、しかし凛とした印象がある。背筋の伸びた立ち姿と、落ち着いた表情がよく合っていた。髪はいつもより柔らかくまとめられ、首元には小さな銀の飾り。
ミアはぽかんと口を開けた。
「……ビアンカ、すごい」
ビアンカは少し居心地悪そうに言う。
「そんなに見ないで」
「だって、すごく綺麗」
ビアンカは目を逸らした。
「……ありがとう」
ギヤ爺がぼそりと言う。
「こっちは本当に晩餐会向きだな」
ミアが即座に言った。
「私は?」
「お前は……晩餐会に紛れ込んだ妖精みたいだ」
ミアは一瞬黙り、それから首を傾げた。
「それ褒めてる?」
「そのつもりだが」
Qじいが言う。
「うむ、褒めておるな」
フローラとロイスは満足げだった。
「お二人とも、とてもお似合いです」
ロイスが言う。
「これで晩餐会に出ても問題ありませんね」
ミアはまだ落ち着かない。
「でも、これで工具も持てないし、スパナも隠せない」
ビアンカがため息をつく。
「晩餐会にスパナを持っていく気だったの?」
「小さいのなら……」
「駄目」
フローラ、ロイス、ビアンカが同時に言った。
ミアは頬を膨らませる。
「全員厳しい」
サムは淡々と言った。
「当然だ」
コラージョがまた低く鳴る。
≪でもミアらしい≫
ミアは少しだけ笑った。
「ありがとう」
⸻
準備が整う頃には、夕方の光が窓から差し込んでいた。ミアとビアンカは、いつものスーツではない姿で並んでいた。
戦場へ向かうわけではない。
捜査へ向かうわけでもない。
だが、ある意味ではこれも任務だった。
国家の中枢。
大統領府の晩餐会。
新しい契約と、これから始まる関係の第一歩。
ミアは小さく息を吸った。
「ねえ、ビアンカ」
「なに?」
「私、変なこと言ったりしないかな」
「言うと思うわ」
「即答!?」
「でも、たぶん大丈夫。あなたらしさは隠せないもの」
「それ慰め?」
「半分は」
「残り半分は?」
「諦め」
「ひどい!」
ビアンカは少し笑った。
「大丈夫。私が隣にいるわ」
ミアはその言葉に、少し安心したように頷く。
「うん」
ギヤ爺はスーツ姿で立ち上がり、フローラからようやく返されたスキットルを見つめていた。
フローラがにこやかに言う。
「晩餐会前に飲んだら、また没収です」
「分かってる!」
ミアがすかさず言う。
「ボス、今日はおとなしくね」
「誰がボスだ!」
笑い声が部屋に広がる。ロイスは静かに二人を見ていた。白毛の猫族秘書は、満足げに微笑む。
「では、参りましょう。大統領がお待ちです」
ミアはドレスの裾を少し持ち上げ、不慣れな足取りで歩き出した。
ビアンカはその横に並ぶ。
コラージョは同行しない。
だが、地下車庫から低いゴロゴロ音が届いた気がした。
≪いってらっしゃい≫
ミアは小さく振り返り、喉を鳴らして返す。
≪行ってくる≫
こうして、ミアとビアンカは、大統領晩餐会という新しい戦場へ向かうことになった。
武器はなし。工具もなし。あるのは、慣れないドレスと、少しだけ強くなった覚悟。
そして――隣にいる相棒だった。
続く




