第2話 古竜を宿へ連れ帰った。俺より先に食費で追い出されそう
俺が目を開けた瞬間、見慣れない木目の天井があった。
鼻に入ってくるのは畳とカップ麺の残り香ではなく、焼いたパンと煮込み料理の匂い。王都近郊の集落、その外れに建つ宿屋兼万屋「やどり木」の二階だった。
昨夜、俺は確かに日本の四畳半で寝たはずだ。それもジャージの腹をめくり、ゴキブリ一匹と平和条約を結んだまま、いつもの涅槃図みたいな格好で寝たのを覚えている。
なのに今は、ちゃんとしたベッドの上にいる。
「......あのクソ女神、ついに寝てる人間まで勝手に運ぶようになったのかよ」
枕元には一枚の紙が置かれていた。
『業務上必要な再召喚です。睡眠中につき説明省略。なお規格外個体モグについては、黒田さんの登録生活拠点を暫定保護先として指定しました。搬送費その他はご本人負担です。 担当女神・ゼニス』
「説明を省略した分くらい値引けよ。あと勝手に俺の宿をデブ竜の収容施設に指定すんな」
紙を丸めて床へ投げようとしたところで、階下から食器の割れる音がした。
続いて、聞き慣れた猫っぽい声が宿中を揺らす。
「陸ぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ! 起きるにゃあああああああっ!!」
嫌な予感というものは、大抵の場合、起き上がらなければやり過ごせる。
俺はそう信じて毛布を頭まで引き上げた。
「いない。黒田陸は現在、長期休暇に入りました。お問い合わせは来世でお願いします」
「今しゃべったにゃ! しかも昨日まで日本に帰ってた奴が、この宿で長期休暇を申請するにゃああああっ!」
扉が勢いよく開いた。
エプロン姿のミャオが、片手に帳簿、片手に空っぽの鍋を抱えて立っている。小柄な身体の上で猫耳がぴんと逆立ち、尻尾は怒りを測る温度計みたいに膨らんでいた。
「陸。まず確認するにゃ。昨日まで厨房の棚に、干し肉が十二束、パンが十四個、卵が二十個、朝用の煮込みが大鍋ひとつあったにゃ」
「朝から在庫確認とか偉いな。経営者の鑑だわ。俺なら確認する前に二度寝してる」
「褒めて誤魔化すにゃよ! 今朝見たら干し肉ゼロ、パン二個、卵の殻だけ二十個、煮込み鍋は底まで舐めたみたいにピッカピカだったにゃ。しかも厨房の前に知らない銀髪の子供が座って、『次は何じゃ』って皿を叩いてるにゃ!」
俺は毛布から顔だけ出した。
「ああ、それモグだな」
「知ってるのかにゃ!?」
「昨日、竜だったやつ。二十メートルくらいの」
「説明がテキトーすぎるにゃあああああっ!」
ミャオに毛布ごと引きずられ、階下へ連行された。
食堂では、十歳くらいに見える銀髪の少女が椅子の上に正座していた。頭には小さな角、腰からは黒い尻尾。縦に裂けた瞳孔が、空になった皿をじっと見つめている。
俺の顔を見るなり、モグはぱっと表情を明るくした。
「おお、陸か! 遅いぞ。しかし、ここの飯はなかなか良いな。肉は薄いが汁に味が染みておるし、パンというものは外が硬いのに中が柔らかい。卵も良い。殻を剥くのが面倒じゃったから、途中から殻ごと食ってやったわ」
「最後だけ急に竜へ戻るな。腹壊すぞ」
「わらわは古竜じゃぞ。石でもそこそこいける」
「あ、そう。いけるんだ......」
ミャオが俺とモグの間へ帳簿を叩きつけた。
「いけるんだ、じゃないにゃ! 陸、この子は何者で、どうしてうちにいて、どうして私の食料を一晩で非常事態にしてるのか、最初から最後までちゃんと説明するにゃ!」
「いや、俺も全部は知らん。昨日、森ででっかい竜に襲われて、戦闘糧食を投げたら懐いた。名前はモグ。財宝を守ってるって言うから期待したら全部食料でな。俺はそのあと面倒になって日本に帰って寝た。そしたらゼニスが勝手にこいつをここへ送って、俺まで寝たまま連れ戻した。以上」
「なんで最後まで全部他人事みたいに説明できるにゃ!」
「俺の意思で起きたことが一個もねえからな」
「非常食を投げたのは陸の意思にゃ!」
「そこだけ切り取るな。戦闘中だったんだぞ」
モグは二人のやり取りなど気にもせず、テーブルに頬杖をついた。
「ミャオとやら。わらわはこの宿を気に入ったぞ。飯が出る。雨が降っても濡れぬ。寝床もある。洞窟よりずっと便利じゃ。今日からここを第二の財宝庫とする」
「勝手に店舗を財宝認定するなにゃ! 泊まるなら宿代、食べるなら食費を払う。これは子供でも分かる決まりにゃ!」
「金などない」
「あほかああああああああああっ! 偉そうに胸を張るにゃ!」
モグは少し考え、それから俺を指差した。
「なら陸が払う。陸は最初に飯をくれた。飯をくれた奴は次も飯をくれる。なら飯代も陸が払う。完璧じゃ」
「どこが完璧だ。途中から俺が財布になってるだろ」
「財布とは食べられるのか?」
「食うもんじゃねえわ」
ミャオが額を押さえた。猫耳まで疲れたように横へ寝ている。
「陸。今月、自分が私にいくらツケてるか覚えてるかにゃ?」
「細かい数字は人間を不幸にするぞ。帳簿に書くから増えたように見えるんだ。書かなきゃ心理的にはゼロだろ」
「借りてる側が帳簿そのものを否定するなにゃ! 宿代、食費、前に勝手に持っていった保存食、傷薬、革紐、防具の補修代。全部ちゃんと別口で残ってるにゃ。そこへこの子の食費まで乗せたら、私の二号店どころか今の店の鍋が先に消えるにゃ」
「鍋は食わないだろ、さすがに」
「わらわなら食えるぞ」
「モグは黙ってろ」
モグは頬を膨らませたあと、空になった皿を見つめた。
「食える時に食っておかねば、次も食えるとは限らぬだろう」
ほんの一瞬だけ、その声から子供っぽさが消えた。
ミャオも俺も、返す言葉が止まる。
だがモグはすぐに顔を上げた。
「だから、おかわりをくれ!」
「台無しだよ」
「今ちょっとだけ心配した私の気持ちを返すにゃ!」
ここで俺は、極めて合理的かつ建設的な提案をすることにした。
働かないためなら、俺は驚くほど頭が回る。
「ミャオ、考え方を変えよう。モグは竜だ。それも昨日まで討伐等級・規格外扱いされてたくらいのやつだぞ。そんなのが宿の看板娘になったら宣伝効果がある。『古竜が泊まる宿』だ。客が来る。飯が売れる。結果としてモグの食費は広告宣伝費。むしろ必要経費だ」
「その広告塔が客の朝飯を全部食べてるにゃ。客が増えたら食べる量も増える未来しか見えないにゃ」
「じゃあ食べ放題をやめればいい」
「最初から食べ放題じゃないにゃ!」
「でもモグは食べたぞ」
「無断でにゃ!」
モグが腕を組み、いかにも重大な会議へ参加する顔をした。
「では一日三食までにする。わらわも譲歩しよう。朝、昼、夕。それぞれ大鍋ひとつと肉を山盛り。それ以上は我慢する。これでどうじゃ」
「それを一人前って言わないにゃ!」
「では二人前だな」
「数字を小さく言えば量まで減る仕組みじゃないにゃ!」
食堂に朝から絶叫が響いた。
宿泊客が二階から顔を出し、何事かと覗いている。俺はその視線に気づくと、モグを指して小声で言った。
「ほら、もう集客できてるじゃねえか」
「騒音苦情の予備軍にゃあああああっ!」
十分ほど揉めた末、ミャオは帳簿の新しいページを開いた。
「分かったにゃ。モグはしばらく泊める。このまま追い出して森へ戻って、また腹を空かせた二十メートルの竜になられても困るにゃ。けど条件があるにゃ。食事は私が決めた量。勝手に厨房へ入らない。棚を開けない。客の皿から取らない。それと――陸」
「その溜め方、俺にろくな話じゃないだろ。聞かなかったことにしていい?」
「明日、冒険者ギルドへ行くにゃ」
「急に話が飛んだな。モグの食費の話してたよな?」
「飛んでないにゃ。食費が増える。陸のツケも増える。だったら陸が稼ぐ。ものすごく綺麗につながってるにゃ」
俺は椅子の背へ深く身体を預けた。
「いや待て。俺が働く前提で話を進めるのはおかしい。そもそも俺はこの世界に自発的に来てない。女神に呼ばれて、借金返済のために危険な仕事を押しつけられてる被害者だぞ。その被害者に宿代を請求し、さらに扶養家族までつけて労働させるって、環境としてどうなんだ。ここはせめて生活保護的な制度を検討してから――」
「その長い言い訳を考える頭で薬草の一束でも探してこいにゃ!」
「働かないための努力と、働く努力を一緒にするな。前者は人生を豊かにするための工夫だ」
「一緒にしろにゃあああああああっ!」
モグは空の皿を両手で持ち上げた。
「話はまとまったか? ではおかわりをだな」
「なーんもまとまってないにゃ!」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その日の昼過ぎ。
俺が食堂の長椅子で片肘をつき、頭を手のひらへ乗せて横になっていると、金色の光がふわりと広がった。すっかりいつもの涅槃図スタイルである。
現れたゼニスは、白いブラウスに濃紺のベスト、膝丈のタイトスカート、胸元には名札という、どう見ても高級ホテルのフロント係みたいな格好をしていた。黒髪は後ろできっちりまとめられ、金色の光輪だけが職業選択を完全に台無しにしている。
「黒田さん。本日の生活基盤確認に参りました。宿泊施設、食事提供環境、債務者の就労見込み――概ね問題ありませんね」
「そのイカれた格好は何だ」
「イ、イカれ......こほん。今回の業務に最適な装いです。宿泊施設への訪問ですから」
「ただのコスプレじゃねえか」
「業務服です」
「名札に『GOD STAFF』って書いてあるぞ」
「神であることを隠す理由がありませんので」
ゼニスは営業スマイルのまま、細い金縁のバインダーを開いた。
「それから昨夜の再召喚ですが、睡眠中搬送オプションを使用しました。通常召喚ですと途中で起きて騒ぐ可能性が高かったので、静音処理も付けてあります。なお、モグさんについては規格外個体の暫定保護措置として、黒田さんの登録生活拠点へ搬送しました」
「勝手に人の宿を保護施設にすんな。それに寝てる奴を運ぶだけで追加料金取るって何だよ。引っ越し屋でももうちょい良心的だろ」
「黒田さんが起きていた場合、『行きたくない』『眠い』『明日にしろ』の三段階拒否が予測されました。過去実績に基づく合理的措置です」
「予測できたなら呼ぶなよ」
「債務者が働かないという予測ができたので、呼んだんです」
反論しようと口を開いたが、ミャオが横から帳簿を差し込んできた。
「ゼニスさん。この人、明日からギルドで働かせるにゃ。逃げそうだったら、そっちでも止めてほしいにゃ」
「承知しました。黒田さんの就労は当方の回収率向上にも直結します。神界債務とこちらの生活債務は別口ですが、就労促進という一点では利害が一致しますね」
「勝手に債権者同盟を結成すんな!」
ゼニスとミャオが同時に微笑んだ。
片や神界の債権者、片や異世界生活の債権者。笑顔の種類は違うのに、俺を見る目だけ妙に似ていた。
モグはその間にもパンを齧っている。
「陸、明日はいっぱい稼いでこい。わらわはいっぱい食う」
「俺の労働意欲をゼロより下に押し込むな。てか、お前も働けよ!」
こうして俺の異世界生活には、神界への借金とは別に、宿代、食費、立替金、そして古竜一匹ぶんの胃袋が追加された。
働きたくないという俺の希望だけが、誰の帳簿にも記載されていなかった。
【今月のご請求】
・異世界再召喚基本料金 金貨180枚
・睡眠中搬送・静音処理オプション 金貨70枚
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今回加算 金貨250枚
日本円換算 1,250,000円相当
前回繰越残高 金貨21,600枚
合計残高 金貨21,850枚
日本円換算 109,250,000円相当
※宿代・食費・モグの食費等、ミャオ管理の生活債務は別口。




