第1話 討伐対象がデカすぎる。とりあえず戦闘糧食を投げてみた
北の森は、静まり返っていた。
いや、正確には静かすぎた。鳥の声も虫の羽音もなく、木々の隙間を抜ける風だけが妙に重い。そんな不気味な空気の中、俺の頭だけは昨夜の安酒のせいで、さっきから一定の周期でずきずき脈打っている。
森へ入る前に、爪楊枝へ刺していた最後のシケモクを吸い切った。火だけはきっちり消して携帯灰皿へ押し込んである。金がなくて吸い殻を再利用するほど落ちぶれてはいるが、山火事を起こすほど落ちぶれた覚えはない。
「なあゼニス、これマジで俺が行く必要あんの? 討伐等級・規格外って、普通に国軍とか騎士団とか呼べよ。そういう時のために税金払ってんだろ」
「もう呼びました。全滅しました」
「はあ!? 即答すな! あと俺いま税金ほぼ払ってねえわ!」
「そこは胸を張らないでください。正確には三個騎士団が戦闘継続不能。死者は確認されていませんが、全員森の外まで叩き出されています」
「じゃあ最初からそう言えよ! 今ので俺の中では三百人くらい死んだぞ! しかも訂正されても俺が行きたくなる情報が一個もねえ!」
「ですから黒田さんを呼んだんです。それより、その酒臭い息で私の方を向いて喋らないでください。あと、そのジャージ、何日目です?」
「三日目。だが二着をローテしている。つまり実質一日半だ」
「日数は割り算できません。しかも昨日も同じ色でしたよね?」
「同じ色を二着持ってんだよ。危機管理ってのは予備を持つことから始まるんだ」
「まず洗濯するところから始めてください!」
二日酔いの頭に絶叫が響く。
俺は顔をしかめながら耳を押さえた。
「声量落とせ。頭蓋骨の内側で反響する。まだ昨日の酒が残ってんだよ」
「何のんきに酒飲んでんだ、この多重債務者がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
森の奥から、地面を震わせる低い音が返ってきた。
ゼニスの絶叫に対する返事ではない。
木々が揺れ、鳥一羽いなかった枝から葉がまとめて落ちる。次の瞬間、太い幹が何本も横倒しになり、その向こうから巨大な影が姿を現した。
体長二十メートルはある。
漆黒の鱗、太い四肢、俺一人くらいなら丸呑みにできそうな顎。縦に裂けた巨大な瞳が、まっすぐこちらを捉えた。
「また来たかぁぁぁぁぁっ! わらわの財宝は渡さぬぞぉぉぉぉぉっ!!」
「ゼニス。あいつ普通に喋ってんだけど。交渉じゃ駄目なの?」
「その提案、顎が閉じる前に本人へ伝えてみてください」
「お前だけ安全圏から言うな!」
竜の巨大な顎が迫る。
黒田は横へ飛んだ。考えるより先に身体が動き、牙が俺のジャージをかすめて地面へ突き刺さる。その拍子にポケットから紙切れが一枚舞った。
昨日の外れ馬券だった。
「黒田さん、命の危機にまで外れ馬券を持ってこないでください!」
「反省資料だよ! 次に活かすための重要データだ!」
「昨日も同じこと言って負けたんでしょう!?」
「期待値では勝ってた! 結果の方がおかしかったんだよ!」
「結果が負けなら負けなんですよ!」
竜の尻尾が薙ぎ払われる。
俺は身を低くしてかわしたが、風圧だけで身体が転がった。肺から空気が抜け、二日酔いの胃まで揺さぶられる。
同時に、身体の奥が熱を持ち始めた。
特性スキル「即応」。
戦闘状態へ入った俺の経験値が、馬鹿みたいな勢いで積み上がっていく。普段サボって落ちきった身体能力が、必要になった瞬間だけ急速に戻っていく――そして、その横ではもっと嫌な数字も元気よく動いていた。
金貨残高である。
「レベル12、13......14。順調ですね。現在の即レベ利用料、累計金貨600枚を突破しました」
「戦闘中に金の実況すんな! 集中力削られるだろ!」
「料金を認識しないまま使い続ける方が危険です。私は担当者として適切な情報提供を――」
「いま一番危険なのは目の前のデブ竜だろうが! お前の優先順位どうなってんだ!」
「ごらぁぁぁ!!誰がデブ竜じゃあああああああっ!!」
「聞こえてんのかよ!」
竜が本気で怒った。
踏みつけられた地面が陥没し、俺は鼻をほじりながら数歩下がる。
「黒田さん。さっきから鼻をほじる余裕があるなら、もう少し真面目に戦えません?」
「余裕じゃねえ。緊張すると鼻が気になるんだよ。それに俺は最初から言ってるだろ。本気出してどうにかなる保証がないなら、まず逃げ道を探す。勝てるなら一番楽な方法で勝つ。汗かく方法は最後だ」
「働かないための方針だけは一貫していますね!」
もう一度、竜が頭を低くした。
その時、腰のポーチに手が触れた。
指先へ当たったのは、万が一のために持ち歩いていた【戦闘糧食II型・中華風カルビ】のパウチだった。
今日の飯にも困るような生活をしているくせに、非常食だけは持っている。
我ながら優先順位がおかしい。
いや、違う。
これは予備だ。予備は必要だ。必要になった時に持っていなければ、その時点で終わる。
「黒田さん、何を――」
「ああもう、食らえ!」
半ばヤケクソで投げたパウチが、開いた竜の口へ吸い込まれた。
ぱき、と包装が牙に引っかかる。
中身が口の中へ落ちた。竜の動きが止まった。
「......なんじゃ、これは」
もぐ。
巨大な顎が動く。
もぐ、もぐ。
俺とゼニスは並んで見上げたまま、何も言わなかった。
「......うま」
「今、うまって言った?」
「黒田さん、刺激しないでください」
「う、う、うまいぞぉぉぉぉぉぉぉぉっ!! なんじゃこれは! 肉か!? 肉なのか!? 甘い! しょっぱい! もっとあるのか!? もっと食わせろぉぉぉぉぉっ!!」
さっきまでの殺気が一瞬で消えた。
代わりに、巨大な瞳が完全に餌を待つ犬の目になっている。
「......あるけど」
「寄越せ!」
「待て。そのままでも食えるけど、温めた方がうまい」
竜が固まった。
ゼニスも固まった。
「黒田さん。確認しますけど、いま討伐対象へ料理を提供しようとしてます?」
「うまいもん食わせたら話が通じるかもしれんだろ。殴るより楽だし、俺も痛くない。これ以上ない平和的解決じゃねえか」
「つい数秒前まで『食らえ』って顔面へ投げつけてましたよね?」
「過去の俺の行動を今の俺に持ち出すな。人間は成長するんだよ」
「完全に不要な方向に成長してますね!」
俺は安全そうな場所まで下がり、小さな火でパウチを温めた。
竜はその間、地面へ伏せて待っている。さっきまで森を震わせていた規格外個体が、飯を待つだけで妙に行儀がよくなっていた。
「ほら。今度はゆっくり食え。あっためればもっとうまいぞ」
「――ッ!」
ひと口。
巨大な瞳から、ぼろぼろと涙が落ちた。
「うまい......! 何百年生きてきて、こんなうまい肉は初めてじゃ......!」
竜の身体を光が包む。
巨体が急速に縮み、鱗も翼も光へ溶けていった。
光が晴れた時、そこに立っていたのは十歳前後にしか見えない少女だった。銀色の髪に、縦へ裂けた竜の瞳。頭には小さな角、腰の後ろでは細い尻尾が揺れている。
少女は胸を張った。
「わらわの名はモグ。この北の森の守護者にして、世界に二つとない財宝を守る偉大なる古竜――」
ぐるるるるるる。
腹の音が森に響いた。
「......もう腹減ったのじゃ」
「自己紹介より早えよ」
「はーらへった!腹減った! さっきの肉、もうないのか!?」
「ねえよ。俺の非常食だったんだぞ」
「では財宝を見せてやる! 見れば貴様も、わらわへもっと飯を献上したくなる!」
「その理屈は分からんが、金目の物なら話だけは聞いてやろう」
「黒田さん。今、目が急に生き返りましたね、あと上から目線ですね」
嫌な予感はした。
だが「財宝」という単語には勝てなかった。
モグに案内され、俺たちは洞窟の奥へ進む。頭の中では金貨、宝石、伝説の武具、売れば借金が一気に減る何かが順番に浮かんでいた。
そして最奥へ着いた瞬間、その期待は一瞬で綺麗に死んだ。
積まれていたのは干し肉。
穀物。
豆。
塩漬けの保存食。
洞窟いっぱいの食料だった。
「......これが、財宝?」
「うむ! この森いち、いや世界いちの食料備蓄庫じゃ! 腹が減った時に食える。冬でも食える。金貨よりずっと役に立つ。最高の財宝じゃろう!」
モグは心の底から誇らしそうだった。
俺は数秒黙ったあと、膝から崩れ落ちた。
「金じゃねえ......。一枚もねえ......」
「黒田さん。人の価値観を金貨だけで測るのやめません?」
「おいゼニス。今日の報酬は? 規格外を無力化した。実質討伐完了だろ。平和的解決加算とか、危険手当とか、食育手当とかつかねえの?」
ゼニスは金縁バインダーを開き、完璧な営業スマイルを浮かべた。
「依頼は『討伐』です。対象は生存。しかもあなた、討伐対象と仲良くなった上に、これから連れて帰ろうとしてますよね?」
「まだ連れて帰るとは言ってねえ」
「陸! 次の飯はどこじゃ!」
「もう連れて帰る顔してますよ」
「......で、金は?」
「報酬は現時点でゼロ。さらに即レベ稼働費が金貨3,200枚。日本円換算で約1,600万円です」
森が静かになった。
「......は?」
「今回だけで、約一千六百万円です」
「ちょっと待て。俺、デブ竜に飯食わせただけだぞ?」
「その前に命がけで即レベを回したでしょう」
「回したの俺じゃねえ! 勝手に回ったんだ!」
「契約者はあなたです」
「おいこらクソ女神ぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!! ふっざけんな! 一千六百万あったら何年酒飲んで煙草吸って馬券買えると思ってんだぁぁぁぁぁっ!!」
「その前に借金返せやゴラァァァァァァァァァァァッ!!」
森に、竜よりうるさい二人分の絶叫が響いた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
ゼニスの帰還処理で日本へ戻された時には、もう何も考えたくなかった。
見慣れた四畳半。
酒と煙草の臭い。倒れた空き缶。枕代わりのパチスロ雑誌。その上をゴキブリが一匹、家主より堂々と横切っていく。
俺はジャージのまま万年床へ転がり、いつものように片肘で頭を支えた。涅槃図のブッダそのものの姿勢である。
「よく考えたら、一億とか請求されてる奴が、今更一千六百万で騒ぐのもおかしいよな......」
自分で言って、余計に気分が悪くなった。
スマホがポコンと鳴る。
――望月ひなた:陸さん、今日の即応予備自の訓練、また欠席でしたね。何かあったんじゃないかって、心配してます。
しばらく画面を眺めた。
名前を見ると、妙に昔のことまで一緒に浮かびそうになる。
それが面倒で、俺は親指だけを動かした。
――黒田陸:生存
送信。
三秒もしないうちに返信が来た。
――望月ひなた:生存報告じゃありません。ちゃんとご飯食べました?
「返信した。俺は偉い。今日はもう十分働いた」
スマホを伏せる。
返事はしない。
そのまま半分ずれたジャージの尻をぼりぼり掻き、腹の奥に溜まっていたものを一発だけ放出した。
ぶっ。ぷすぷすー。
「もう......寝よ」
借金も、竜も、女神も、返信待ちの後輩も。
寝ている間だけは、たぶん追いかけてこない。
たぶん。
【今月のご請求】
・即応稼働費(即レベ利用料) 金貨3,200枚
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今回加算 金貨3,200枚
日本円換算 16,000,000円相当
前回繰越残高 金貨18,400枚
合計残高 金貨21,600枚
日本円換算 108,000,000円相当
※戦闘糧食II型・中華風カルビは経費未承認のため自己負担。
【登場キャラクター紹介】
ここまでに登場した人物を、現時点で明かされている範囲で簡単にご紹介します。
【★初登場 黒田陸】
32歳。元陸上自衛隊二等陸曹、元特科隊員。
現在は無職で、働くことを全力で嫌がる本作の主人公。
普段はジャージ姿でやる気も生活能力も低めですが、距離や位置、弾着を見る時だけ妙に目が鋭くなります。
女神ゼニスへの莫大な借金返済のため、今日も本人の意思とは関係なく働かされています。
【★初登場 女神ゼニス】
黒田の異世界召喚と債務管理を担当する女神。
普段は有能かつ冷静なはずですが、黒田を相手にすると営業スマイルが徐々に崩壊します。
蘇生、成長支援、各種神術――奇跡はだいたい有料です。
【★初登場 モグ】
北の森に棲んでいた規格外の古竜。
竜形態では巨大な黒竜ですが、人間形態では銀髪、角、尻尾を持つ小柄な少女の姿になります。
何よりも食べることが大好き。
本人の言う「財宝」の正体は、大量の保存食でした。
【★名前登場 望月ひなた】
現代日本から黒田へ連絡を送り続けている後輩。
訓練をサボる黒田の生存確認や食事の心配までしてくれる人物ですが、黒田から返ってくるのはだいたい「生存」の二文字です。




