第二話
「ご主人ちゃん、そんなに見つめられると怖いんッスけど……」
「……あ、悪い」
慌てて視線を逸らす。
いや、だって気になるだろう。金髪にピアス、軽薄な口調。何度見ても、姉貴が熱烈に話していたトリーそのものだ。
……いや、本人?なんだから当たり前か。コスプレとかドッキリにしても、こんな再現度はありえない。
「なんか今日、変じゃないッスか? 熱でも出しましたか?」
「いや、ちょっと考え事をな」
「ふーん?」
トリーは不思議そうに首を傾げたあと、すぐにいつもの調子で笑った。
「ま、いっか。ご主人ちゃん、朝食の準備できてるッスよ。奥様たちも待ってるッス。着替えたら食堂に来てくださいね〜」
そう言って、トリーは部屋を出ていこうとする。
「……あ、待ってくれ」
「ん?」
呼び止めたものの、何を聞けばいいのか分からない。
お前、今まで俺に何をされてきたんだ?
……なんて、本人を前にして聞けるわけがない。
「いや……何でもない。悪いな」
「……? 変なご主人ちゃん」
トリーはそう言い残し、扉の向こうへ消えていった。
ひとり残された俺は、深く息を吐いた。
まずは落ち着こう。
幸い、今の俺はここの主人らしい。トリーの扱いだって、これからいくらでも変えられるはずだ。
……とはいえ、いきなり態度を変えたら怪しまれるよな。さて、どうしたものか。
まずひとつの問題点は、この身体の持ち主について、俺は何もわからないことだ。原作の小説もまともに読んだことがないし、何しろ俺はモブだ。自分の名前すらわからないんだからどうしようもない。
ちなみに、前世の俺は田嶋隆人、二十七歳。入社して五年、ブラック企業で馬車馬のように働かされ、最後には過労死した哀れな社畜である。
……改めて考えても、ひどい人生だな。
ただ、そんな地獄のような職場でも、身についたものがないわけではない。
上司の機嫌を察する能力、理不尽な要求を適当に受け流す技術、そして限られた時間で仕事を片づける段取り力。おかげさまで、多少のことでは動じなくなった。これは決して自慢ではないがな。
もっとも、これらのスキルが貴族生活で役に立つかは知らない。というか、もう二度と使いたくない。
せっかく生まれ変わったんだ。今度こそ、働かずにのんびり暮らしてやる。
……そのためにも、まずはこの身体の持ち主について調べる必要がある。
俺はベッドから立ち上がり、部屋を見回した。
さて、何か手がかりはないものか。
「おっ」
ベッドがふかふかだった。すごい。俺が包まっていたのは、どうやら庶民が一生かかっても買えないような高級羽毛布団だったらしい。
と、とにかく。それより情報収集だ。まずは服を着替えてしまおう。
ベッドのそばには、いつの間にか着替えが用意されていた。さすが貴族、至れり尽くせりである。
俺は用意された服に手を伸ばし、ふと、その手を見つめた。
「……ん?」
白く、すらりと伸びた指。手のひらを返してみても、目立った傷ひとつない。指先までなめらかで、まるで手入れの行き届いた人形のようだった。
前世の俺の手は、こんなものじゃなかった。
毎日のデスクワークで凝り固まった指。ささくれや乾燥も当たり前で、疲れが溜まれば爪の周りだって荒れていた。
それが今では、この有様だ。
「マジかよ」
思わず、両手を持ち上げて眺めてしまう。
これが貴族の手か。それとも、単にこの身体の持ち主が若いからなのか。
どちらにせよ、二十七歳の社畜だった俺からすれば、羨ましいことこの上ない。今はもう自分の身体だから存分にグーパーできる。やったー。
手だけ見ていても仕方がないので、俺は名残惜しく手を下ろし着替えに取りかかった。
ところが、俺は早くも壁にぶつかっていた。
目の前にあるのは、白いシャツに、やたらと装飾の多い上着。それから見慣れない形のベストやら何やら。
……で、これ、どうやって着るんだ?
いや、シャツくらいは分かる。問題はその上だ。ボタンの位置も、布の重ね方も、何が正解なのかさっぱり分からない。
試しに上着を羽織ってみたものの、どうにも違和感がある。鏡があれば確認できるのだろうが、鏡を見る勇気もない。もしこれで転生したのに不細工だったら悲しくなるからな。一旦保留で。
「……落ち着け。」
前世では、どんな無茶振りをされても何とか仕事をこなしてきた。納期が迫ろうが、上司に無理難題を押しつけられようが、冷静に対処してきたのだ。
なのに、たかが着替えでこの有様とは。
俺なら大丈夫だ、きっと。
そう決意して、俺は再び服と向き合った。
──数分後。
いつまで経っても来ない俺に痺れを切らしたのか、トリーがノックをしてきた。
「ご主人ちゃ〜ん。大丈夫ッスか?」
間延びした声に俺はビクリと驚いてしまう。
「開けるッスよ。」
「あ、待て、開けるな、今は──」
今開けられたら俺の惨めな姿が……!!!
「あ。」
「えっ。」
俺の願いは届かず、開けられてしまった。運命とは無情なものだ。
俺の惨めな着替え姿が見られてしまった。
「…………」
「…………」
沈黙。
頼む。何か言ってくれ。いっそ笑ってくれたほうがまだマシかもしれない。
こんな事になるなら、鏡で先に確認しておけばよかった。
「ご主人ちゃん、着方わかんない感じ?」
あ、これ困惑させてるな。表情がもうオロオロしている。ごめん。
「……ごめん」
「えっ?ごめん?」
咄嗟に謝ると、ごめん、という言葉に反応した。え、何か悪かったか?
「あぁ、えと……すまん?」
「え、えぇ、あぁ、はい。えっと……べ、別に構わないんスけど……」
え?明らかに動揺している。一体どうしたんだ。
「えーと、着替え、手伝うッスか……?」
「あ、いいのか?」
良かった。若干引いてはいたものの、これ以上この惨状を他人に見られるわけにはいかない。さすが執事だ。
「も、もちろん! 仕事ですから。」
どこかぎこちない笑顔で、トリーは俺の服に手を伸ばす。
やっぱり俺、演技が下手くそなのか?学生時代も学校の演劇では木の役くらいしかやった事ないが、そんなに酷いとは。気をつけよう。
とりあえず今は、これ以上深く追及しないでおこう。
トリーは慣れた手つきで、俺の服を整えていく。
さすが執事。手際がいい。
「ん、ちょっと待ってくれ」
トリーの前髪が目元にかかっているのが気になり、俺はトリーに手を伸ばした。
その瞬間、トリーがびくりと肩を跳ねさせ、ぎゅっと目を瞑った。
まるで、何かをされるのを待っているように。
「トリー?」
「ッ、あ……」
トリーははっとしたように目を開けると、すぐにいつもの笑顔を浮かべた。
「な、なんスか? ご主人ちゃん」
「いや、前髪が邪魔そうだったから……」
「あぁ、な、なるほど! そっちッスね。びっくりした〜」
軽い口調に、いつもと変わらない笑顔。
けれど、さっきの反応が頭から離れなかった。
俺、今何かしたか?
ただ手を伸ばしただけだ。それなのに、あんなふうに身構えるなんて。
「悪い。驚かせたな」
「えっ」
また謝られると思っていなかったのか、トリーが目を丸くした。
……もしかして、これが原作で語られていた虐待の名残なのだろうか。
そう考えると、さっきの反応にも説明がつく気がした。
だとしたら、まずはこいつに怯えられない主人になるところから始めなければ。




