第45話「脅迫」―公聴会まで二日
翌朝。カステルッチの空は、薄い雨雲に覆われていた。
旧市街の石畳は夜の雨を吸い、車の車輪が通るたびに鈍く光り、街はいつも通り動いているように見えた。
新聞売りは声を張り上げ、通勤者は襟を立てて足早に歩き、議事堂周辺では、公聴会を前にした警備の増強が始まっている。
だが、国家保安情報局の安全家屋の中だけは、朝から張り詰めた空気に包まれていた。
地下作戦室の机には、資料が積み上げられている。
十年前の研究所事故。
北方採掘場の増幅路暴走事故。
蒸気石輸送船事故。
飛行艇爆破工作。
アーリア・インダストリー系列船の救助活動。そして、ディクソンの証言予定内容。
サムは無表情のまま、全体の流れを確認していた。
「ディクソンの証言は、公聴会の後半に回す」
彼は机上の議事進行案を指で叩く。
「最初にヴァレンティ局長が資源管理局の実態を説明する。次にギヤ爺が北方採掘場の増幅路暴走事故について証言。その後、クエンティンが押収品と飛行艇爆破工作の分析結果を出す」
「俺は何時頃だ?」
ギヤ爺が腕を組んだまま訊く。
今日も例のスーツ姿である。髪型は七三分けから本人の手で強引にオールバックへ戻されていたが、それでも妙に迫力があった。
「午前の終盤だ」
「長く話すのは嫌いだ」
「要点だけでいい」
「ならいい」
ミアが横からじっと見る。
「ジジイ、やっぱり証言台に座ったら『異議あり』って言いそう」
「裁判じゃねえ」
「でも似合うよ」
「褒められてる気がしねえな」
ギヤ爺は渋い顔をしたが、どこか諦めてもいた。
フローラは壁際で資料をめくりながら言う。
「ディクソンは別の保護場所へ移したわ。表向きは体調不良で自宅静養中。ジュリアード側にはまだ動きはない」
「動かないのが不自然ね」
ビアンカが言った。
フローラは頷く。
「ええ。エルンストは何か準備しているはず」
「ミアとコラージョを狙う動きは?」
サムが訊く。
「今のところ直接の接触はなし。ただし、昨日から安全家屋周辺を確認している不審な車が一台ある。ナンバーは偽装。追跡班が確認中」
ミアは小さく眉を寄せた。
「コラージョ、外に出したら危ない?」
「今は駄目よ」
ビアンカが即答した。
「ちょっと動かすだけでも?」
「駄目」
「コラージョ、退屈してるよ」
倉庫側から、低く不満げなゴロゴロ音が聞こえた。
フローラが少し笑う。
「バイクが退屈を訴える状況、初めて見たわ」
「コラージョは普通のバイクじゃないから」
ミアは胸を張った。
「それが狙われる理由だ」
サムが短く言う。
ミアは黙った。分かっている。コラージョは相棒であり、家族のような存在だ。だが敵にとっては、未知の技術が詰まった獲物でしかない。
自分も同じだ。技術者として。古代文明のテクノロジーに触れる者として。そして、エンリコ・フォルトゥナの娘として。
ミアは手首のブレスレットにそっと触れる。今は静かだったが、逆に不気味だった。
⸻
同じ頃。カステルッチ市内の古い製粉倉庫跡。
そこは、アーリア系列企業が一時的に借り上げた保管施設になっていた。表向きは輸入機械部品の一時保管。だが、内部の作業台には機械部品ではないものが置かれている。
黒い外套。
偽造身分証。
短銃。
焼夷筒。
催涙筒。
小型拘束具。
そして、木箱に入った特殊な磁力固定具。
エルンスト・ヴァイスは、倉庫内で部下たちを見回していた。
「標的は二つ」
彼は淡々と言った。
「ミア・デラ・フォルトゥナ。そして猫型スチームバイク」
部下の一人が確認する。
「両方ですか?」
「可能なら両方。無理なら娘を優先する。バイクは後でも奪える」
「殺害は?」
「不要だ」
エルンストの声が冷える。
「価値を壊すな。特に娘は、解析技術を持っている。小型蒸気リアクターを扱えて、事故原因の特定にも関わっている。生きたまま確保する」
別の男が訊く。
「ディクソンは?」
「公聴会で口を開かせるな。だが殺せば騒ぎが大きくなる。恐怖を与えれば十分だ」
「家族は?」
エルンストは一瞬だけ目を細める。
「調べろ。使えるなら使う」
その時、倉庫の奥から女の声がした。
「相変わらず、企業の人は言葉を薄くするのが上手いですね」
エレン・シュミットだった。
彼女は黒い帽子を取り、小雨に濡れた髪を軽く払う。
「恐怖を与える、使えるなら使う。結局、人質と脅迫でしょう」
「君が言うと道徳的に聞こえるな」
エルンストは皮肉を返す。
「私は道徳の話をしているのではありません。手段が粗いと言っているのです」
「情報局本部への侵入に失敗した君が?」
空気が一瞬、硬くなる。
エレンは表情を変えない。
「失敗したからこそ言えます。彼らは警戒しています。特に、犬族の女エージェント。フローラ・ダルトン。あれは厄介です」
「知っている」
「それにサム・ウエストレイクも。彼は餌を撒けば噛みつく男ではありません。むしろ、噛みついた相手の手首まで折るタイプです」
「なら、噛ませなければいい」
エルンストは地図を広げた。
安全家屋の周辺。
旧港湾監督局。
議事堂。
ディクソンの保護場所候補。
「狙うのは移動時だ。彼らは公聴会当日、必ず議事堂へ移動する。だが、それまでにも調整や確認で外へ出る可能性がある」
「誘い出すつもりですか」
「そうだ」
エルンストは小さく笑った。
「獲物を捕まえるなら、餌がいる」
⸻
昼過ぎ。安全家屋に一通の封書が届いた。受け取ったフローラの表情が変わる。
「主任」
サムが顔を上げる。
「何だ?」
「ディクソンの保護場所に届いた、差出人不明の封書です」
「中身は」
「写真が一枚」
フローラは紙片を机に置いた。
そこには、一軒の小さな家が写っていた。庭先に洗濯物が揺れている。窓辺には、年老いた女性の姿がぼんやり写っていた。
ディクソンの母親だった。
サムの目が冷たくなる。
「脅迫か」
「封書には一文だけ」
フローラは読み上げる。
「“公聴会では、余計な記憶を語るな”」
部屋の空気が一気に冷えた。
ミアは小さく息を呑む。
「ディクソンさんは?」
「動揺している。でも証言を撤回するとは言っていない」
ビアンカが低い声で言う。
「アーリアね」
「可能性が高い」
サムは即座に指示を出した。
「ディクソンの母親を保護しろ。表向きは医療検診名目で移動させる。保護場所も変える。ディクソンには家族の安全を確認させろ」
「了解」
フローラが通信機へ向かう。
ミアは拳を握っていた。
「ひどい」
その声には怒りが滲んでいる。
「自分たちのために、家族まで脅すなんて」
ビアンカは静かに言った。
「それが、相手のやり方よ」
「でも…」
「怒っていい。でも怒りで動かないで」
ミアはビアンカを見る。
ビアンカはまっすぐ見返した。
「あなたを狙ってる相手でもあるの。感情で外へ出たら、それこそ向こうの思う壺よ」
ミアは唇を噛んだ。
「……分かってる」
「かなり以上に?」
「かなり以上に」
サムは地図を見下ろす。
「この封書は、脅しであると同時に確認だ」
「確認?」
ミアが訊く。
「ディクソンがこちらに保護されていることを、相手はまだ確信していない。だが接触を疑っている。家族を揺さぶれば、こちらの動きが出る。それを見るつもりだ」
「じゃあ、動いたらバレる?」
「だが、動かなければディクソンが折れる」
フローラが戻ってきた。
「だから、動く。でも見せ方を選ぶ」
サムは頷いた。
「フローラ。君が行け。護衛は二名。表向きは市医療局の巡回診療。敵の監視があれば逆に炙り出せ」
「了解」
「ビアンカ」
「なに?」
「君も同行してくれ」
ミアが反応する。
「ビアンカが?」
「ディクソンの家族保護は重要だ。現場判断ができる者がいる」
ビアンカは頷いた。
「分かったわ」
ミアは少し不安そうに見る。
「気をつけて」
ビアンカは軽く笑った。
「あなたに言われる日が来るとはね」
「真面目に言ってるの」
ミアは少し頬を膨らます。
「分かってる」
ビアンカはミアの頭にそっと手を置いた。
「すぐ戻るわ」
⸻
夕方。カステルッチ郊外の小さな住宅街。雨は上がり、道路には水たまりが残っていた。
フローラとビアンカは、市医療局の職員に扮してディクソンの母親の家へ向かった。同行する情報局員二名は、医療助手の格好をしている。
家は静かだった。庭先の花壇には手入れの跡がある。窓辺の白いカーテンは古びているが清潔だった。
ビアンカは周囲を見る。
向かいの通りに停まった車。
新聞を読む男。
角のパン屋の前で雨宿りを装う若い女。
全部が普通に見える。普通に見えるものほど、怪しい。
「右向かいの車」
ビアンカが小声で言う。フローラは微笑んだまま答えた。
「こっちに気づいてる」
「パン屋の女も」
「その様ね…あなた、やっぱり優秀ね」
「ちょっとだけ目が良いのよ」
「スナイパーだけに?」
「一応ね」
二人は玄関を叩いた。中から年配の女性が出てくる。
「どちら様?」
フローラは柔らかく微笑む。
「市医療局です。高齢者向け巡回診療で参りました。少しお時間よろしいでしょうか」
女性は不思議そうにしながらも、扉を開けた。その瞬間、通りの向こうの蒸気車がわずかに動いた。
ビアンカの目が細くなる。
「来るわね」
「ええ」
フローラは女性へ優しく言う。
「奥へ。すぐに説明します」
その直後、パン屋の前の女が動いた。同時に、車の扉が開き二人の男が降りてくる。手には短銃。
ビアンカは医療鞄を放り出し、その中から中折れ式の拳銃を抜いた。
「伏せて!」
ビアンカの叫びと同時に銃声がし、玄関の柱が弾ける。フローラはディクソンの母親を抱えるようにして家の奥へ押し込んだ。
ビアンカは玄関脇から応射する。男の一人が腕を押さえて倒れ込む。
パン屋の女が短剣を抜いて迫る。フローラが横から飛び出し、相手の手首を掴んで壁へ叩きつけた。
犬族の脚力で一気に踏み込み、肘を鳩尾へ入れる。女は息を詰まらせ、その場に崩れた。
「一人確保!」
「こっちも一人!」
ビアンカが叫ぶ。
残る男は蒸気車へ戻ろうとするが、医療助手に扮した情報局員が横から飛びかかり、男を地面へ押さえつけた。
短い戦闘だった。だが、住宅街には確かに銃声が響いた。近所の窓が開き、悲鳴が上がる。
フローラは即座に指示を出す。
「撤収! 予定変更、第二保護場所へ!」
「了解!」
ビアンカは周囲を確認しながら、ディクソンの母親を車へ誘導した。
女性は震えていた。
「いったい、何が……エドガーに何かあったのですか」
ビアンカは少しだけ迷い、そして言った。
「息子さんは、無事です。今、正しいことをしようとしています」
女性はビアンカを見る。その目に、恐怖とは別のものが浮かんだ。
「……あの子が?」
「ええ」
「そう」
女性は震える手で胸元を押さえた。
「なら、私は行きます」
その声は弱かったが、はっきりしていた。
⸻
安全家屋に報告が入ったのは、日が落ちた直後だった。
フローラとビアンカは無事。
ディクソンの母親も保護。
襲撃者三名を確保、一名は軽傷。
全員、アーリア系列企業と直接繋がる身分証は持っていなかったが、装備は明らかに素人のものではなかった。
サムは報告書を見ながら言う。
「やはり動いたな」
ミアは椅子に座ったまま、拳を握っていた。
「ビアンカは?」
「無事だ」
その言葉を聞いて、ミアはようやく息を吐いた。しばらくして、ビアンカとフローラが戻ってきた。
ミアは思わず駆け寄る。
「ビアンカ!」
「ただいま」
「怪我してない?」
「かすり傷ひとつないわ」
フローラが横から言う。
「私もいるんだけど」
「もちろんフローラも!」
「順番が少し寂しいわね」
フローラは冗談めかして言ったが、表情はすぐ真剣になる。
「襲撃は予想より早かったわ。エルンストは焦っている」
「それとも、こちらを焦らせたいか」
そうサムが言うとフローラは頷く。
「両方ね」
ビアンカはミアを見る。
「ミア、あなたの方は?」
「大丈夫。ずっと中にいたよ」
「偉い」
「…子ども扱いしてない?」
「ん〜少ししてる」
「ひど〜い」
いつものやり取り。だが、ミアはビアンカの袖を少しだけ掴んでいた。ビアンカはそれに気づき、何も言わなかった。
⸻
夜。保護場所を移されたディクソンは、母親と短い面会を許された。
小さな部屋。テーブルを挟んで向かい合う親子。ディクソンは母の顔を見るなり、深く頭を下げた。
「母さん……すまない」
母はしばらく彼を見ていた。そして、静かに言った。
「何をしたの」
ディクソンは答えられなかった。
「…昔から、あなたは失敗を怖がる子だった」
母の声は穏やかだった。
「でもね、エドガー。失敗より怖いのは、失敗を隠して別の誰かに責任を背負わせることよ」
ディクソンの顔が歪む。
「……私は、それをした」
「…なら、返しなさい」
「返す?」
「背負わせたものを、返しなさい。遅くても、今からでも」
ディクソンは涙をこらえるように目を閉じた。
「公聴会で話す」
「そう」
母は小さく頷いた。
「なら、私は待っています」
「許してくれるのか」
「それを決めるのは、私ではないでしょう」
ディクソンは何も言えなかった。母は静かに続けた。
「でも、逃げないなら、私はあなたの母親でいます」
その言葉で、ディクソンはとうとう顔を覆った。
⸻
同じ頃。高級ホテルの一室で、ジュリアードは怒鳴っていた。
「襲撃だと!? 馬鹿なことを!」
エルンストは冷静だった。
「我々ではありません」
「しらばっくれるな!」
「正確には、私の直接命令ではありません。ディクソンへの圧力をかける班が、判断を誤った様です」
「同じことだ!」
ジュリアードの顔は青ざめていた。
「公聴会前に騒ぎを起こすなと言ったはずだ!」
「幸い、表には出ません。情報局が処理するでしょう。彼らも自分たちの存在を明かせない」
「だが、これでディクソンは完全に向こうへ傾くぞ!」
「もともと傾いていた可能性があります」
エルンストは言った。
「あなたの管理不足では?」
ジュリアードは机を叩いた。
「私に責任を押し付けるな!」
「責任とは、最後に残った者へ押し付けるものです」
その言葉に、ジュリアードは凍りつく。十年前、自分がディクソンへ言った言葉に似ていた。
責任者が必要だ。死人は反論しない。今、その論理が自分へ向かってきている。
エルンストは静かに立ち上がった。
「公聴会まで、あと二日です。局次長。もう後戻りはできません」
彼は部屋を出ていった。
ジュリアードは一人、雨に濡れる窓を見つめる。盤面はまだ自分のものだ。そう思いたかった。だが、どこかで駒がひとつ、確実に裏返った音がした。
⸻
深夜。安全家屋の地下作戦室。サムは全員を集めた。
「状況が変わった」
机の上には、新しい移動計画が置かれている。
「ディクソン、ヴァレンティ、ハンス、クエンティン、ミア、ビアンカ。公聴会で重要証言を行う者、または敵が狙う可能性が高い者は、当日まで分散配置する」
「私も?」
ミアが訊く。
「当然だ」
「コラージョは?」
「別ルートで議事堂近くまで運ぶ」
コラージョが倉庫の方で低く鳴った。
「不満は聞かん」
サムがコラージョに向かって言う。ミアが苦笑した。
「サム、コラージョにも厳しいね」
「等しく厳しいつもりだ」
「自覚あるんだ」
「ある」
ビアンカが小さく笑った。サムは続ける。
「明日は最終確認だ。公聴会は明後日。相手は必ずもう一度仕掛ける。油断するな」
誰も異論はなかった。ミアは机の上の資料を見る。
父の名誉。
ディクソンの証言。
ギヤ爺の証言。
Qじいの分析。
ヴァレンティの覚悟。
そして、アーリア・インダストリーの陰謀。すべてが、二日後の議場へ向かって集まっている。
ミアは小さく息を吸った。
「お父さん」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「ちゃんと、見てるから」
ブレスレットは静かだった。だが、彼女にはなぜか、その静けさが答えのように思えた。
外では、また雨が降り始めていた。カステルッチの夜に、細い雨音が重なる。
公聴会まで、あと二日。証言する者たちは守られ、狙う者たちは刃を研ぐ。
真実が議場へ届くか。それとも、届く前に沈黙させられるか。首都の夜は、静かにその時を待っていた。
続く




