第37話「靴職人の娘」―イーストウォール紛争の記憶②
イーストウォール紛争が勃発した当時。ビアンカ・アンドリーニは、十九歳だった。
ローマン共和国海兵隊第三師団第一大隊伍長。狙撃班所属。
部隊では、ただ「アンドリーニ」と呼ばれていた。
だが、そのずっと前。
彼女はまだ、銃を持つ少女ですらなかった。
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ビアンカが十歳の頃。
彼女の父、ロレンツォ・アンドリーニは、ネオ・ジェノバの下町で靴職人をしていた。
工房は狭い。
革の匂い。
糊の匂い。
油を吸った木床。
壁一面に並ぶ木型。
父の手は、いつも傷だらけだったが、その手が作る靴は美しかった。堅牢で、履く人の足に馴染み、長く使える。
ロレンツォは無口な男だったが、靴の話をするときだけは少し饒舌になった。
「いい靴はな、足を守るだけじゃない。人を遠くへ連れていく」
幼いビアンカは、その言葉が好きだった。
父には、もうひとつ趣味があった。ハンティングである。休日になると、彼は時々、山へ出かけた。
最初、ビアンカは連れていってもらえなかった。だが、彼女はしつこかった。
「私も行きたい」
「だめだ」
「どうして?」
「山は遊び場じゃない」
「じゃあ遊ばない」
「銃もある」
「触らない」
「寒いぞ」
「我慢する」
「山を歩くと疲れるぞ」
「……それでも歩く」
「……お前は母さんに似て頑固だな」
結局、父は根負けした。
初めて連れていかれた山で、ビアンカは寒さに震え、足を泥だらけにし、昼過ぎには疲れて黙り込んだ。
だが、泣き言は言わなかった。父はそれを見て、少しだけ感心したようだった。それから何度か山へ行くうちに、父はビアンカに銃の扱いを教える。
最初は小口径のライフルだった。
もちろん、狩りをさせるためではない。危険な道具を危険なものとして理解させるためだった。
「銃口は絶対に人へ向けるな」
「はい」
「撃つ時以外、指を引き金にかけるな」
「はい」
「見えないものを撃つな」
「はい」
「一度撃った弾は二度と戻らない」
その言葉だけ、父の声が少し低くなった。幼いビアンカは、その意味を完全には理解していない。だが、父の顔を見て、それが冗談ではないことだけはわかった。
ビアンカは飲み込みが早かった。
構え方。
呼吸。
狙い。
引き金を絞る感覚。
最初は肩に力が入り、狙いもぶれた。だが、何度も撃つうちに、彼女は自分の呼吸と照準が重なる瞬間を覚える。
父は驚いた。
「もう一度」
ビアンカは撃った。
空き缶が倒れる。
「もう一度」
また倒れた。
父は何も言わず、缶をさらに遠くへ置く。
ビアンカは目を細めた。
息を吸う。
吐く。
止める。
撃つ。
缶が跳ねた。
父はしばらく黙りこみ、そしてぼそりと言った。
「……筋がいい」
ビアンカはその一言が嬉しかった。父に褒められることは、めったになかったからだ。
それから数年。
彼女の腕は伸びていく。公立学校を卒業する頃には、もう父を凌ぐほどになる。
ロレンツォは、娘の腕前を誇るような顔はしなかった。むしろ、複雑そうだった。上達すればするほど、彼は口数を減らす。
ある日、ビアンカが遠くの的を撃ち抜いた時、父はライフルを下ろさせて言った。
「ビアンカ。覚えておけ」
「なに?」
「上手く撃てることと、なんでも撃てることは違う」
「……わかってる」
「いや。たぶん、まだわかっていない」
父の横顔は、いつもよりずっと老けて見える。それは、ビアンカが初めて見る父の顔だった。
父ロレンツォは元ピエトロ王国軍の兵士だった。若い頃に徴兵され戦場を経験し、その後、移民としてローマン共和国へ渡ってくる。ローマン共和国で同郷の母と出会い、靴職人として生きてきた。
だからこそ、父は銃を軽く見なかった。戦場を、名誉や勇気だけで語ることを嫌った。
だが、当時のビアンカには、それがよくわからない。
彼女には、彼女自身の悩みがあった。
将来の夢。そう聞かれても、何も浮かばなかった。靴職人になるつもりはない。母のように商店を切り盛りする自分も想像できなかった。
何かを作りたいわけでもない。
学者になりたいわけでもない。
誰かの妻になることを夢見る年頃でもなかった。
ただ、胸の奥にずっと引っかかっているものがある。
自分は何者なのか。
ローマン共和国で生まれ、ローマン共和国の学校に通い、ローマン共和国の言葉で暮らしている。
だが、家に帰れば、父の故郷の言葉が混じる。食卓にはピエトロ風の料理が並ぶ。
近所の子どもに、からかわれたこともある。
「ピエトロ人」
「移民の娘」
「共和国人のふりをしてる」
悪意のない言葉もあった。
だが、悪意がないからこそ、深く刺さることもある。
ローマン共和国は建国から百三十年ほどの若い国で、国民の多くは移民。それでも、独立前から住んでいる家系と、後から渡ってきた移民二世では、微妙に見られ方が違うことがあった。
ビアンカは、自分がローマン共和国の人間であることを疑っていたわけではない。けれど、それを自分自身で確かめる術を持っていなかった。
誰かに認められたいのではない。
国に忠誠を誓いたいのでもない。
愛国心という大きな言葉は、彼女にはしっくりこない。ただ、自分がこの国の一人の人間なのだと、はっきり感じたかった。そして根を張る場所が欲しかった。その思いが、やがてひとつの答えに向かっていく。
国の軍隊。ローマン共和国海兵隊。
港町ネオ・ジェノバで育った者にとって、海兵隊の存在は遠いものではなかった。
港には軍艦が入り、制服姿の海兵が歩いている。災害の時には救助に出て、海外の在留共和国民を守るために派遣される。時には、最初に危険地帯へ入る。
ビアンカは、そこに自分の居場所を見つけられるかもしれないと思った。
だが、その考えを両親に告げた夜。食卓の空気は凍りついた。
「私、海兵隊に入りたい」
母は手に持っていた皿を落としそうになる。父は、何も言わなかった。ただ、ナイフとフォークを置く、その音が、やけに大きく聞こえた。
「だめだ」
父は言った。
「まだ何も説明してない」
「説明はいらない。だめだ」
「どうして?」
「戦場を知らないからだ」
「知ってる人だけが兵士になるわけじゃない」
ビアンカは言い返す。
「それにまだ理由も言ってない」
「理由など関係ない」
父の声は静かだったが、その静けさが怖かった。
「軍隊は、お前が自分探しのために行く場所じゃない」
ビアンカは反発する。
「自分探しなんかじゃない」
「同じことだ」
「私は、この国のために――」
「違う」
父は初めて声を荒げた。
「戦場を知らない者ほど、国のためという言葉を軽く使う」
その言葉に、ビアンカも黙らない。
「お父さんだって軍人だったじゃない」
「だから反対している」
父の目には、普段見せない暗いものがあった。
「私は本気よ」
「本気ならなおさらだ」
母が間に入ろうとした。
「ロレンツォ、少し落ち着いて――」
「落ち着いている」
父の声は低かったが、その低さの奥に怒りがあった。
いや、怒りだけではない。
恐れ。ビアンカはそれを感じ取った。
「お前は銃が上手い。それは知っている。だが、それで戦場へ行けると思うなら間違いだ」
「そんな簡単に考えてない」
「考えていないから言えるんだ」
「私は、自分で決めたいの」
「決めた先で死ぬこともある」
「それでも」
その瞬間、父が立ち上がった。椅子が床を擦って大きな音を立てる。
「それでも、などと軽く言うな!」
ビアンカは息を呑んだ。父がここまで声を荒らげるのを、ほとんど見たことがなかった。
父は拳を握っていた。だが、それは娘を殴るためではない。自分の中から溢れそうになる何かを、必死に押さえるためだった。
「戦場ではな、人は簡単に死ぬ。立派な理由があっても死ぬ。正義を信じていても死ぬ。何も知らない子どもも死ぬ。昨日まで笑っていた仲間も、次の瞬間には肉の塊になる」
母が顔を伏せ、ビアンカは動けなかった。
父は続ける。
「私はそれを見た。だから、お前には見せたくない」
「……お父さん」
「頼む。別の道を選べ」
それは、命令ではなく父の願いだった。だからこそ、ビアンカの胸は痛んだ。だが、それでも彼女の中の何かは止まらなかった。
自分の人生を、自分の手で掴みたい。自分が何者なのかを、誰かの言葉ではなく、自分の足で確かめたい。
その思いは、父の恐れを前にしても消えなかった。
それから家の中では、何度も話し合いが行われる。
時には口論になり、時には沈黙になった。
母は泣き、父は黙りこむ。
ビアンカも泣いた。それでも、彼女は考えを変えなかった。公立学校を卒業してすぐには、入隊しなかった。父との約束で、二年間だけ働く。
靴工房の手伝い。
港の倉庫での帳簿整理。
自分の射撃練習を兼ねて、射撃場の雑用もした。
その間にも考え直せと父は言った。
ビアンカも考えた。本当に何度も考えた。それでも、答えは変わらない。
十七歳の春。ビアンカは、ローマン共和国海兵隊に入隊した。それは、父の願いに背く道。そして同時に、彼女が初めて自分の足で選んだ道でもあった。
続く




