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スチームパワード アドベンチャー ミアとビアンカ  作者: ELWOOD CRAFTWORKS
第一章 覚醒と陰謀

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第38話「派兵命令」―イーストウォール紛争の記憶③


 訓練は、彼女が想像していたよりもずっと厳しかった。朝は暗いうちに叩き起こされる。


 走る。

 腕立て伏せ。

 装備を背負って行軍。


 泥の中を這う。

 怒鳴られる。

 また走る。


 食事は早く、睡眠は短い。

 靴擦れはすぐに血に変わった。


 皮肉なことに、靴職人の娘であるビアンカは、軍靴のひどさに誰よりも腹を立てていた。


「この靴を作ったやつ、足が木でできてるんじゃないの」


 同期の兵士が笑った。


「アンドリーニ、余裕だな」


「余裕じゃない。怒ってるの」


 その日の夜、彼女は自分の軍靴を分解しかけて、班長に本気で怒鳴られた。


 だが、ビアンカはへこたれなかった。


 体力では、男性兵士に劣る部分もあった。背負える重量にも限界があった。


 だが、彼女は負けず嫌いだった。


 できなければ、やり方を変える。

 力で押せなければ、姿勢を変える。

 長距離で遅れそうになれば、呼吸を整え、無駄な動きを削る。


 そして、射撃訓練の日。


 彼女は初めて、教官たちの表情を変えさせた。


「アンドリーニ、前へ」


「はい」


 渡されたのは、標準的な海兵隊用ライフルだった。重さも癖も、自分が使っていた猟銃とは違う。


 だが、銃の本質は変わらない。


 構える。

 頬付け。

 呼吸。

 狙う。

 撃つ。


 一発目。中心近く。


 二発目。さらに内側。


 三発目。的の黒点が削れた。


 教官が無言になり、周囲の同期たちも、ざわついた。


「もう一度」


 教官が言った。

 ビアンカは撃つ。

 結果は同じだった。


 その日の午後、彼女は別の銃を渡された。


 距離が伸びた。

 風が読みにくい場所に移される。

 姿勢を変えさせられた。


 伏せ撃ち。

 膝撃ち。

 遮蔽物越し。

 間に移動しながらの射撃。


 ビアンカは全てに対応した。

 もちろん、完璧ではない。


 失敗もした。

 教官に怒鳴られもした。


 だが、彼女には明らかに才能があった。そして、それ以上に、集中力があった。


 目標を前にすると、周囲の雑音が消える。心拍と呼吸だけが残る。


 世界が細くなり、照準の先へ集まっていく。その感覚を、彼女は幼い頃から知っていた。


 数か月後。


 ビアンカは選抜され、狙撃手課程へ送られた。そこからが、本当の意味での地獄だった。


 狙撃手に必要なのは、射撃の腕だけではない。


 観察。

 忍耐。

 地形の読み。

 風の読み。


 距離の測定。

 偽装。

 撤収経路の確保。

 撃たない判断。


 待つこと。ひたすら待つこと。泥の中で何時間も動かず、虫に刺されても反応しない。雨に濡れ、体温を奪われても姿勢を保つ。目標を見つけても、撃つ命令がなければ撃たない。


 撃てるのに撃たない。

 それは、撃つことより難しかった。


 ある訓練で、ビアンカは目標役の教官を発見した。


 距離も取れている。

 風も読めている。

 撃てば当たる。


 だが、彼女は撃たなかった。


 隣にいた観測手候補の兵士が小声で言う。


「なぜ撃たない?」


「右の茂みが不自然」


「どこ?」


「あそこ。枝の折れ方が新しい。囮かもしれない」


 三十秒後。別の位置から教官が姿を現した。最初に見えていた目標は、ただの囮だった。


 訓練後、教官はビアンカに言う。


「アンドリーニ。お前は、撃つより先に疑う癖がある」


「悪い癖ですか?」


「狙撃手にはいい癖だ」


 その言葉は、ビアンカの中に残った。


 撃つことよりも、見ること。

 倒すことよりも、守ること。

 敵を探すことよりも、危険を見抜くこと。


 彼女は少しずつ、自分の銃の意味を変えていった。


 十八歳になる頃には、ビアンカは部隊内で知られる存在になっていた。


 移民二世の娘。

 靴職人の娘。

 口が達者で、負けず嫌い。


 だが、射撃となれば誰よりも静かになる。上官からの評価も高かった。やがて彼女は伍長に昇進した。


 若すぎるという声もあった。女だから目立つだけだという陰口もあった。だが、ビアンカは気にしなかった。気にしないふりをしていた。


 本当は、少しだけ気にしていた。だが、それを認めるのも悔しかった。


「アンドリーニ伍長」


 初めてそう呼ばれた時、彼女は一瞬だけ返事が遅れた。


「聞こえているか、アンドリーニ伍長!」


「イエッサー!」


 その響きは、まだ自分のものではないように感じた。だが同時に、胸の奥に何かが灯った。自分はここにいる。


 ローマン共和国海兵隊の一員として。誰かの娘でも、移民二世でも、曖昧な何者かでもなく。


 アンドリーニ伍長として。


 その実感は、彼女が求めていたものに少し似ていた。だが、その代償を、まだ知らなかった。


___


 入隊三年目の十九歳の夏。イーストウォール諸島をめぐる情勢が悪化した。


 最初は、基地内の噂だった。


 ピエトロ王国の艦艇が増えている。

 外交交渉が止まった。

 現地で共和国系住民への嫌がらせが起きている。


 漁船が拿捕された。

 通信施設に何者かが侵入した。


 ビアンカたちは、いつも通り訓練を続けながらも、空気が変わっていくのを感じていた。


 上官たちの顔が硬い。

 通信兵が慌ただしい。

 弾薬の点検が増える。

 装備の確認が細かくなる。


 誰もはっきりとは言わない。だが、兵士たちは皆、わかっていた。何かが来る。


 ある朝。部隊全員が招集された。

 格納庫に似た大きな集会所に、海兵たちが整列する。蒸気暖房の配管が、低く唸っていた。


 外では雨が降っていた。鉄屋根を叩く音が、やけに耳についた。前方に立った大隊長が、ゆっくりと口を開く。


「本日未明、ピエトロ王国軍の一部部隊が、南イーストウォール本島へ上陸した」


 誰も声を上げなかった。

 だが、空気が一瞬で変わった。

 ビアンカは、背筋が冷たくなるのを感じた。


「ローマン共和国政府は、これを不法な軍事行動と判断した。現地の共和国市民、および駐在員の安全確保が最優先となる」


 大隊長の声が、集会所に響く。


「我々海兵隊は、イーストウォール諸島への派遣準備に入る」


 ビアンカの指が、わずかに動いた。


 派遣。

 戦場。


 父の声が、頭の奥で蘇った。


 戦場では、人は簡単に死ぬ。

 立派な理由があっても死ぬ。

 正義を信じていても死ぬ。


 ビアンカは唇を結んだ。


 隣に立つ同期の兵士が、小さく息を呑んでいる。誰かが緊張で喉を鳴らした。


 大隊長は続けた。


「これは領土をめぐる紛争であると同時に、現地住民の保護任務でもある。各員、装備を整え、命令を待て」


 解散の号令がかかり、兵士たちは一斉に動き出した。


 足音。

 命令。

 金属音。

 誰かの冗談。

 それに返す乾いた笑い。


 ビアンカはその場に一瞬だけ立ち尽くす、自分で選んだ道だった。


 海兵隊に入り訓練を受けた。

 伍長になり狙撃手になった。


 いつかこういう日が来ることは、わかっていた。


 わかっていたはずだった。

 それでも、現実は想像より重かった。


「アンドリーニ伍長」


 上官の声がした。ビアンカは顔を上げた。


「狙撃班は別室でブリーフィングだ」


「了解」


 返事は自然に出た。体は動くが、胸の奥では、父の声がまだ消えていなかった。


『一度撃った弾は二度と戻らない』


 その言葉が、雨音に混じって何度も響いていた。


___


 岬の上で、ビアンカはそこで言葉を切った。海は相変わらず青かった。


 遠くの南イーストウォール本島は、霞の向こうに静かに横たわっている。


 今はもう、砲声も煙もない。けれど、ビアンカの目には、四年前の雨がまだ残っているようだった。


 ミアは、何も言えなかった。軽い慰めを言うには、ビアンカの話は重すぎた。だから、ただ隣にいた。


 風が二人の間を通り抜ける。しばらくして、ミアは小さく言った。


「ビアンカは……怖かった?」


 ビアンカはすぐには答えなかった。

 それから、少しだけ笑った。


 強がる時の笑いではなかった。

 困ったような、諦めたような笑みだった。


「怖かったわ」


 ミアはビアンカを見上げた。ビアンカは遠くの島を見たまま続けた。


「怖くない兵士なんて、たぶん信用しない方がいい」


「……そうなの?」


「少なくとも、私はそう思う」


 彼女はゆっくり息を吐いた。


「でも、その時はまだ、本当の怖さを知らなかった」


 ミアの耳が静かに伏せた。ビアンカの声は、さらに低くなる。


「イーストウォールで何が起きるのか。自分が何を見るのか。何を撃って、何を守れなかったのか」


 波が崖にぶつかり、白く砕けた。


「その時の私は、まだ何も知らなかった」


 ミアはそっと、ビアンカの袖を掴んだ。ビアンカは少し驚いたように下を見る。


 ミアは何も言わない。ただ、そこにいた。ビアンカは小さく笑って、ミアの頭に手を置いた。


「続きは、また話すわ」


「うん」


「少し長くなるから」


「聞く」


 ミアは迷わず言った。


「ちゃんと聞く」


 ビアンカは、その言葉を受け止めるように目を閉じた。そして、もう一度、遠くの島を見た。


 四年前。


 南イーストウォール本島。

 雨の中、派兵命令を受けた若き海兵隊伍長。ビアンカ・アンドリーニ。


 彼女がまだ、自分の銃の本当の重さを知らなかった頃の物語は、ここから始まろうとしていた。


続く

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