第79話 元部下を異世界まで呼ぶな
翌日の昼過ぎ。
俺は日本の四畳半で、右肘を畳につき、手のひらへ頭を乗せた涅槃図スタイルのままテレビを眺めていた。床には競馬新聞、空き缶、吸い殻。壁際のカップ麺容器の陰では、同居人のゴキブリが今日も元気に暮らしている。
「黒田さん。起きてください。立会人への正式説明に行きます。今日だけは『寝てた』『忘れた』『馬が走ってた』を理由に遅刻できませんよ」
「俺はいま深い瞑想中だ。馬がどう脚を溜めて、どこで前へ出るかを見ながら人生の配分を考えてる。こういうのは仕事より大事だ」
「競馬中継を見ながら人生設計した結果が、床の外れ馬券と空き缶と、あなたの借金です」
「失敗から学ぶ教材を捨ててないだけだ。教育熱心と言え」
「あなたの場合、学ぶ前に次の馬券を買うのをやめてください。教材も借金も毎週増えてます」
ゼニスは紺色の制帽に、白い手袋、濃紺のジャケットとスカート。胸元には神界印の徽章、手にはパスポートらしき小冊子まで持っていた。艶のある黒髪をきっちりまとめた姿は、本当に国境審査官みたいに見える。
「……今度は入国審査官プレイか?」
「プレイではありません! 世界間通行管理の正装です!」
「その白手袋で身体検査とかするの?」
「必要ならしますけれど」
ゼニスが一歩近づき、わざと俺の顎へ白手袋の指を添えた。
「ねえ、どうです? 少しくらい緊張しました?」
「手袋、ゴキブリ触ったら捨てる?」
「…………」
「そこに一匹いるぞ、あと俺、風呂も入ってない」
「ぎゃああああああああっ!! 何でこのタイミングで現実を突きつけるんですかぁぁぁぁぁ!!」
ゼニスが壁際まで飛び退いたので、俺はテレビを見たまま尻を少し浮かせ、空いた右手で後ろの空気を握った。最近はこの動作だけで警戒されるようになったので、今日はなるべく自然にやる。
「ゼニス。ほら、落ち着け。世界間通行前の友好の握手だ」
「……何で右手を握り込んでるんです?」
「人の善意を疑うな。さっきゴキブリで驚かせた詫びだよ。神と人間、ここは水に流そうぜ」
「絶対に嫌です。その握った手、前にも見ました。いま何を握ったんですか」
「未来だ」
「屁でしょうが!!」
「正解。嗅覚テストな」
「手を開くなぁぁぁぁぁぁぁ!! こっちへその汚物を持ってくんなこのクソ無職ぅぅぅぅぅぅ!!」
俺がにぎりっぺを鼻先へ寄せる前に、ゼニスは白手袋の両手で俺の右手首を押し返した。神にも学習能力はあるらしい。そこで玄関の呼び鈴が鳴った。ぴんぽーん。俺とゼニスが同時に止まる。
「陸さーん。いますか?」
ひなたの声だった。
「帰れ」
「まだ入ってませんよ!」
「心で言った」
玄関を開けると、ひなたが紙袋を抱えて立っていた。今日は非番らしく制服ではなく、動きやすい黒のパンツに薄手のジャケット。短い髪と健康的な顔立ちは、異世界の派手な連中ばかり見た後だと飾り気がなく、その普通さの方がかえって落ち着かなかった。
「陸さん、また連絡返さないから。保存できる物だけ置いていこうと思って……」
そこで、ひなたの視線が俺の背後へ移った。制帽、白手袋、光輪つきの絶世の美女。普通なら悲鳴を上げるところだろう。ひなたは数秒固まった後、小さく息を飲んだ。
「……あ、夢の人だ」
ゼニスの目が細くなった。
「やはり記憶が残っていますね」
「ゼニス、今日はやめろ。こいつは飯置いて帰るだけだ」
「陸さん。説明してください」
「説明すると長くなる」
「全部、聞きます」
「断る!」
「じゃあ帰りません」
「この部屋に長居したら肺やられるぞ」
「換気しますから」
ひなたは半ば強引に部屋に入ると、窓を開け始めた。俺もさすがに無理に帰らせることはできなかった。
「人の家で勝手に環境改善すんなよ、お前」
「改善しないと人の家じゃなくなりますもん!」
ゼニスが咳払いをした。
「望月ひなたさん。正式に説明します。あなたには世界間接続の監査上、一日だけ異世界側へ同行していただきたい。危険区域には入りません。保護を付与し、必ず現代へ戻します。また、拒否してもあなたにも黒田さんにも不利益はありません」
ひなたは俺を見た。
「陸さん、ずっとそこへ行ってたんですよね。連絡が途切れてた時も、訓練に来なかった時も」
「行ってたというより、呼ばれたら飛ばされて、帰ったら寝てただけだ。好きで異世界勤務してるみたいに言うなよ」
「じゃあ、あの夢も黒金の欠片も、本当にこの四畳半と繋がってたんですね」
「……まあな。だから見なかったことにして帰る選択肢も、まだあるぞ?」
ひなたは俺とゼニスを見比べ、数秒考えてからはっきり頷いた。
「私、行きます。ここまで分かっていて、また『夢でした』で終わらせる方が嫌です」
「行かなくていいんだって。現役の人間が休日に異世界監査まで受ける必要ねえだろ。休みは休むためにある」
「それを陸さんが言うのは少し腹立ちますけど、決めるのは私です。危険区域に行かない、必ず戻れる、断っても不利益なしまで説明されましたし」
「俺の側の問題もある。お前が来たら、ミャオだのモグだのリリアだの、一人ずつ『これは何ですか』って説明する人間が増えるんだわ」
「結局、あなたが面倒だから止めてるんですか!?」
「面倒は重要な判断材料だぞ。事故の半分は『説明が増えた』から始まる」
「そんな安全標語聞いたことありません!......本当に、仕方のない人なんですから――」
光が広がった。次に目を開けた時、俺たちがいたのは「やどり木」の食堂だった。ミャオが皿を持ったまま固まり、モグが口いっぱいの肉を噛むのを止め、リリアが椅子から立ち上がる。少し遅れてルヴィアまで入ってきた。
「あー、この人が、陸の後輩さんかにゃ?」
「へえ。陸の昔を知ってる人?」
「陸、こいつ食い物持っておるぞ!」
「おーっほっほっほっほっ!! 現代世界よりのお客様ですのね! 歓迎の宴を――」
「
お前ら待て。全員一気に来るな」
ひなたは完全に固まっていた。猫耳の宿屋女将。子供の姿をした古竜。白銀髪で顔色の悪すぎる死人。深紅の縦巻きロールに角まで生えた金持ち古竜。
「……陸さん」
「何だ」
「どういう生活してるんですか」
「俺が一番聞きたい」
ミャオが皿を置き、ひなたの前へ回った。猫耳を少し伏せ、いかにも宿の女将らしく丁寧に頭を下げる。
「ミャオにゃ。陸がこっちで寝床なくさずに済んでるのは、だいたいミャオのおかげにゃ!」
「おい、自己評価高くない?」
「事実にゃ。陸一人で住ませたら部屋腐るにゃ」
「日本ではまだ腐ってねえ」
「さっき見ましたけど、かなり危なかったですよ」とひなた。
「後輩が異世界まで来て大家側につくなよ!」
そこへ淡い桜色の髪を揺らしてティアナまで顔を出した。
「騒がしいと思ったら……その人が黒田の後輩?」
「望月ひなたです。陸さんがお世話になってます」
「いや、世話してるのはこっちだけどね」とティアナ。
「そこ、即訂正すんなよ!」
ひなたとティアナが同時に俺を見て指をさし合った。
「昔の陸さんを知ってる人」
「今の黒田を知ってる人」
二人がほとんど同時に言い、俺は嫌な予感しかしなかった。
「お前ら、その組み合わせで情報交換すんなよ。俺の社会的信用が両世界から挟撃される」
「最初からそんなもの残ってると思ってるのかしら?」とティアナ。
「うっわ、辛辣ぅ!」
リリアがひなたの両手を握った。
「ねえねえ! 昔の陸ってモテた!? 彼女いた!? あと働いてたの!?」
「最後だけ確認の方向性おかしくねえか!」
ミャオが真顔になった。
「ええっ、陸、働いてた時期あるのかにゃ?」
「お前まで何だその反応!」
ひなたが困ったように笑う。
「陸さん、昔は普通に働いてましたよ。むしろ、現場ではちゃんとしてました、しすぎてるくらいに」
食堂が静まり返った。モグが肉を飲み込んだ。
「絶対嘘じゃろ、そんなもの」
「デブ竜にまで否定されたぁぁぁぁぁぁ!!」
ルヴィアは扇子を広げ、ひなたを上から下まで見て満足そうに頷いた。
「現代世界からのお客様なら、歓迎の席は最低でも七品、いえ十品必要ですわね。寝具も最上級へ替えなさい。費用はわたくしが――」
「ルヴィア、止まれ」と俺。
「まあ。遠慮なさらなくても」
「違う。お前が歓迎すると宿が改装工事から始まる」
「あらあら。当然ではなくて?」
「一泊するだけだぞ!」
ミャオが頭を抱えた。
「お願いだから壁に金箔貼ろうとしないでにゃぁぁぁぁ!!」
ひなたが小声で俺へ聞いた。
「陸さん、本当に何してこの人たちと知り合ったんですか」
「俺にも説明できねえ。気づいたら借金と竜と死人が増えてた」
「それ、一番説明が必要なやつですってば」
【神界・追加ご請求】
・現代側第三者一日限定転送費 金貨650枚
・世界間身体・因果保護費 金貨200枚
・立会監査開始処理費 金貨100枚
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今回加算 金貨950枚
今回加算・日本円換算 4,750,000円相当
前回繰越残高 金貨47,174枚
前回繰越残高・日本円換算 235,870,000円相当
合計残高 金貨48,124枚
合計残高・日本円換算 240,620,000円相当
「四百七十五万円!? ひなた、今から帰れ! 滞在時間短くしたら日割りになるだろ!」
「なりません!」
「陸さん、私をホテル料金みたいに扱わないでください!」
「二人まとめて俺を責めるなよぉぉぉぉぉ!!」




