第15話 通知が来ない。別に気にしてない。三十秒ごとに見てるだけだ
翌朝。
目を覚ました俺は、自分の部屋を見て、知らない場所へ転送されたのかと思った。
畳が見える。
机の上が平らだ。
灰皿が一個しかない。
昨日まで床の地形を形成していた雑誌と空き缶が消え、窓際には洗われたカーテンが妙にまっすぐ垂れている。
「......落ち着かねえな」
片肘をついて横になり、いつもの姿勢へ戻る。
部屋だけが正常で、住人だけが異常なままだ。
冷蔵庫を開ける。
ひなたが帰り際に入れていった市販の惣菜、パックご飯、ヨーグルト、スポーツドリンク。官給品なんぞではない。全部普通に店で買える物だ。
「勝手に冷蔵庫を充実させやがって。こういうのは生活水準が上がるから危険なんだよ。一回慣れると戻れなくなる」
言いながらヨーグルトを取る。
スマホに通知はない。
「今日は静かで平和だ。通知がないだけで世界ってこんなに穏やかなんだな」
食べる。
十分後。
通知はない。
「......まあ、仕事だろ」
一時間後。
俺は何となくスマホを見た。
「今のは通知確認じゃない。時計を見ただけだからな。別に待ってないし」
誰に言い訳してるんだ。
昼を過ぎても、ひなたから連絡はなかった。
いつもなら“ちゃんと食べましたか”“部屋を戻してませんか”“次の訓練日見ましたか”のどれか一つくらいは飛んできそうなのに、今日は静かだ。
「静かな方がいいだろ。何を気にしてんだ俺は」
煙草へ火をつけようとして、昨日ひなたに新品だけ別の場所へまとめられたことを思い出す。
一本取り出したところで、金色の光が部屋の隅に出た。
「お前、今日は普通に出てくんのかよ」
「望月さんはいらっしゃらないようですので」
ゼニスは今日は白衣だった。
ただし病院の医者というより、企業の健康管理室か産業医のような格好で、細身のスカートに白衣、胸元には神界の紋章が入った名札。手には問診票らしき板まである。
「何その格好。変態女医ごっこ?」
「契約者の生活環境改善後における稼働率確認です。昨日より明らかに空気が綺麗ですね。床も見えますし、食品もありますし、灰皿も一個。望月さん、優秀ですね」
「俺の生活能力がゼロみたいに言うな。俺だって掃除くらいできる」
「では、なぜ昨日までしなかったんです?」
「できるけど必要性を感じなかった。生活に支障が出てなかったからな」
「つまりできるけれどやらない、と」
「そういうことだ。能力がないんじゃなく、使用頻度が極端に低いだけ」
「一般的には、それを生活能力が低いと評価します」
「評価基準が悪い。俺は必要な時だけ能力を使う省エネ設計なんだよ」
「必要な時が来ても後輩の方に掃除させていますよね」
「させてない。向こうが勝手に始めた。俺は何度も止めた。ここ重要だから記録しとけ。俺は被害者寄りだ」
「空き缶を捨てられた被害者ですか?」
「歴史資料だぞ。昨日まで俺の生活史を構成してた重要物品だ」
「まだ言います?」
ゼニスが呆れながら問診票をめくる。
「それより、昨日の望月さんですが」
「何だよ」
「あなた、思っていたより普通に会話できるんですね」
「喧嘩売ってんのか。対面で普通に喋っただけで珍獣扱いするな」
「いえ。普段のライソ返信が“食った”“生存”“寝る”ばかりなので、対面すると三十文字以上喋れない呪いでもあるのかと思っていました」
「文字入力と会話は別だ。スマホで長文打つの面倒だろ」
「それだけですか?」
ゼニスの声が少しだけ静かになった。
俺は煙草の先を見る。
「それだけだよ。返信が短いのも、会うのを避けるのも基本は面倒だからだ」
「......そうですか。では、今はそういうことにしておきます」
「何だ、その分かったような顔」
「何でもありません。ただ、昨日のあなたは、彼女が昔の話へ触れた瞬間だけ明らかに変わりましたから」
「その話は終わりだ。仕事か監査か、別の話に切り替えろ」
「今は健康監査です。ですので、その話も契約者の状態確認に含まれます」
「じゃあ血圧でも測って帰れ」
「本当に便利ですね、その逃げ方。都合が悪いと全部“仕事の話をしろ”で切るんですから」
「便利だから使ってる。使える逃げ道をわざわざ塞ぐ必要はない」
ゼニスはそれ以上追わなかった。
その代わり、冷蔵庫を指す。
「ちゃんと食べてください。望月さんがせっかく――」
「お前まで母ちゃん側に回るな。あと、あいつを母親役にする気はねえからな。昨日の掃除だって一回だけだ。毎週来られたら俺の生活圏が侵略される」
「誰も毎週掃除してもらえとは言っていません。自分で維持してください」
「自分で維持するのが一番難しいんだよ。掃除は一回より継続の方が面倒だ」
「胸を張るな!」
ゼニスが白衣のポケットから小型端末を出す。
「それと、午後はハローワークへ行くんでしょう?」
「何で今日の予定まで知ってんだよ。俺の手帳を神界と共有した覚えはないぞ」
「契約者の就労状況確認は業務です」
「それ、業務って言えば何でも許されると思うなよ。このストーカー女神」
「女神に向かってなんですかそれは!」
「今日はお前の請求より鮫島の善意の方が怖い。人間ってのは悪意には抵抗できるけど、善意には弱いんだよ。あの人、俺が何言っても“じゃあ負担の少ない形から”って前進させてくる」
「まともな支援ですね」
「まともな支援だから困るんだよ。正論で来られると罵倒して逃げにくい」
「あなたは一回、まともに困ってください」
午後。
俺は約束どおりハローワークへ行った。
逃げようと思えば逃げられたが、鮫島の電話をまた受ける方が面倒だと判断しただけだ。決して社会復帰の意思が芽生えたわけではない。
窓口の向こうで、鮫島和彦が何枚かの求人票を並べた。四十代半ばくらい。地味なスーツに穏やかな顔。俺みたいな人間にも声を荒らげないという意味で、ある種の特殊技能を持っている。
「黒田さん。まず、今日は応募を決めなくて大丈夫です。勤務日数と仕事内容だけ見てください。警備、物流、安全管理補助。この三つなら、経歴を比較的そのまま説明できます」
「鮫島さん。俺の経歴、書類にすると妙に強くないですか。二等陸曹、部隊勤務、後輩指導、安全管理、野外勤務。これだけ読むと、かなり真面目に働いてた人みたいじゃないですか」
「実際、働いていたんでしょう?」
「昔の話っすよ。書類には、現在の生活状況って欄がないから助かってます」
「ある程度は面談で確認されますよ」
「じゃあ駄目だ。部屋を昨日まで見せたら即不採用だ」
「今日なら綺麗なんですか?」
「昨日、後輩に見つかって掃除されました。俺は抵抗したんですけど、数で押し切られました」
「それは......良かったですね」
「その間、何を言うか迷いましたね?」
「少しだけ迷いました。どう返すのが一番穏当か判断に時間がかかりまして」
鮫島は咳払いして、求人票を一枚指した。
「こちらは週三日から。夜勤なし。最初は補助業務です。いきなり責任者にはしません」
「“最初は”って言った。将来的に責任増やす気だ」
「長く働けば、任されることは増える可能性があります」
「ほら危険。仕事ってのは一回ちゃんとやると、次から“できる人”扱いされるんですよ。できないふりをしてる奴の方が長生きする」
「それを面接で言わないでくださいね」
「面接まで進む前提で話を進めるな」
「応募を決めなくても構いません。では、職場見学だけでも一度どうでしょう」
「見学したら職場の人に顔を覚えられる。顔を覚えられたら断りにくくなる。心理的包囲網だ」
「黒田さん、本当に逃げるための分析だけは細かいですね」
「働かないためなら努力できる男なんです」
「その分析力と努力を、少しだけ働く方向へ使ってください。逃げ道探しだけではもったいないですよ」
「それができたら今ここにいない」
鮫島が苦笑した。
「でも、以前より顔色はいいですよ。誰かが生活を気にしてくれているなら、そのつながりは切らない方がいいと思います」
「......後輩の話?」
「今、ご自分で言いましたよね」
「今のは誘導尋問だろ。俺から後輩の話を引き出した」
「私は何も誘導していません。黒田さんが自分から話しただけです」
「善人はこれだから怖い」
結局、求人票を二枚だけ持ち帰ることになった。
応募はしない。見るだけだ。見るだけなら働いたことにはならない。
ハローワークを出て、コンビニへ寄る。
缶コーヒーを二本買ったところで、俺は少し考えた。
「......昨日の差し入れとごみ袋代、これでいいか」
全然足りない気もするが、そこは現物返済ということで押し切る。
ひなたの勤務先へ行く気はない。さすがに現役自衛官の職場へ無職の先輩がふらっと行くほど俺も壊れてない。
だからライソを送った。
――黒田陸:仕事終わったら駅前の自販機んとこ来れるか
送信してから、俺は自分で驚いた。
「俺から送った......」
十分ほどで返事。
――望月ひなた:今日は外出許可取れます。どうしました?
「追加質問は相変わらず早えな」
夕方。
駅前の自販機横へ行くと、ひなたは私服だった。今日は制服ではない。薄いパーカーに細身のパンツ、運動靴。仕事帰りに一度着替えたらしい。
「陸さんから呼び出すなんて珍しいですね。何かありました?」
「これ、昨日の食料の現物返済。第一回分だから、残額は今後考える」
缶コーヒーを一本渡す。
ひなたは受け取り、ラベルを見る。
「これ一本で全部返したつもりじゃないですよね? 量が全然合ってませんけど」
「市価で考えるな。俺が自発的に買って持ってきたという付加価値を加味しろ。希少性が高い」
「自分で自分にプレミア価格つけないでください。全然足りません」
「利息取る気か。お前もゼニス側かよ」
「ゼニスさん、そんなに厳しい人なんですか?」
「厳しいっていうか、金の話になると人間性を捨てる」
「昨日は普通の会社員みたいでしたけど」
「普通に見えたなら、あいつの擬態性能が高いだけだ」
「擬態?」
「比喩。仕事モードってこと」
「陸さん、昨日からゼニスさんの話になると説明が変ですね」
「お前は細かいところ拾いすぎ。そういうの嫌われるぞ」
「陸さんには昔から嫌われてるみたいなので、今さらです」
「嫌ってねえよ。嫌ってたらわざわざ今日ここまで来てない」
口から出てから、しまったと思った。
ひなたも少し目を見開く。
俺は缶コーヒーを開けた。
「嫌ってたら差し入れ食わん。手紙も......まあ、捨てるの面倒で置いてあるだけだ」
「やっぱり残してるんですね」
「今のは忘れろ。手紙の保管状況については発言を撤回する」
「嫌です」
「即答すんな」
ひなたは缶を両手で持ち、少し笑った。
「私、陸さんに昔みたいに戻ってほしいって言ってるわけじゃないんです」
「......何の話だよ」
「昨日の続きです。訓練に絶対来てほしいとも、ちゃんと就職してくださいとも言いません。もちろん生活はもう少しどうにかした方がいいと思いますけど、それを私が全部やる気もありません」
「そこは助かる。毎週掃除に来られたら俺の自由権が侵害される」
「自分で掃除してください」
「自分で掃除するのは努力目標にする。達成時期は未定だけどな」
「本当に低いですね。でも、そういうところも含めて、陸さんが今どうするかは陸さんが決めればいいと思ってます。ただ......」
ひなたの声が少しだけ落ちた。
「だから一つだけ、勝手にいなくならないでください。少なくとも生きてる以外の返事もください」
俺は答えない。
「連絡が何日もなくても、留守でも、私は理由を知らないでしょう。だから、変な想像するんです。体調崩してるんじゃないかとか、事故に遭ったんじゃないかとか。陸さんは“生きてるなら問題ない”って思うかもしれませんけど、心配する側はそうじゃないんです」
「俺、別に消えてるわけじゃねえよ」
「でも、昔の人たちからは消えたみたいになってます」
胸の奥が少しだけ重くなる。
俺は自販機の明かりを見る。
「......その話は、まだ無理だ」
「分かってます。だから、今日は聞きません」
「昨日もそれ言ってたな」
「陸さんが逃げずに聞ける時まで待ちます。ただ、一つだけ覚えておいてください」
ひなたは俺を見る。
「私は、あの時のことを、陸さんと同じようには思ってませんから」
俺の指が、缶の縁で止まった。
「......何で今それ言うんだよ」
「今言っておきたかったからです。これ以上は言いません」
「待つって決めるのも、今言うのも勝手だな。お前、昔より強引になったよ」
「陸さんにだけは言われたくありません」
「そりゃそうか」
少しだけ笑った。
ひなたも笑った。
完全に何かが解決したわけじゃない。
むしろ面倒な話は全部残ってる。
それでも、昨日よりは少しだけ会話が楽だった。
別れ際、ひなたが缶コーヒーを持ち上げる。
「ごちそうさまでした。でも、差し入れ代には全然足りませんからね」
「じゃあ残りは分割払いで頼むわ」
「分割なら利息つけますよ。次はもう少しまともな返済を期待します」
「やっぱりお前もゼニス側じゃねえか!」
夜。
部屋へ戻る。
綺麗な状態は、まだ七割くらい維持されている。
俺は冷蔵庫から惣菜を出し、温める。
食べ終えて、スマホを見る。
少し考える。
――黒田陸:飯食った
送信。
すぐ返事。
――望月ひなた:何をですか?
「お前、そこは変わらねえのかよ」
――黒田陸:カレー
――望月ひなた:ちゃんと返事できるじゃないですか。
――黒田陸:調子乗んな。寝る
――望月ひなた:おやすみなさい。
俺は画面を見たまま、少しだけ鼻で笑った。
そこへ、金色の光。
「黒田さん、寝るところ申し訳ありませんが緊急案件です。少しだけ聞いてください」
「もう寝るって送った直後なんだけど」
ゼニスは赤と黒の山岳救助隊風ジャケットに、腰にはロープ、背中には救助用らしい神具を背負っていた。
「何その格好。全然似合ってねえぞ。山舐めてる山ガール気取ったバカな都会の女みたいだな」
「似合っています! それより聞いてください。ジークフリードさんたちが明朝、山間部の救援依頼へ出る予定です」
「......ジークフリードたちが? 昨日まで普通にしてただろ」
「はい。危険度は少々高めです」
俺は一瞬だけ考えた。
「知らん。本人らの仕事だろ。俺は今日、現代世界で人間関係という高難度任務をこなした。もう十分働いた。寝る」
「まだあなたに依頼すると言ってません」
「じゃあなおさら寝る」
布団をかぶる。
ただ、ジークフリードの名前だけが、少し耳に残った。
【神界・追加ご請求】
・契約者健康状態簡易監査費 金貨20枚
・現代側対人関係リスク確認費 金貨15枚
・緊急案件事前通達費 金貨25枚
─────────────────
今回加算 金貨60枚
日本円換算 300,000円相当
前回繰越残高 金貨38,150枚
合計残高 金貨38,210枚
日本円換算 191,050,000円相当
※ゲイン装備ローン・ミャオ管理債務は別口。
【登場キャラクター紹介】
今回は久しぶりに現代日本が中心。
黒田が異世界より逃げたがる相手が何人も登場しました。
【★本格登場 望月ひなた】
21歳。現役の陸上自衛官で、黒田の元部下・後輩。
これまでもメッセージや差し入れを送り続けていましたが、ついに直接黒田の部屋までやって来ました。
黒田を慕っているだけではなく、逃げ続ける彼に対して怒ってもいる人物です。
【★初登場 木代キヨ】
黒田のアパートの大家。
通称「キヨ婆」。
七十歳を越えても声量は非常に強力で、居留守中の黒田を平然と売ります。
家賃を取り立てながら惣菜を差し入れる、黒田にとって逃げにくいタイプの善人です。
【★初登場 鮫島】
黒田の再就職を支援しているハローワーク職員。
元自衛官としての黒田の経歴をかなり高く評価しており、本人の社会復帰意欲を大幅に上回る熱量で求人を紹介してくれます。
【◆主要登場 黒田 陸】
竜や魔物からは逃げ切れることがあっても、後輩と大家と職業相談からはなかなか逃げ切れない男です。




