第32話「押収」―夜に動く手
夜の海は、昼間よりも音がはっきりする。
波が船腹を叩く音。
ロープの軋み。
遠くで鳴る短い警笛。
そして、作業灯の下を行き交う人間の足音。
事故船の甲板では、表向きにはまだ救助と整理の続きが行われていた。だが、サムたちが待っていたのは、そういう“表の動き”ではない。
消したいものがある人間は、夜に動く。そして今夜、その気配は確かに濃くなっていた。
⸻
ミアは右舷側の資材置き場が見える位置で、しゃがみ込むように腰を落としていた。
近くには、畳まれた消火ホース。
焦げた手すり。
その向こうに、例の木箱と救助用具一式が置かれている。
ブレスレットはクローズモード。
暗い中でも彼女の視界の中にだけ、微かな分析表示が浮いていた。
対象:木箱
状態:移動準備の兆候
近傍熱源:接近中
「……来る」
双方向無線機でミアが小さく囁く。
『ミアより。木箱周辺、接近反応あり』
返答はすぐだった。
『位置保持』
サムが指示する。
『見えてる。こっちにも動きがある』
ビアンカも続く。
『女記者、若い記者、帳簿係、左頬の男。全員、今さっき別々に散った。別行動に見せてるけど、タイミングが揃いすぎ』
『了解』
ミアは息を浅くする。
数秒後、暗がりの向こうから、あの左頬に薄い傷のある若い整備員風の男が現れた。
今度は一人ではない。
もう一人、救助船側の作業員らしき男を連れている。
二人は辺りを見回し、わざとらしく資材整理の手つきで木箱の方へ近づいた。
『来た』
ミアの声が、今度はさっきより少し硬い。
『まだ待て』
サム。
左頬の男は木箱の横に膝をつき、留め具を確認する。
もう一人は救助用具の束へ手をかけ、木箱と一緒に運び出すつもりなのが分かった。
自然な撤収に見せかけるつもりだ。
だがその瞬間、ミアの分析表示が切り替わる。
箱内部:金属構造物
形状:円筒状部品複数/弁機構様部品/薬剤容器破片の可能性
危険性:低(非作動状態)
「中に……部品が入ってる」
『何だと』
サムの声。
『木箱の中、ただの資材じゃない。円筒部品と弁みたいなもの……あと、割れた容器の破片っぽい』
数秒の沈黙のあと、サムの声が低く変わる。
『押さえる』
⸻
「その箱、どちらへ運ぶおつもりですか」
静かな声だった。
だが夜の甲板では、妙にはっきり響いた。
左頬の男ともう一人の作業員が、ぴたりと止まる。
暗がりの向こうからサムが出てくる。
いつものように礼儀正しい顔。
だが、目はまったく笑っていない。
反対側の影からビアンカも現れた。
退路を自然に塞ぐ位置だ。
左頬の男がすぐに作業員の顔へ戻る。
「救助用具の整理です。邪魔になるので」
「なるほど」
サムは頷く。
「では、そのまま資材番号を確認させてください」
「今ですか?」
「はい。今です」
もう一人の作業員が口を開きかけるが、その前にビアンカが低く言った。
「どうしたの? 整理するだけなら困らないでしょう」
柔らかい口調。
だが、一歩でも不自然に動けばすぐに潰せる距離にいる。
その時、少し離れた場所から若い記者が顔を出した。
「何かあったんですか?」
さらにその後ろ、女記者と帳簿係、そしてエルンスト・ヴァイスまで現れる。
「夜の資材確認ですか」
エルンストはにこやかだった。
「あまり現場を混乱させないでいただけると助かりますが」
サムは木箱から目を離さずに答える。
「混乱を避けるための確認です。こちらは事故現場に置かれていた資源管理局関連物資と見られますので」
エルンストの笑みが、ごくわずかに固まる。
「……資源管理局関連、ですか」
「はい」
サムはそこで、初めて木箱へ一歩近づいた。
「この木箱および救助用具一式は、事故現場に残されていた資材として、共和国側の調査対象になります」
左頬の男が口を挟む。
「それは困ります。救助作業で使っている物も――」
「ならば、なおさらです」
サムが遮る。
口調は敬語。
だが、その敬語がむしろ冷たい。
「事故現場で実際に使用され、かつ原因究明に関わる可能性のある物品は、保全されるべきです」
ビアンカが無線機越しに呟く。
『今、女記者が若い記者に合図した』
『見えてる』
サムが応答する。
若い記者は一歩前へ出る。
「それは公的に押収という理解で?」
「はい」
「その根拠は?」
「資源管理局管轄の精製済み蒸気石輸送事故であること。現場に残された資材であること。事故原因との関連可能性があること」
サムはそこで、木箱の側面の刻印を指した。
「そして、この箱自体が資源管理局所属物資を示す管理刻印を有していること」
ミアはそこで初めて、木箱の金属縁に薄く刻まれていた印へ気づいた。
焦げと煤で見えにくかったが、確かにある。
資源管理局 第三技術試験物資
左頬の男の表情がわずかに崩れた。
⸻
「……開けますか」
ビアンカが小さく言う。
サムは一瞬だけ考え、それから頷いた。
「ここで確認します」
エルンストがすぐに口を挟む。
「危険では?」
「危険物ならなおさら、移動前に確認が必要です」
サムは左頬の男を見る。
「留め具を外してください」
「……なぜ私が」
「いま触れていたのがあなたですから」
逃げ場のない返答だった。
左頬の男は数秒ためらい、やがて渋々と留め具へ手を伸ばした。
ビアンカがその手元を見張る。
ミアも一歩近づき、ブレスレットの分析表示を走らせる。
箱内部:非活性
圧力異常なし
開封安全性:高
「大丈夫。いまは反応してない」
ミアが小さく言う。
蓋が開く。
箱の中には、布に包まれた金属部品が詰められていた。
細い円筒部。
複数の微小弁。
耐圧性のある小型ノズル。
固定具。
そして、割れたガラス容器の破片を収めた布袋。
さらに、その隙間に小さな薬剤瓶が一本。
中身はごくわずかだが、底に青みを帯びた残留液が見えた。
「……何これ」
ミアが息を呑む。
分析表示が瞬時に流れる。
金属部品群:簡易噴射・誘導系機構の可能性
用途推定:反応剤散布/局所圧力誘導補助
薬剤瓶残留:活性剤近似
ガラス破片:同一容器由来の可能性高
「やっぱり……」
ミアは低く言った。
「事故を大きく見せるための“ばらし部品”だ」
サムが目を細める。
「説明できるか」
ミアは頷いた。
「これ、現場で組んで使うタイプの簡易噴射機構っぽい。活性剤とか反応促進剤を、狙った場所に局所的に散らすための……たぶん試験用か、工作用」
その場の空気が変わる。
若い記者が息を呑む。
女記者の目だけが、逆に冷えた。
ミアは続けた。
「しかも、わざと分解されてる。組んだまま見つかったら目立つから、使用後に分解して箱へ戻した感じ」
ビアンカが左頬の男を見た。
「で、それを夜のうちに“整理”するつもりだったわけ」
男は答えない。
だが顔色が一気に悪くなっていた。
サムはゆっくりと蓋を閉じた。
「この木箱および救助用具一式は、事故調査のため共和国側が保全・押収します」
エルンストが一歩前へ出る。
「それは正式な手続きに基づくものですか」
「はい」
サムは即答する。
「資源管理局所属の現場物資であり、事故原因との関連可能性が極めて高い。よって、資源管理局の正式調査団へ引き渡すまで、我々が保全します」
「……救助船側の所有物ではないと?」
「刻印が示しています」
サムの返答には余地がなかった。
ビアンカが小さく笑う。
「詰みね」
⸻
押収は、その場で進められた。
木箱。
救助用具一式。
周辺にあった関連資材。
さらに木箱周辺で採取された薬剤付着物と金属粉も、サムの指示で簡易封緘された。
もちろん、この場で完全な科学分析まではできない。だが、十分だった。
物的証拠となる材料が、いま確保されたのだ。
ミアは木箱が小型艇へ積まれていくのを見ながら、小さく言った。
「これ、Qじいなら分かるよ」
サムが振り向く。
「何が」
「今の科学分析で、たぶん解明できる。金属組成も、薬剤の成分も、どの程度の圧力を誘導できるかも」
ビアンカも頷いた。
「つまり、あとで“使われ方”まで立証できる可能性があるのね」
「そうだな」
サムは短く答えた。
「証拠は、見つけるだけでは足りない。説明できて初めて使える」
ミアは改めて、Qじいの顔を思い浮かべた。きっと嫌味を言いながら、徹夜で喜んで調べる。
「……うん。あのおじいちゃんなら絶対やる」
三人は押収品を全て飛行艇に積み込んだ後、一旦事故船に戻り休息を取った。
⸻
翌朝、海の向こうに新たな船影が見えていた。
朝の水平線から現れたのは、ローマン共和国海軍の艦だった。
まず先頭に戦艦。
その後方に補給船。
訓練航海中だった艦隊の一部が、事故対応のため寄せられたのだ。
甲板上の空気が、また別の意味で張り詰める。共和国海軍の到着は、これで現場が完全に“事故後の整理”から“国家的案件”へ移ったことを意味する。
「来たか」
サムが低く言う。
戦艦は一定距離を保って停止し、補給船が前へ出た。信号灯が明滅し、短い通信が交わされる。
事故船は、このあと曳航される。
帰港の途中で、資源管理局の正式事故調査チームとも合流する手筈だ。
エルンスト・ヴァイスは、その光景を静かに見ていた。もはや都合よく片付けることはできないと理解した顔だった。
ビアンカが無線で言う。
『向こう、諦めたわね』
『いや』
サムは短く返す。
『回収を諦めただけだ。次の手はある』
ミアも戦艦の影を見ながら呟く。
『でも、とりあえず証拠は守れた』
『そうだな』
サムの声はわずかに和らいだ。
事故船では曳航準備が始まり、太い曳索が運ばれていく。
疲れ切った船員たちの表情にも、ようやく少しだけ“終わりへ向かう作業”の色が見え始めた。
だが、終わりではない。
ここからが本番だ。
事故は海の上で起きた。
その真実が裁かれるのは陸の上――おそらく今後行われるであろう公聴会の場になる。
そして、その時に必要なのは、怒りでも印象でもない。
説明できる物証だ。
今、飛行艇へ積まれた木箱は、その最初の核となる。
⸻
飛行艇へ戻る前、ミアは事故船を振り返った。
焼けた外板。
白く薄い残煙。
作業灯の列。
そして海軍艦の影。
ブレスレットはクローズモードのまま、静かに残留反応を示している。だが今、彼女の心を占めているのは観測ではなく、もっと現実的な確信だった。
「……これ、ちゃんと事実が掴めるかもしれない」
ビアンカが隣に立つ。
「ええ。ようやく“感じがする”から一歩進んだわ」
「うん」
サムが二人の前へ来る。
「戻るぞ。今日のうちに記録を整理する。押収品の管理も厳重にする」
「了解」
「了解」
三人は小型艇へ乗り込んだ。
蒸気式船外機が静かに唸り、小艇は飛行艇へ向けて離れていく。
背後では、共和国海軍による曳航準備が本格化していた。
事故船はやがて、ゆっくりと帰路へ引かれていくことになる。その途中で、資源管理局の正式事故調査チームと合流する。
だがもう、最初の一手は打たれた。
昨夜、消されるはずだったものは消えなかった。木箱は残り、部品は残り、薬剤は残り、痕跡は残った。
そしてそれらは、やがてQじいの手で“説明できる証拠”へ変わっていく。真実の輪郭は朝日のように少しずつ明るくなり始めていた。
続く




