第75話 お前の上司、うちの大家に似てんな
東の戦場から戻った翌朝、俺は「やどり木」の食堂で焼いた黒パンをスープへ沈め、昨日までの面倒事を頭から追い出す作業に専念していた。
帝国の軍需契約だの、神界系の融資らしい痕跡だの、知れば知るほど「じゃあ確認してください」「次は調査です」が増える話しか出てこない。
知らなければ寝ていられたものを、半端に知ったせいで仕事へ追い回されるのは損でしかないので、今日は食ったら部屋へ戻って昼まで寝る。俺の中ではもう確定事項だった。
「黒田さん。食べ終わっても席を立たないでください。上位査定が入ります。今日は『聞いてません』『帰ります』『寝ます』の三段逃走を全部封じるつもりで来ましたから」
「朝飯食ってる人間に査定ぶつける方が労働法違反だろ。少なくとも食後三十分、できれば昼寝二時間を空けてから来い。胃にも人権があるんだぞ」
「あなたの胃に人権があるなら、私の勤務時間にも人権があります。あなた、先延ばしにすると夜まで逃げるでしょう」
「聞こえなかったことにする」
「今の距離で聞こえないなら耳鼻科を手配します。もちろん有料です」
「あーあー、急に治ったわ。神の奇跡って便利だな!治療費は無料でいいぞ」
「自分で聞こえないふりしただけでしょうがあ!」
俺の正面に立ったゼニスは、朝から隙がなかった。艶のある黒髪を低い位置でまとめ、金色寄りの琥珀の瞳には細縁眼鏡。黒いジャケットと膝丈のタイトスカートは、身体の線に合わせて仕立てたのが一目で分かるほど無駄に出来がいい。胸元には白いリボンタイ、手には金縁の帳簿。
銀行員と監査法人と悪徳金融を全部混ぜたような格好だった。
「お前さ……また妙に仕上げてきたな。今日は何だ。貸金業者と監査法人を足して、最後に美人局を振りかけた感じか?」
「神界監査補佐官仕様です! 安心感と信頼感を与えるため、色も丈も装飾も規定内で揃えています。そもそも私は取り立てへ来ているのであって、色仕掛けで契約させる必要なんか――」
「胸元を三ミリ調整したところで、借金は払わねえぞ」
「三ミリどころか開けてません! ……でも、そこまで見たなら全体の感想くらい言えてもいいでしょう。朝から髪もわざわざまとめ直したんですよ?」
「バインダーが金縁なの、経費内?」
「そこを見るなぁぁぁぁぁ!! なんで私がちょっと寄せた話題を全部、備品と経費へ戻すんですか! 少しくらい『似合ってる』で済ませればお互い平和でしょうがぁぁぁぁぁ!!」
「仕事着に感想を強要する方がコンプラ的に危ないぞ。俺はお前のためを思って無反応を貫いてるんだ」
「絶対いま思いついた理屈でしょう! あなた相手だけ私の自尊心が毎回赤字なんですよぉぉぉぉ!!」
ゼニスの絶叫が食堂の梁へ跳ね返ったところで、奥から「お若いモンは、元気でええねえ」と小さな咳払いが重なった。さっきまで空いていたはずの窓際に、小柄な老婆が現れて、もう湯飲みを手にしている。その老婆は灰色がかった質素な着物めいた服、膝には分厚い帳面、椅子の横には使い込まれた算盤。神々しい光も威圧的な衣装もないのに、笑った目だけが妙に逃げ道を許してくれなさそうに感じさせた。
「ゼニスちゃん。元気でええねえ」
「せ、銭神様……お待たせしましたぁぁ!!」
ゼニスの背筋が、見たことないくらい真っ直ぐになった。
俺は黒パンを噛みながら老婆の顔を見た。家賃を三日遅らせた時、玄関先で「陸ちゃん、今月まだだねえ」と笑っていたキヨ婆と同じ種類の目だ。怒鳴らないし、急かしもしない。なのに「払うまで帰らんよ」が先に決まっていて、こちらの言い訳だけが勝手に死んでいく。
(……うちの大家に似てんな。こういう笑い方する婆さんは危険だ。絶対、金の話になったら一歩も引かねえ。因業深い銭ゲバババアの目ぇしてやがるわ)
「誰が因業深い銭ゲバババアじゃろうねえ?」
「うわ、心読めんのかよ」
「おんし、口に出とったよ」
「それは失礼しました!」俺は自衛隊時代にした最敬礼よりも深々と、そして迅速に頭を下げた。
「謝るの軽ぅっ!」
ゼニスの悲鳴を聞きながら、俺は黒パンをもう一口かじった。その横へ、ミャオが厚い帳簿を抱えてやってきた。小柄な猫人族の女将はいつものエプロン姿で、猫耳だけが警戒するようにぴんと立っている。
「神界の帳簿だけ見ても駄目にゃ。陸にはこっちの宿代と食費と立替もあるにゃよ?」
「おい、何で民間債権者まで参加してんだ」
「そりゃ債権者だからにゃ!」
さらに入口から、豪華すぎる深紅の縦巻きロールが入ってきた。白と赤と金のドレス、金色の瞳、小さな赤い竜角。ルヴィア・ヴァーミリオンは朝から扇子まで持っている。
「おーっほっほっほっほっ!! 黒田陸の支出確認と聞いて参りましたわ! わたくしが提供した食材、宿泊費、輸送費、竜族用高級香辛料、避難民への差し入れ――全部まとめても、わたくしの財布には誤差ですけれど!」
「スポンサー様、こちらへどうぞ――」
「陸、今だけ接客が丁寧になったにゃ」
「金持ちは敬う。資本主義の基本だろ」
最後にモグがやってきた。来たというより、厨房から皿を両手に持って戻ってきただけだった。
「おまえら話長い。これ食っていいかのう、陸?」
「もう食ってるだろ、口の中に食べ物詰め込みやがって」
「うむ、うまい」
銭神が帳面を一枚めくった。
「まず確認ね。黒田陸さん。神界側の債務は昨日の時点で金貨四万六千二百七十四枚。異世界側にはミャオちゃんの別帳簿。ルヴィアちゃんの支援金は原則、本人の好意と契約範囲。で、この黒い竜の食費が――」
「災害復旧費で落とせないですか?」
「食費じゃよ」
「自然災害だぞ?」
「食費じゃよ」
「古竜だぞ?」
「食費じゃよ」
三回とも同じ笑顔だった。俺は敗北を認めた。
「じゃあミャオの帳簿は地域経済振興費にして神界へ回せない?」
「何で陸の宿代を世界が負担するにゃ!」
「俺が泊まることで客室稼働率が上がる。経済効果上がってるだろ」
「払ってない客で稼働率だけ上がっても赤字にゃぁぁぁぁ!!」
「ではモグの食費を古竜封印維持費に――」
「わらわ封印されてないぞ」
「てめえは今から封印されろ。食費が経費になる」
「嫌だ。飯食えなくなるじゃろ!」
「会計上のために古竜を封印しようとするなぁぁぁぁぁ!!」
ゼニスが朝から二度目の絶叫を上げ、ルヴィアは扇子の陰で楽しそうに笑っていた。銭神だけは「いろんな節税を考える人がおるねえ」と妙に感心していて、そこだけ大家というより税務相談のベテランにも見えた。
「モグ。お前、人間社会では剣も魔法も使わず、食ってるだけで俺の財布を殺せるらしいぞ。古竜ってもっと山を焼くとか城を壊すとか、そういう災害じゃなかったのか」
「飯を食うのは生きるために必要じゃ。わらわは昔、食える時に食わねば次がなかった。いま食えるのに我慢する方がおかしい。陸も細いパン一枚で済ませず肉を食え。腹が減ると弱くなるぞ」
「最後だけ正論っぽくして食費の桁をごまかしてんじゃねえ。お前に合わせたら俺が先に破産する」
「陸は弱いな。金がなくなる前にもっと稼げばよいだろう」
「お前が働けよ! お前にだけは言われたくねえ」
銭神はそこで、戦場から持ち帰った契約調査記録へ視線を落とした。
「問題は借金の額だけじゃないんよ。ヴァルディス側で出てきた軍需融資の痕跡。ゼニスちゃんの系統とは違うけれど、神界に近い契約構造が混ざっとるのね。それから黒田さん自身の世界間接続。使った奇跡の量に対して、因果の戻り方が少し変じゃ」
「病院で『ちょっと影ありますね』みたいに言うな。怖いだろが」
「実際、怖い話をしとるんじゃよ」
ゼニスもふざけなくなった。
「黒田さん。あなたの過去の世界間接続履歴を再照合します。以前、夢境を介して現代側の関係者へ接触しましたよね。その因果線を一度確認したいです」
「却下。寝てる奴までまた仕事に呼ぶな」
「あなたが言うんですか!?」
俺は鼻をほじり、出てきたものを紙ナプキンへ丸めた。
「俺は起きてても働きたくない。寝てる奴を働かせるのはもっと駄目だ。労働倫理の話だぞ」
「人生で一番あなたから遠い単語を盾にするなぁぁぁぁぁぁ!!」
銭神が湯飲みをすすった。
「まあまあゼニスちゃん。まずは過去の接続先を一晩だけ確認しましょ。壊さんようにするから」
「壊す可能性がゼロじゃない言い方をまずやめろ」
「ゼニスちゃんが責任持つよ」
「ええっ、私なんですか!?」
「おぬし、担当じゃろ?」
「……はい」
さっきまで俺から取り立てていたクソウザ女神が、銭神に話を振られた途端、借りてきた猫みたいに小さくなった。俺は口元を押さえた。
「お前、上司の前だと弱えんだな......」
「それ以上笑ったら請求項目を適当に一つ増やしますよ」
「同等と横領宣言かあ?」
「正規の精神的損耗費です!」
「そんな費目あるかぁぁぁ!」
「あなたにだけは言われたくないぃぃぃぃ!!」
【神界・追加ご請求】
・上位神界監査立会按分費 金貨90枚
・敵性契約系統初動照合費 金貨120枚
・因果履歴予備査定費 金貨30枚
─────────────────
今回加算 金貨240枚
今回加算・日本円換算 1,200,000円相当
前回繰越残高 金貨46,274枚
前回繰越残高・日本円換算 231,370,000円相当
合計残高 金貨46,514枚
合計残高・日本円換算 232,570,000円相当
「監査される側が監査費払うのおかしくない?」
「原因者負担じゃよ」
「やっぱ大家だわ、このクソババア」
「黒田、聞こえとるよ」




