第36話「アンドリーニ伍長」―イーストウォール紛争の記憶①
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イーストウォール諸島北部。
そこにあるローマン共和国軍の中継基地は、地図で見れば小さな点にすぎない。
だが、空と海のあいだに突き出した岬の上に建つその基地は、今のミアたちにとっては、世界の中心のような場所になっていた。
公聴会を控えた彼女たちは、まだローマン共和国本土へ戻っていない。
表向き、ローマン陸軍航空隊所属の飛行艇は消息不明。
実際には、バーナード局長の手筈によって偽装された空白の中に隠され、彼女たちはこの中継基地で次の一手に備えていた。
基地には、常に風が吹いている。
海から吹き上げる潮風。
崖にぶつかって巻き上がる湿った空気。
遠くの海面には、白い波頭が細く光っている。
基地の格納庫には、あの四発飛行艇が身を潜めるように置かれていた。
機体には仮設の布が掛けられ、外からは整備中の旧式輸送艇に見えるよう偽装されている。
そのそばでは、Qじい――クエンティンが分厚い図面束を広げていた。
「ふむ……この応力の逃がし方では、ティルトローター化した場合、主翼付け根に無理が出るな」
鼻の上にずり落ちた眼鏡を上げながら、Qじいが呟く。
隣ではミアが、尻尾をゆっくり揺らしながら覗き込んでいた。
「そこ、量子制御の補助フレームを入れれば大丈夫だと思う。エンジン側の蒸気核制御と、姿勢制御を別々に分ければ、負荷が集中しないはず」
「簡単に言うな。お前さんの“別々に分ければ”は、普通の技師にとっては十年分の研究課題だ」
「でも、Qじいならできるでしょ?」
「そういう顔をするな。断れんだろうが」
Qじいはぼやきながらも、どこか嬉しそうだった。
少し離れた場所では、ギヤ爺が工具箱の上に腰かけ、義手の指を調整していた。
金属の指が、カチ、カチ、と小さな音を立てる。
「クエンティン、こっちの補助翼のリンク機構も見ておいたぞ。少しヘタっていたが、まだ使える。だが、飛びながら無茶をする連中には向かん」
その言葉に、格納庫の入り口にいたビアンカが眉を上げる。
「誰のことを言ってるの?」
「心当たりがあるなら、お前さん達のことだ」
ギヤ爺が平然と言った。
ミアが反論する。
「私達そんなに無茶しないよ。必要な時だけだよ」
「必要な無茶というものが、いちばん厄介なんだ」
ギヤ爺の視線は、格納庫の隅に置かれたコラージョへ向けられた。蒸気リアクターを内蔵した、ミア達の相棒。
今は静かに休んでいるように見えるが、ミアが近づくと、まるで目覚めたように小さな計器灯が灯った。
「コラージョ、おはよ」
ミアが声をかける。
コラージョの後部にある二つの尾灯が、ぽん、ぽん、と柔らかく光った。
黒い尾のような排気管が、直立してわずかに揺れる。
ビアンカが腕を組んで見ていた。
「最近、あなたの言うことの方をよく聞いてる気がするわね」
「そんなことないよ。コラージョはビアンカも好きだよ」
「本当?」
ミアが車体に手を置くと、コラージョの計器灯がまた点滅した。
まるで、答えているようだった。
「ほら」
「……今のは、あなたに合わせただけでしょ」
「嫉妬?」
「違うわよ!」
ビアンカは即答した。
その即答の速さに、サムが書類束を抱えて格納庫へ入ってきながら、少し微笑む。
「平和だな。消息不明扱いの人間たちとは思えない」
「サム、何かわかった?」
ビアンカが尋ねる。
サムは表情を引き締めた。
「本土からの通信は暗号電信で最小限に絞っている。公聴会の日程は、まだ表向き調整中だ。だが、バーナード局長は準備を進めている。チェンバレンのリスト上位にあったジュリアードとディクソンの動きも、こちらで把握している」
「アーリア・インダストリーは?」
「沈黙している。不気味なくらいに」
サムはそこで一度、格納庫の外に目を向けた。
海鳴りが聞こえる。
「向こうも、こちらが死んだとは思っていないだろう。だが、姿を見せなければ、連中は次の手を読めない」
「こっちは窮屈だけどね」
ビアンカが肩をすくめる。
「それでも、生きている人間が隠れているのと、死んだと思われているのとでは違う」
サムの声は静かだった。
ビアンカはそれ以上、何も言わなかった。
ミアは、そんな三人の会話を聞きながら、そっと外を見た。
基地の外には、どこまでも青い海が広がっている。けれど、その青さの向こうには、まだ見えない緊張があった。
公聴会。
証言。
アーリア・インダストリー。
国家保安情報局。
デアベルドミッテ。
ブリタニア。
そして、ローマン共和国。
世界が少しずつ、音を立てずに動いている。そんな気配が、ミアの胸の奥に重く沈んでいた。
だからこそ、その日の午後。ミアは、少しだけ別の空気を吸いたくなった。
「ビアンカ」
「なに?」
「ちょっと、島を見に行かない?」
ビアンカは、書類に目を落としていた顔を上げた。
「島?」
「うん。ずっと基地の中にいると、頭がぎゅうぎゅうになるから」
「あなた、さっきまで格納庫で一番楽しそうに図面を見てたじゃない」
「あれは別腹」
「図面に別腹があるの?」
「あるよ。技術者にはある」
ビアンカは呆れたように息を吐いた。だが、その顔には少しだけ笑みがあった。
「いいわ。どうせサムの書類仕事を手伝うと、あと三時間は眉間にしわを寄せることになるし」
サムが横から言う。
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言ったのよ」
「なるほど。なら、行ってこい。基地の外周から出るなよ。南側の旧監視道までは許可を取ってある」
ミアの耳がぴくっと動いた。
「サムおじ、準備いいね」
「君たちがじっとしていないことくらい、そろそろ学んだ」
サムは淡々と言った。
「ありがとう、サム」
ビアンカは軽く手を上げ、ミアと一緒に格納庫を出た。
岬へ向かう道は、石と短い草に覆われていた。
風が強い。
ミアのツインテールが左右に揺れ、耳の先が潮風を受けて震える。
ビアンカは歩調を少しだけ緩めた。
ミアの歩幅に合わせているのだ。
「大丈夫?」
「大丈夫。こういう道、好き」
ミアはそう言って、深く息を吸い込んだ。
潮の匂い。
草の匂い。
遠くで燃える蒸気機関の、わずかな金属臭。
それらが混ざって、基地の中とは違う空気になっていた。
やがて二人は、岬の先端近くに出た。そこには古い監視台の跡が残っていた。
半分崩れた石壁。
錆びた柵。
使われなくなった信号灯の支柱。
その向こうに、海が広がっていた。
イーストウォール諸島。
大小いくつもの島が、青い海の上に浮かんでいる。
近くの島は緑に覆われ、漁村らしい小さな屋根が見える。
そのさらに向こうに、低く長い島影があった。
そして、一番遠く。
霞む水平線の手前に、大きな島が見えた。他の島々よりも広く、山の稜線が重なっている。
ミアはその島を指さした。
「ねえ、ビアンカ。あの一番遠い大きな島は?」
ビアンカは答えなかった。
ただ、風の中で目を細めていた。
その横顔を見て、ミアはすぐに気づいた。ビアンカは、ただ景色を見ているのではない。
もっと遠いものを見ている。
今ではなく、過去を。
「あれが、南イーストウォール本島」
やがて、ビアンカが言った。
「四年前、イーストウォール紛争の戦場になった場所よ」
ミアは、指を下ろした。
「……あそこが」
「ええ」
ビアンカの声は静かだった。
「もう四年経つのね」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。海に向けた独り言のようだった。
ミアは、隣に立ったままビアンカを見上げた。
ずっと、気になっていたことがある。
ビアンカはネオ・ジェノバでは、ちょっとした有名人だ。
元ローマン共和国海兵隊伍長で狙撃手。イーストウォール紛争に従軍し、住民避難への貢献により、大統領勲章を授与。
知り合う前から、その名前と経歴を周りから何度も聞いたことがあった。
ミアの公立学校の同級生の女子には、熱狂的なファンもいた。
知り合ってからも、街中で一緒にいる時に、ビアンカが声をかけられて握手を求められる姿を何度か見た。
ビアンカ本人からも、軍隊生活の話は断片的には聞いた。
訓練がきつかったこと。
上官に怒鳴られたこと。
靴擦れのまま行軍したこと。
食堂の豆料理が二度と食べたくなくなるほど不味かったこと。
仲間とくだらない賭けをしたこと。
夜の歩哨で眠気と戦ったこと。
そういう話は、ビアンカも笑って話すことがあった。
けれど、ひとつだけ、彼女は決して話さなかった。
勲章を受けた時の戦闘の話。
住民を救ったという、その日の話。
そして、もうひとつ。
なぜ海兵隊に入り、なぜ紛争後に除隊したのか。ミアは、それを聞いたことがなかった。
聞いてはいけないような気がしていた。でも、知りたいと思っていた。
ビアンカがどんな場所から来て、どんな思いを抱えて今ここにいるのか。
それを、知りたいと思っていた。
ミアは迷った。
耳が少し伏せる。
「ビアンカ」
「なに?」
「聞いても……いい?」
ビアンカは、ミアの方を見なかった。ただ、遠くの島を見ていた。
「何を?」
「その……イーストウォール紛争のこと」
風が吹いた。
しばらく、波の音だけが聞こえた。
ミアは慌てて言葉を足した。
「嫌ならいいの。話したくないことは、話さなくていい。私も、秘密にしていたこと、いっぱいあったし……だから、無理には聞かない」
ビアンカは、少しだけ目を伏せた。
ミアの手首には、あのブレスレットがある。
古代文明の遺産。
観測者の代理。
ミアが背負っていた秘密。
彼女はそれを、少しずつ仲間に打ち明けてきた。
怖かったはずだ。
疑われるかもしれない。
利用されるかもしれない。
それでも、話した。
ビアンカはそのことを思い出していた。
「あなたは、話してくれたものね」
「え?」
「自分のこと。隠していたこと」
ミアは黙った。
ビアンカは、ようやくミアを見た。
その顔には、いつもの軽い皮肉も、姉のような余裕もなかった。
少しだけ、不器用な顔だった。
「私も、いつか話さないといけないと思ってた」
「いけない、じゃなくていいよ」
ミアは小さく首を振った。
「話してもいいって思った時でいい」
ビアンカは一瞬、驚いたようにミアを見た。それから、ふっと笑った。
「本当に、あなたは妙なところで大人ね」
「小さいけど大人だよ」
「そこは自分で言うのね」
二人の間に、少しだけ柔らかな空気が戻った。
だが、ビアンカの視線は再び遠くの島へ向いた。
「あの島を見ると、思い出すの」
彼女は言った。
「あの時の匂いも、音も、空の色も」
ミアは何も言わず、隣に立った。
ビアンカはゆっくり息を吸った。
そして、過去の扉を開くように、話し始めた。
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イーストウォール諸島は、ローマン共和国にとって古くから重要な場所だった。
東方航路の中継点。
漁業と補給の拠点。
北海域を監視するための天然の見張り台。
法的には複雑な歴史を持っていたが、実質的にはローマン共和国の領土として扱われてきた。
人々はローマン共和国の法律の下で暮らし、税を納め、学校に通い、港には共和国旗が掲げられていた。
だが、四年前。
ピエトロ王国が突然、イーストウォール諸島の領有権を主張した。
理由は、古い独立宣言だった。
ローマン共和国建国時の独立宣言に、現在のイーストウォール諸島全域を示す地名が明確に含まれていない。
その一点を根拠に、ピエトロ王国はこう主張した。
イーストウォール諸島は、歴史的にピエトロ王国の勢力圏であり、ローマン共和国による統治は不当である。
もちろん、ローマン共和国はこれを認めなかった。
現地住民も、多くはローマン共和国市民として暮らしていた。
だが、ピエトロ王国は引かなかった。
外交交渉。
抗議声明。
海上封鎖に近い示威行動。
小競り合い。
そして、ある朝。
南イーストウォール本島の港に、ピエトロ王国軍の上陸部隊が現れた。
そこから、紛争は始まった。
――それが、すべての始まりだった。
続く




