第91話 昨日ゼロになったばっかだぞ
神界債務、金貨0枚。
その数字を見た翌朝の俺は、いつもより二割ほど人間として終わっていた。
四畳半の万年床へ横向きに寝転がり、片肘で頭を支えた涅槃図の姿勢のまま、昨夜コンビニで買っておいた缶ビールを朝から開ける。窓際には洗っていない異臭ジャージ、壁際には空き缶とパチスロ雑誌、その向こうでは名前を付けていないゴキブリさんが堂々と巡回していた。
「働かなくていい朝って、こんなに空気がうまかったんだな......」
「朝から酒を飲んでいる時点で、その感想に説得力がありません」
聞き慣れた声が背後からしたので、俺は振り向かなかった。振り向けば仕事が始まる。見なければ、まだ休日である。少なくとも俺の中ではそういう扱いにできる。
「ゼニス、昨日言ったよな俺。今日はゼロなんだ。今日くらい寝かせろって。俺は今、長年の債務生活から解放された一般市民として、社会復帰のための療養期間に入っている」
「療養期間の一食目がビールなんですか?」
「麦由来だから実質パンだろ。どう考えても朝食だよ」
「そんな栄養学を採用する人はありえません!」
仕方なく顔を向けると、ゼニスはいつもの黒髪を後ろでまとめ、灰色のパンツスーツに白いブラウス、左腕には『監査連絡』と金文字の腕章をつけていた。琥珀色の瞳の下には薄く疲れが残っている。昨日までの大精算で相当働いたらしいのに、俺を起こしに来る元気だけは残っているのが腹立たしい。
「なんだその地味な服。今日はコスプレ休みか?」
「地味って言わないでください。神界監査院との正式な連絡業務です。そもそも私の衣装は全部業務上必要な――」
「はいはい、変態の言い訳はあとで聞く。要件だけ三十秒で頼む。三十一秒目から寝る予定だ。マキで頼むぞ」
「その態度でよく昨日まで四億近い借金を抱えられましたね!」
「抱えたくて抱えたんじゃねえ。向こうから抱きついてきたんだよ。借金さんの方が俺を好きすぎる」
「気持ち悪い擬人化をしないでください!」
ゼニスが金縁の端末を開いた。昨夜見た赤い一行が、今朝はさらに太い枠で囲まれている。
【神界監査院照会:原初魔王事案・未精算】
俺は缶を口へ運びながら、見なかったことにした。
「字、読めてますよね?」
「文字が小さい。老眼かもしれん」
「あんた、三十二歳でしょうが!」
「じゃあ二日酔いかな―?」
「今飲み始めたばかりでしょう!」
ゼニスが端末を俺の鼻先まで押しつけようとした、その時だった。
部屋の中央に、ゼニスの金色とは違う、白に青紫を混ぜた細い光が走った。床へ幾何学的な輪が展開し、俺のビール缶の影まで青白く染める。ゼニスの顔が露骨に嫌そうになった。
「......来ましたか」
「誰。お前の上司? だったら俺寝てるって言っといて」
「そういう相手なら、私もそうしたいんですけど――」
光の中から現れたのは、とても小柄な女だった。
背は百五十あるかないかのちんちくりん。銀白に近い淡金の髪を高めのハーフツインにまとめ、青紫の瞳は人の欠点を見つけるためだけに磨かれたみたいにきらきらしている。白と濃紺を基調にした神界制服は身体に合わせて隙なく仕立てられ、肩には短いマント、頭には小型の制帽。左胸の監査章と白手袋だけなら若いエリート職員にしか見えない。
問題は、その女が身長の半分くらいありそうな巨大な承認印を抱えて、ものすごく楽しそうに俺を見ていたことだ。
「えぇ~? この人が黒田陸ですかぁ? 三十二歳無職♡ 生活能力よわよわ♡ なのに世界間不整合値だけ一流っていう?♡」
「はよ帰れクソガキ女神」
バンッ!!
巨大な印が空中の書類へ叩きつけられた。
【神格侮辱:減点1】
「お・じ・さ・ん。神格侮辱♡ 減点一点♡」
「初対面三十秒で減点される人、私も初めて見ましたよ!」
「お前の知り合いだろ。この猫みたいなクソガキ回収しろ」
「ペットみたいに言わないでください!」
「誰がペットですかぁ♡ 世界整合管理局所属、監査女神レグリア・ヴェリタスですぅ。ゼニス先輩が何年もかけて育てた、世界間規約違反の見本市を見に来ましたぁ♡」
「私は育ててません!」
「俺も育ってねえ。むしろ即レベ切れたらすぐ退化するんだが?」
「自分で言って悲しくないんですかぁ? 即レベ切れたら退化♡ 自己管理能力まで期間限定♡」
「そうだな。で、監査終わった?」
「……え?」
「まだ煽るなら先に言っとけ。煙草吸いながら待つから」
「人の煽りを待ち時間扱いしないでください!」
「監査よりそっちで食いつくのかよ」
レグリアは口元をにやつかせたまま、薄い板状の神具を俺へ向けた。光の線が頭から足先まで走り、床の空き缶や灰皿にまで数字が付く。
「生活環境、要改善♡ 喫煙習慣、要改善♡ 飲酒習慣、要改善♡ 就労意欲......あ、これ測定不能ですねぇ♡」
「最後だけ機械壊れてんぞ」
「正常ですぅ♡」
「じゃあ俺のやる気が神具の想定外まで低いってこと?」
「そう言っていますぅ♡」
「褒められた」
「バカか!!褒めてねえよおおおおお!!」
ゼニスの絶叫が四畳半へ響いた。
俺は耳を指で塞ぎながら、レグリアの持つ監査台帳を覗いた。細かい数字の途中に、ひとつだけ見覚えのない黒い帯がある。
【閲覧制限:世界整合管理局】
「ゼニス。これ何?」
「私にも開示されていません。だから今日、管理局から担当が来たんです」
「担当ってこいつ? もっと大人いなかったの?」
レグリアの笑みが消えた。
「......誰が小さいですって?」
「身長の話はしてないぞ。あ、もしかして効いたの?」
「効いてませんけどぉ?」
「顔が無表情になったぞ」
「黒田さん、それ以上はやめてください。話が進みません!」
ゼニスが強引に割って入り、端末へ別の画面を出す。
「結論だけ先に言います。原初魔王討伐時に生じた巨大な因果の一部が、完全には精算されず世界側へ残留していた可能性があります。現時点で、それ自体を黒田さん個人の債務として扱う根拠はありません」
俺は起き上がった。
「もう一回」
「黒田さん個人の債務ではありません」
「もっと大きな声で!はい!」
「そこだけ聞き取り能力が上がるのやめてもらえます?」
「ゼロ継続ってことだな! よし、祝杯二本目いくわ!」
缶へ手を伸ばした瞬間、レグリアの巨大印が再び鳴った。
バンッ!
【経費対象外】
「酒代はもちろん自己負担ですぅ♡」
「知ってるわ!頼んでねえよ!」
ゼニスがさらに資料をめくる。
「ただし、未精算事案を調査するための世界間照会、監査接続、現地転送、因果観測は契約付帯業務に該当します」
「......有料?」
「有料です」
レグリアが嬉しそうに頷いた。
「もっち、有料ですぅ♡」
俺は二人を交互に見た。
「結局俺から取るんじゃねえかぁぁぁぁぁぁ!! 昨日ゼロになったばっかだぞ! 俺まだゼロを舐め回すほど味わってねえんだよ!」
「変な味わい方しないでください!」
「調査費と事案本体の責任は別ですぅ♡ 契約書読めないんですかぁ? 三十二歳なのに読解力ざぁこ♡」
「てめえ、その巨大ハンコ、きたねぇ尻に突っ込んで神界へ送り返すぞ!」
「神格侮辱追加ぁ♡」
「増やすなああああ!」
異世界に通じるゲートのほうから叫び声が聞こえた。
「陸ー! 起きてるなら返事するにゃ! 昨日『神界の借金ゼロになったから宿のツケも実質ゼロ』とか言って逃げただろにゃ!」
俺は固まった。
ゼニスが笑顔になる。レグリアも笑顔になる。
「誰?」
「異世界側の債権者です」
「へぇ~♡ 二重債務者♡」
「違う。あれは生活の温かみだ」
「帳簿持って来たにゃあああああっ!!」
扉の向こうでミャオの猫耳が見える気がした。
その瞬間、レグリアの神具が甲高く鳴った。
ぴ、ぴ、ぴぴぴぴぴ――。
「......あれ?」
初めて、レグリアの声から♡が消えた。
青紫の瞳が端末へ落ちる。大陸図の上で、王都北部、魔王国西縁、ヴァルディス東部、さらに名も知らない山地へ、同時に小さな灰色の点が灯っていく。
【査定不能反応:7】
【査定不能反応:11】
【査定不能反応:19】
ゼニスも冗談をやめた。
「同時発生......?」
「しかも、どの既存分類にも入らない」
俺は開けかけた二本目のビールを見た。
嫌な予感がする時ほど、飲み物はうまそうに見える。
「なあ。これ、今日やらなきゃ駄目?」
二人の女神が同時に俺を見た。
「「駄目です」」
「クソが。ゼロ、短い人生だったな......」
【神界・追加ご請求】
・原初魔王事案世界間照会費 金貨30枚
・世界整合管理局監査接続費 金貨40枚
・緊急因果観測初期費 金貨20枚
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今回加算 金貨90枚
今回加算・日本円換算 450,000円相当
前回繰越残高 金貨0枚
合計残高 金貨90枚
合計残高・日本円換算 450,000円相当
※原初魔王未精算事案そのものは、現時点では黒田陸個人債務として未認定。
※ミャオ管理生活債務は別口。
「……昨日ゼロになった借金が、今日もう四十五万円。俺の無借金期間、一日どころか半日くらいじゃねえか」
「でも原初魔王事案そのものは未認定ですぅ♡ よかったですねぇ、黒田さん。まだ本番前♡」
「その言い方やめろ! 四十五万払ってチュートリアル終わったみたいに言うな!」
「陸ー! 神界の話が終わったなら、次はこっちの帳簿だにゃー!」
「ほらぁ♡ 異世界側の債権者さんも待ってますよぉ♡」
「ゼロって何だったんだよぉぉぉぉぉぉ!!」




