第29話「現着」―洋上の霹靂
ニューバーミンガム島海軍基地を飛び立ったその日の夕刻。銀色の飛行艇は、南の海を低く滑るように飛んでいた。
機体の窓から見える海は、昨日までの穏やかな軍港の色とは違っていた。どこまでも広がる青の中に、うっすらと黒い筋が立ちのぼっている。
「あれ……煙?」
ミアが窓際で目を細める。
操縦席のサムが短く答えた。
「事故海域だ」
ビアンカも窓の外を見る。
遠く、水平線の近くに大きな船影。その周囲には複数の小さな影が見える。
「まだ消火が終わってないのね」
「表面上は終わっていても、積荷由来の残熱はしつこい」
サムの声は冷静だった。
飛行艇はそのまま高度を下げていく。事故船からはやや距離を置いた海面へ向かい、慎重に姿勢を整えた。
機体が水面へ近づくにつれ、焼けた金属と蒸気の匂いが、閉じた機内にまで忍び込んでくるような気がした。
着水。
鈍い衝撃。船体下部が海面を切り裂き、白い飛沫が窓を流れる。やがて機体は速度を落とし、事故船の風下側、視界を確保しやすい位置で停止した。
「到着だ」
サムがエンジン出力を絞りながら言う。
ミアは窓から外を見て、小さく息を呑んだ。
三万トン級輸送船。
その巨体は遠目にも無残だった。
中部右舷寄りの外板が黒く焼け、所々が歪み、甲板上には応急修理の布と金属板が痛々しく貼られている。
火災の痕跡はまだ生々しく、薄い白煙のような蒸気がところどころから漂っていた。
その少し離れた位置には、比較的整った外観の大型船。
アーリア・インダストリー系列の救援船だ。
さらにその甲板上には、人影がいくつも見える。
忙しなく動く船員たちの中に、明らかに作業員ではない服装の者が混じっていた。
「……あれ、記者?」
ミアが言う。
「そうでしょうね」
ビアンカが答える。
その時だった。
救援船の甲板上でこちらに気づいた人影が、明らかに一瞬動きを止めた。双眼鏡を構えていた男が慌ててそれを下げ、隣の誰かへ何か叫ぶ。白いシャツにベスト姿の男が、帽子を押さえながら走り去っていく。
「驚いてる」
ミアが呟いた。
「そのようだな」
サムは淡々と返したが、口元はわずかに硬い。
「あちらは、こちらがもう着くとは思っていなかった」
ビアンカが冷ややかに言う。
「事故報道は早くても、調査側はもっと遅いと踏んでたわけね」
「都合のいい筋書きほど、早い来客には弱い」
サムは飛行艇の後部収納区画へ向かった。
「上陸準備だ」
⸻
飛行艇の後部ハッチが開く。そこに収められていたのは、Qじいが設計した輸送用装備の一つだった。
折り畳まれた金属製の小型ボート。薄いが頑丈そうな銀灰色の船体板が、蝶番と固定具でコンパクトにまとめられている。
「これ、飛行艇の中に入ってたの?」
ミアが目を輝かせる。
「搭載用折り畳み艇だ」
サムが手慣れた動作で固定具を外す。
金属板が展開され、船体が形を成していく。さらに後部へ、取り外し式の蒸気式船外機が取り付けられた。小型の蒸気核駆動ではなく、短時間運用に特化した簡易蒸気機関。磨かれた真鍮管と小型の圧力筒が美しく収まっている。
ミアは完全に見入っていた。
「すごい……Qじい、こんなのまで作ってたんだ」
「機動展開用だ。飛行艇はどこにでも横付けできるわけじゃないからな」
サムが言う。
ビアンカは呆れ半分でミアを見る。
「あなた、ちょっと任務なの忘れてない?」
「忘れてないよ。でも、すごいものはすごい」
「それは否定しないけど」
サムが船外機のバルブを確認し、圧力計を一瞥する。
「乗れ。行くぞ」
三人が小型艇に乗り込むと、サムが始動レバーを引いた。
カシュッ。低い蒸気音。それから小気味よい駆動音と共に、船尾が微かに震える。
「うわ……静か」
ミアが感心する。
「そう言えば、Qじいが“水の上で無駄に目立つな”と言っていた」
「すごく言いそう」
ビアンカは納得する。
小型艇は飛行艇の脇を離れ、事故船へ向かって進み始めた。海面は比較的穏やかだったが、事故船の周囲は熱の影響か、どこか空気までざらついて見える。近づくにつれ、焼けた鉄と消火剤の匂いが濃くなっていく。
⸻
事故船の側面には、階段タラップが下りていて、荷物が積み卸し出来る艀が横付けされていた。
救助や補給のために救助船が用意したものらしい。
サムはその下へ小型艇を丁寧に接舷させる。
小型艇を係留するとともに、飛行艇から引っ張ってきた機体係留用のロープを船員に託す。
甲板上では、すでに何人かがこちらを見下ろしていた。
階段を降りてきて最初に姿を見せたのは、スチュアートから提供されたリストの写真で見たアーリア系列船の責任者――エルンスト・ヴァイスだった。
その横には、手帳とカメラを抱えた通信社の人間が二人。
そして事故船側の航海士らしき人物。
エルンストは、一瞬だけ本当に驚いた顔をした。すぐに整えるが、遅かった。
「これは……思ったよりお早い到着ですね」
その口調は丁寧だったが、完全に不意を突かれた人間の反応だった。
サムは帽子を軽く上げる程度の礼を返した。
「国家保安情報局です。事故調査のため参りました。お忙しいところ恐縮ですが、まずは被害状況の確認と関係者への聞き取りを行いたい」
エルンストが笑みを戻す。
「もちろん、もちろん。救助活動は現在も継続中ですが、協力できることは惜しみません」
横にいた通信社の若い記者が、慌ててメモ帳を開く。
「失礼ですが、到着がずいぶん早いですね。もう調査が始まるとは――」
サムはその方を見上げ、穏やかな声で答えた。
「海難事故ですので、可能な限り迅速に対応するのは当然です」
「今回の件について、現時点での見解は?」
「現時点では確認中です」
「資源管理局の管理体制に問題があったとお考えですか?」
「確認中です」
「アーリア・インダストリーの救助対応については?」
「救助活動への感謝と、事故調査は別問題です」
その一言で、記者のペンが一瞬止まる。
横でビアンカが小さく息を吐いた。
いかにもサムらしい、隙のない返しだった。
エルンストはにこやかさを崩さない。
「どうぞ上へ。階段はまだ使用できます」
⸻
甲板へ上がると、事故の生々しさが一気に押し寄せてきた。
焼け焦げた床板。
消火剤の白い粉。
巻かれたホース。
担架の跡。
応急処置を受けた船員たちの疲れ切った顔。
ミアは何気ない動作で手首を軽く押さえた。
ブレスレットはクローズモード。外からはただの装身具にしか見えない。だが今、彼女の視界の内側にだけ、ごく薄い表示が重なっていた。
種別:蒸気石エネルギー残留反応
状態:減衰中
方向:局所散在
強度:低~中
「……やっぱり残ってる」
小さく呟く。
「何か分かった?」
とビアンカ。
「ううん。まだ」
ミアは視線を巡らせた。観測モードは広域の反応の残りを示すだけだ。これだけでは証拠にはならない。
だが、標準機能の分析モードに切り替えると話は別だった。彼女は近くの焼けた手すりへ視線を落とす。クローズモードの表示が切り替わる。
材質:炭素鋼
熱変形:高温高圧蒸気による急激な内向き圧迫の痕跡
二次衝撃:有りの可能性
ミアは眉をわずかに動かした。
「二次……」
まだ断定はできない。
だが、何かが引っかかった。
⸻
サムはまず事故船側の責任者へ丁寧に名乗り、聞き取りの段取りを整え始めた。
「まず、生存者のうち荷室付近にいた方々からお話を伺いたい。容体に問題のない範囲で結構です」
「わ、分かりました」
一等航海士ラドフォードが答える。その顔には疲労と緊張が混じっていた。
サムは腰元に手をやり、小型のヘッドホン型双方向無線機のスイッチを入れる。
見た目は耳当て付きの通信補助具だが、腰には独自調整の小型送受信機とバッテリーが収められてたボックスを吊り下げている。
この時代、これほど小型で安定した双方向無線を、個人携行で運用している者はほぼいない。少なくとも、ここにいる他の誰もそんなものは使っていない。
周波数も独自帯域。サムのチームだけの運用だ。
「サムから各員。以後、独自周波数で連絡を取る。外部に聞かれる前提で話すな」
耳元で、抑えた声が響く。
『了解』
『りょーかい』
ビアンカは歩きながら、甲板上の人員配置と動線を観察していた。
通信社の人間は二名。
一人は先ほどの若い記者。もう一人は年上の女記者で、こちらを観察する目が鋭い。
エルンストは距離を保ちつつ、必要以上に近くへ寄ってこない。だが、完全に目を離してもいない。
『サム、通信社の女性の方、ただの記者じゃなさそう』
ビアンカが無線で言う。
『理由は』
『人の顔じゃなく、動線を見てる。あと、靴が現場向き』
『了解』
サムは足を止めずに返した。
一方、ミアは別の方向を見ていた。
甲板脇に積まれた救助用具。
その一つに、わずかな付着物。
分析モードを走らせる。
付着物:化学反応剤微量残留
既知の一般消火剤とは不一致
詳細比較不能
『……あれ?』
『ミア、何か見つけた?』
ビアンカの声。
ミアは視線を動かさず、小さく答える。
『まだ“何か変”くらい。でも、普通の消火剤じゃない残りがある』
『場所は』
『甲板右舷、救助用具の近く』
『触るな。位置を覚えとけ』
『うん』
サムはその間も、外向きには一切顔色を変えずに聞き取りを始めていた。
⸻
最初の聞き取り相手は、荷室付近の見張り補助に就いていた若い船員だった。右腕に包帯を巻き、まだ顔色も悪い。
「爆発の前、何か変わったことはありましたか」
サムの声は、あくまで柔らかい。
船員は緊張したように視線を泳がせた。
「……匂い、です」
「匂い?」
「ええ。変な、甘いような……薬品みたいな匂いが、一瞬だけ」
サムの目がわずかに細くなる。
「荷室で?」
「通路の方からです。そのあと、誰かが何か落としたみたいな音がして……すぐに」
彼は言葉を切った。
爆発の記憶が蘇ったのだろう。
「無理に続けなくて結構です」
サムは落ち着いた声で言う。
「その前に、見慣れない人物を見ましたか」
「資源管理局の職員が一人……でも、顔はよく」
そこまで聞いたところで、近くにいた通信社の若い記者が身を乗り出しかけた。
「今の証言ですが――」
サムが振り向く。
「申し訳ありません。聞き取り中です」
丁寧に返すが、口調の温度は低い。
記者は慌てて一歩引いた。
「し、失礼」
エルンストがすぐに割って入る。
「彼らも熱心でして。どうかご容赦を」
「承知しています。ただ、証言の混線は避けたいので」
サムはそれ以上追及せず、再び船員へ向き直る。そのやり方に、ビアンカは内心で小さく頷いた。対立を表に出さず、しかし主導権は渡さない。有能なエージェントスキルのひとつだ。
⸻
聞き取りを重ねるうち、断片が見え始めた。爆発前、荷室近くで甘い薬品臭を感じた者が複数。見慣れない資源管理局職員らしき人物を見た者が一人。
救助船が「タイミングよく」近くにいたことに違和感を口にした者は、口を開きかけては周囲を見て黙る。
『口が重いわね』
ビアンカが無線で言う。
『当然だ。まだ誰を信用していいか分からない』
サムが返す。
『でも、“見てる側”がいるのは分かってる』
『だろうな』
ミアは別の船員が腰掛けていた木箱を見る。焼け焦げの少ない場所。分析モードを当てる。
表面付着:海水、煤、人体由来血痕微量
外部由来金属粉:有り
船体設備と材質不一致
『サム』
『どうした』
『また“船のものじゃない金属粉”っぽい反応がある』
数秒の間。
『位置を保持。後で現物を見たい』
『了解』
ミアはそっと木箱の端を記憶に刻んだ。
観測モードは広域の痕跡を拾う。
分析モードは目の前を読む。
そしてその両方を、今の彼女は自分にしか見えないクローズモードで動かしている。
この場で誰にも気づかれていない。そのことが、少しだけ心強く、同時に奇妙でもあった。
⸻
甲板の端で、アーリア側の女記者がこちらを見ていた。その視線が一瞬、ミアの手首へ落ちる。
ミアは咄嗟に腕を下ろした。ただの癖のように見える動きで。女記者はすぐに視線を逸らしたが、ビアンカはそれを見逃さなかった。
『ミア、手首見られた』
『えっ』
『気をつけて。あっちは細かいとこまで見てる』
『うん……』
サムの声が続く。
『ここからは分担する。ビアンカは通信社とアーリア側の人間関係を見ろ。ミアは技術痕跡。俺は聞き取りを続ける』
『了解』
『了解』
その時、事故船の奥から短い警笛が鳴った。誰かが新たな負傷者搬送を始めたらしい。甲板上が一瞬ざわつく。
そのざわめきの向こうで、エルンスト・ヴァイスがこちらを見ていた。笑みは崩していない。だが、その目だけは計算をしている。
サムはその視線を受け止めながら、丁寧な口調のまま言った。
「ヴァイス氏、救助活動が一段落した段階で、貴船の行動記録についてもお話を伺いたい」
エルンストは一拍だけ間を置き、優雅に頷いた。
「ええ、もちろん。できる限り協力いたします」
言葉は滑らかだった。
だが、ミアにはなぜか、その奥にある“慌て”の残りがまだ消えていないように思えた。彼らは、サムたちがここまで早く来るとは思っていなかった。そして今、予定の狂いを飲み込みながら、次の一手を考えている。
洋上の風が、焼けた蒸気石の匂いを運んでくる。
その中で、特命チームの最初の本格調査が始まっていた。
情報と認知戦を制する為には、証言と痕跡から有益な証拠を見つけなければならない。
そしてその裏側には、まだ誰も口にしていない“仕掛けた側”の意志がある。
ミアは手首のブレスレットをそっと押さえた。
見えるのは、自分だけ。聞こえるのも、今はチームだけ。
「……よし」
小さく息を吐く。
ここから先は、観測ではなく、追跡だ。
続く




