第43話「帰還」―揃った盤上の駒
イーストウォール諸島を離れた小型高速船は、夜の海を切るように進んでいた。
船体は黒く塗られ、灯火は最小限。
波を裂く音さえ、闇に吸い込まれていく。
甲板の中央には、固定具で厳重に縛られたコラージョがあった。
黒い猫のような蒸気バイクは、不満そうに低くゴロゴロと鳴っている。
「大丈夫だって。ちゃんと一緒に行くから」
ミアが車体を撫でると、コラージョの尾のような排気管が、わずかに揺れた。
ビアンカはその様子を見ながら、甲板の手すりにもたれていた。
「あなたよりコラージョの方が、死んだふりに向いてなさそうね」
「コラージョ、嘘つくの苦手そうだもん」
「あなたも大概よ」
「ひどい」
ミアは少しだけ頬を膨らませた。
だが、その表情はすぐに曇る。カステルッチに着けば、ディクソンと会う。十年前、父エンリコ・フォルトゥナの事故に関わった男。
彼が何を知っているのか。
何を隠していたのか。
そして、何を語るのか。
その答えが、もうすぐ目の前に来る。
ビアンカはミアの隣へ立った。
「眠れそう?」
「無理」
「でしょうね」
「ビアンカは?」
「無理ね」
「だよね」
二人は並んで暗い海を見た。遠く、イーストウォールの灯台の光はもう見えない。代わりに、進む先には首都カステルッチがある。
死んだことになっていた者たちが、再び舞台へ戻ろうとしていた。
⸻
夜明け前。船はカステルッチ港の外れ、使われなくなった古い補給桟橋へ入った。
表の港ではない。
軍港でもない。
かつて国防省が使っていたが、今では倉庫と記録上の施設だけが残る場所だった。
そこに、数名の情報局員が待っている、その中でひときわ目立つ人物がいた。
長身で細身の犬族の女性。
黒毛のロングヘアを後ろで束ね、濃い色のコートをまとっている。
フローラ・ダルトン。
彼女はサムに向かって軽く敬礼した。
「お帰りなさい、主任。消息不明者にしては、皆さんお元気そうで何よりです」
「君も相変わらずだな」
「おかげさまで」
フローラは次に、ミアたちへ視線を向けた。
「ミア・デラ・フォルトゥナさん、ビアンカ・アンドリーニさん。フローラ・ダルトンです。お会いできて光栄です」
ミアは少し首を傾げた。
「私たち、臨時だけど同じ情報局の職員なんでしょ? 敬語じゃなくていいよ」
フローラは一瞬だけ目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「では、そうさせてもらうわ。よろしく、ミア」
「うん。よろしく、フローラ」
ビアンカも軽く会釈する。
「ビアンカよ。よろしく」
「あなたのことは、サムから聞いているわ」
「サムから?」
ビアンカがちらりとサムを見る。サムは無表情のまま荷下ろしを確認していた。
フローラは声を少し落として言う。
「彼、あなたのことをかなり評価しているわ。判断力も観察力も、エージェントとして申し分ないって」
ビアンカはわずかに目を見開く。
「……サムが?」
「ええ。ただ、本人は絶対に面と向かって言わないでしょうけど」
「言う必要がないからだ」
サムが横から言った。
フローラは肩をすくめる。
「ほらね」
ミアがにやにやしながらビアンカを見る。
「ビアンカ、褒められてる」
「茶化さない」
「照れてる?」
「照れてません」
ビアンカは冷静に返したが、耳元が少し赤くなっていた。
⸻
荷下ろしが終わると、フローラは一台の黒いトラックへ案内した。
「安全家屋を用意してあるわ。ディクソンとの面会は、今日の夕方。旧港湾監督局の保管庁舎を使う」
「彼は来るのか」
サムが訊く。
「来るわ。迷っていたけれど、最終的には承諾した」
「ジュリアードは?」
「ディクソンの変節にはまだ気づいていない。少なくとも、ミアが関わるとは思っていないはず」
ミアの耳が小さく動く。
「じゃあ、私のことは知られてない?」
フローラは少しだけ表情を引き締めた。
「いいえ。アーリア・インダストリー側にとってはあなたは相変わらず監視対象よ。正確には、あなたが持つ技術ね」
サムが補足する。
「列車襲撃事件で我々と接触したデアベルドミッテ側の協力者、フリードリヒ・クライン。彼からアーリア側へ情報が流れているんだろう」
ミアの顔が険しくなる。
「クライン……」
「あの事件で彼らは、君が小型蒸気リアクターや未知の解析技術を持っている事を確信しただろう。事故船の原因を突き止めたのも、君の技術だと考えているはずだ。」
「間違ってはいないけど、全部把握されていないはずよ」
「そこが重要だ」
サムは低く言った。
「君と古代文明の繋がりまでは掴まれていない。ブレスレットの本質も知られていない。だが、未知の新技術を持つ技術者としては十分に狙われる」
ミアと古代文明の繋がりについては、既にバーナード局長からフローラには説明されている。もちろんサムから事前にミアには承認を得た上でだ。
そのフローラが続ける。
「それと、コラージョもね」
船から降ろされたコラージョが低く鳴った。
「列車襲撃時、彼らはコラージョの奪取に失敗している。あのバイクに備わった戦闘力、自走制御、そして共振制御技術。アーリア・インダストリーが欲しがるには十分すぎるわ」
ミアはコラージョの方を見た。
「コラージョは絶対渡さない」
「渡さないために、こちらも警備を厚くする」
サムが言う。
「ただし、君自身も不用意に動くな」
「分かってる」
ビアンカが横から言う。
「本当に?」
「かなり分かってる…と思う」
「その言い方が不安なのよ」
⸻
安全家屋は、カステルッチ旧市街の一角にあった。
外から見れば、古い商会の事務所。
中は二階建てで、地下に小さな作戦室と通信設備がある。
ミアたちはそこで簡単な朝食を取り、しばらく休むことになった。だが、休む間もなく問題がひとつ起きた。
ギヤ爺である。
ミアとビアンカはエージェントとして活動を始めた時からスーツスタイルだが、彼は相変わらずいつもの革のロングコートにレザーパンツ、重いブーツという姿のまま、堂々と椅子に座っていた。
公聴会で証言する予定の人物とは思えない。フローラはそれを見て、にこやかに言った。
「ギヤ爺さん。公聴会用の服を用意してあるわ」
「いらん」
即答だった。
「俺はこれで行く」
「議事堂の特別公聴会場に?」
「そうだ」
「北方採掘場の元所長として?」
「そうだ」
「革のロングコートで?」
「何が悪い」
フローラは微笑みを崩さなかった。
「悪くはないわ。ただ、証言の説得力を上げるには、場に合わせた装いも武器になるの」
「服で証言が変わるか」
「変わらないけど、聞く側の態度は変わるわ」
ギヤ爺は眉をひそめた。
「面倒くさい世の中だな」
「ええ。だからこちらも利用するの」
フローラは部屋の隅に置かれた衣装箱を開けた。中には、濃いグレーの特注スーツが入っていた。義手の可動域に合わせて袖口が調整され、腕も収まる様に肩周りも少し広く作られている。
「寸法は合うのか?」
ギヤ爺が警戒する。
「私は情報局員よ、必要な寸法くらい把握済み」
「いつ測った?」
「秘密」
「怖い女だな」
「よく言われる」
ミアは目を輝かせた。
「ジジイ、着てみて!」
「断る」
「絶対似合うって!」
「その言い方は信用できん」
ビアンカが静かに言う。
「公聴会で証言するなら、着替えた方がいいと思うわ」
サムも書類を見ながら短く言った。
「同意する」
頭に丸いランプが付いた拡大鏡を付け、装備品を修理しているQじいが頷く。拡大鏡から覗く目が数倍大きく見える。
「まあ、たまには人間らしい格好をせい」
「お前にだけは言われたくない」
ギヤ爺は最後まで抵抗したが、フローラに穏やかな笑顔で試着室へ押し込まれた。
「ついでに髪も整えましょう」
「髪までか!?」
「もちろん」
「俺は証人であって花婿じゃねえぞ!」
「花婿には少し迫力がありすぎるわね」
扉が閉まる。しばらく中から低い文句が聞こえた。
そして数分後。
扉が開いた。出てきたギヤ爺を見て、部屋が静まり返った。
濃いグレーのスーツ。
整えられたシャツ。
磨かれた靴。
金属義手は袖から自然に出るよう調整されている。
そして髪型は、なぜかきっちり七三分け。見事なまでに、重厚な裏社会の大物のようだった。
サムは無言で視線を逸らした。
ビアンカは口元を押さえ顔を横に向ける。
Qじいは肩を震わせている。
ミアだけが遠慮なく爆笑した。
「ジジイ! マフィアのボスじゃないんだから!」
「誰がマフィアのボスだ!」
ギヤ爺が怒鳴る。
「いや、これは……確かに少し」
ビアンカが言いかけて、笑いをこらえる。
サムは咳払いをした。
「……証人としての威厳はある」
「今、間があったぞ」
「気のせいだ」
フローラは満足げに頷いた。
「大丈夫。公聴会では非常に印象に残るわ」
「それは褒めてるのか?」
「もちろん」
ミアはまだ笑っている。
「ジジイ、葉巻持ったら完璧」
「持つか!」
久しぶりに、安全家屋の空気が少しだけ軽くなった。だが、その軽さは長くは続かない。
午後には、ディクソンとの面会が待っている。
⸻
その頃、カステルッチ市内の高級ホテルでは、ジュリアードがエルンスト・ヴァイスと密会していた。
部屋のカーテンは閉じられ、机には新聞と議会関係者の名簿が広げられている。
エレンの姿はなかった。
情報局本部への侵入失敗後、彼女は姿を隠している。
ジュリアードは苛立っていた。
「資料の奪取に失敗したそうだな」
エルンストは涼しい顔で答える。
「情報局内部の協力者が未熟でした」
「責任転嫁か」
「事実です」
ジュリアードは舌打ちした。
「世論は民営化へ向いている。上院の何人かもこちらに乗る。公聴会でヴァレンティを潰せば流れは決まる」
「問題はディクソンです」
「彼は臆病者だ。私が抑える」
「臆病者は、時に最も危険です」
エルンストは机の上に一枚のメモを置いた。
「それと、この娘」
ジュリアードの眉が動く。
「監視対象者の猫娘か。死んだのではないのか」
「分かりません。ですが、彼女の技術は我々にとって重要です」
「小型リアクターか」
「それだけではありません。列車襲撃時に確認された猫型スチームバイク、。自走制御、戦闘行動、共振制御。あれは民間技術の域を超えています」
「クラインの情報か」
「ええ。彼は接触時にかなりの異常性を確認しています」
エルンストは続ける。
「ミア・デラ・フォルトゥナ本人も、バイクも、可能なら確保すべき対象です」
「公聴会前に騒ぎを起こすつもりか?」
「こちらから大きく動くつもりはありません。ただ、出てきた場合は別です」
ジュリアードは不快そうに目を細めた。
「ディクソンは?」
「監視します。もし妙な動きがあれば、止めるまで」
「止める、とは?」
エルンストは微笑んだ。
「必要な方法で」
ジュリアードはその笑みを見て、しばらく黙った。自分が危険な相手と手を組んでいることは分かっている。
だが、もう戻れない。戻れば、自分が沈む。
「公聴会まで三日だ」
ジュリアードは低い声で言った。
「失敗は許されないぞ」
「承知しています」
エルンストは立ち上がる。
「ですが、局次長。失敗を恐れるなら、まず味方を疑うべきです」
「どういう意味だ」
「裏切る者は、敵より先に隣から出ます」
その言葉を残し、エルンストは部屋を出た。ジュリアードは一人残され、窓の外の議事堂の灯りを見つめる。
ディクソン、ヴァレンティ、バーナード。そして、ミア・デラ・フォルトゥナ。
見えない駒が、盤上に戻り始めている。
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午後。旧港湾監督局の保管庁舎。赤茶けた煉瓦造りの建物の中で、ミアは窓際に立っていた。
面会の時間が近づいている。サム、ビアンカ、フローラが同席する。Qじいとギヤ爺は別室で待機。コラージョは裏手の倉庫に隠されていた。
ミアは両手を握りしめていた。
ビアンカが隣へ来る。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「そうね」
「でも、逃げない」
「うん」
ビアンカはそれ以上、何も言わなかった。やがて、廊下の向こうで足音がした。
扉が開く。エドガー・ディクソンが入ってきた。
痩せた顔。
暗い目。
震える手。
彼はミアを見た瞬間、息を止めた。
「……君は!」
ミアはまっすぐ彼を見た。十年前、焼けた研究所で見た男。父の死のあと、目を逸らした男。そして今、父の真実を知っているかもしれない男。
ミアは小さく息を吸った。
「久しぶり、ディクソンさん」
部屋の空気が、静かに張り詰めた。十年前の亡霊が、ようやく同じ部屋に揃った。
続く




