第13話 後輩「明日、行きますからね」 俺「来るな」
日本へ逃げ帰った翌朝。
俺は四畳半の万年床で、片肘をついて頭を支えたまま、いつもの涅槃図スタイルになっていた。
枕元には空の缶チューハイ。灰皿には吸い殻。足元には昨日ひなたが置いていった保存食の袋。そして、その全部を社会的に抹殺できそうな威圧感で、金色の紙が一枚だけ畳の上に置かれている。
合計残高、金貨37,950枚。
日本円換算、1億8,975万円相当。
「......見なかったことにしよう」
請求書を裏返すが、現実は裏返らない。
俺はスポーツドリンクを一口飲んだ。ひなたの差し入れだ。昨日はパックご飯も食った。俺の身体だけ見れば、七千三百万円ぶん借金を増やした翌日とは思えないほど栄養状態は改善している。
「他人の善意で健康になって、神の善意で破産する。世の中ってのはなんだかんだバランス取れてんな」
スマホが震えた。
――望月ひなた:なんですか、昨日のあれ。差し入れ確認、じゃありません。
――望月ひなた:ちゃんと食べましたか?
――望月ひなた:次の訓練日も確認してください。
――望月ひなた:あと、また留守でしたよね。どこ行ってたんですか?
「うわ......質問が多い。朝っぱらから食事内容、訓練予定、昨日の行動まで確認されたら、もう警務隊の取り調べと変わらんだろ」
俺はしばらく画面を見てから、返信欄へ親指を滑らせた。
――黒田陸:食った
返信を送って三秒後。
――望月ひなた:何をですか?
「ほら来た。追加質問は禁止って利用規約に書いただろ」
書いてない。
俺が今決めた。
――黒田陸:いろいろ
また三秒。
――望月ひなた:具体的にお願いします。
「お前は俺の栄養管理官か。食ったって言ってんだから、そこは“よかったです”で終われよ。会話を広げるな。俺は朝から人間関係を長期戦にするつもりはないんだぞ」
スマホを伏せる。
既読はついた。返事はしない。これで俺の任務は終了だ。
そう思った瞬間、玄関がドンドンと鳴った。
「陸ぅ! 生きてるかい!」
「死んでる! 少なくとも社会的には昨日の請求書で一回死んだ!」
「死んでる奴は家賃を二週間も先延ばししないよ!」
「死後の事務処理が遅れてんだよ!」
「屁理屈こねてないでとっとと開けな!」
声の主は大家の木代キヨ。俺はキヨ婆と呼んでいる。七十を越えてるくせに声量だけは現役の陸曹よりある。というか、俺が現役の時にこの声で起こされたら寝坊は一度もなかったと思う。
仕方なく玄関を開けると、小柄な婆さんが惣菜袋を片手に立っていた。このババア、目だけはやたら鋭い。
「顔色悪いね。酒かい?」
「酒じゃない。借金だ。二日酔いより数字の方が頭に響いてる」
「だったら働きな。寝てても家賃も借金も勝手には減らないよ。世間の皆様はこの時間みんな労働してるんだ」
「原因に原因を足すな。働いた結果、借金が増えたばっかなんだよ。今の俺に労働を勧めるのは、火事場に灯油持ってくるのと同じだからな」
「アンタが何を言ってるか分からないけど、家賃は払えるんだろうね?」
「払えるか払えないかで言えば、未来の俺なら払える。で、今の俺は未来の俺を信頼してる」
「私は今のあんたを一ミリも信用してないよ」
「大家と借家人の信頼関係が崩壊してる。これは減額交渉の余地があるんじゃないか?」
「1ミリもないね。それより、この前から何度も来てる若い子、あんたの知り合いだろ」
俺の手が止まった。
「新手の宗教だよ。最近やたら生活支援に力を入れてる厄介な宗教、知ってるだろ?」
「あんな制服姿で来る宗教があるかい」
「最近の勧誘は組織化が進んでるんだ」
「迷彩柄の鞄からレトルト食品出して、ドアノブに掛けて帰る宗教もあるのかい」
「福祉に力を入れてる新興宗教なんだろ」
「名前、ひなたちゃんって言うんだろ?」
「てめぇ、個人情報まで把握してんのかよ! 大家の情報収集能力を別方向に使え!」
キヨ婆は俺の抗議など完全に無視し、惣菜袋を胸へ押しつけてきた。
「今度来たら居留守してても、いるって教えるからね。あの子、毎回心配そうに帰るんだよ。あんたみたいなのを心配してくれる人間は大事にしな」
「待て。それだけはやめろ。家賃一週間早く払うからさ!」
「先月分を先に払ってからそういう事を言いな」
「交渉の入り口で過去債務を出すなよ!」
「はいはい。まぁいい、余分に作ったからお昼にでも食べな。あと袋の底に紙入れといたから」
キヨ婆は言いたいことだけ言って帰った。
袋を見る。
煮物のパック。おにぎり二個。
その下に紙。
『家賃払え キヨ』
「差し入れと債権回収を同じ袋でやるなよ。優しさの味が薄れるだろ」
部屋へ戻ったところでスマホが鳴った。
今度は知らない番号......ではない。何度か着信を無視している番号だ。
「......鮫島か」
出ない。
切れる。
すぐまた鳴る。
「しつこい善人って一番逃げにくいんだよなぁ」
観念して通話する。
『黒田さん、おはようございます。ハローワークの鮫島です。今、お時間よろしいですか?』
「よくないって言ったら切ってくれます?」
『内容だけでも聞いていただければ。以前お話しした警備関係の求人なんですが、元自衛官の経歴をかなり評価していただけそうでして。それとは別に、物流倉庫の安全管理補助で週三日から入れる案件も出ています』
「鮫島さん。あんたが善意なのは分かる。分かるからこそ言うんですけど、俺の社会復帰に対する熱量を三割くらい落としてくれません? こっちは今、仕事という単語を見るだけで財布が震える体質になってるんですよ」
『財布が震える体質というのは初めて聞きましたが、週三日なら負担も抑えられますし、いきなり正社員ではありません。現場管理や安全面の経験も活かせます。黒田さんの場合、経歴だけを見るとかなり強いんですよ。ぜひ先方にも強く推したい人材でして――』
「経歴だけ見るな。現在の俺を見ろ。ジャージ、酒、煙草、万年床。完成度の高い無職だぞ。書類上の俺と現物の俺には製品誤差があるんだ」
『その現物を少しずつ立て直すための支援です。別に明日から人生を全部変えろとは言いません。面談だけでもいかがですか』
「面談って、行ったら求人票見せるでしょ。求人票見たら応募を勧めるでしょ。応募したら面接でしょ。面接したら採用される可能性がある。つまり面談は就労への第一歩だ。危険すぎる」
『一歩目をそこまで地雷みたいに言う人、初めてですよ』
「経験者の意見です。働くと仕事が増えるんですよ。自衛隊で学びました」
『それは多分、仕事というものが大体そうです』
「世知辛えなぁ......」
鮫島は通話口で笑った。営業笑いじゃなく、本当に困ったような笑いだった。
『では、無理に応募までは勧めません。ただ、一度顔を出してください。黒田さん、電話だと何だかんだ言って全部逃げる方向へ話を持っていくでしょう』
「よく分かってるじゃないですか。じゃあ電話で完結しましょう」
『逆です。来てください』
「あなたってば、逃げ道を丁寧に塞ぐなあ......」
結局、二日後の午後に面談だけ入れられた。
善意100%の就職刺客。ゼニスより攻撃力は低いが、こっちは罵倒できないという致命的な欠点がある。
通話を切る。
スマホには、ひなたからさらに一件。
――望月ひなた:明日の夕方、伺います。
――望月ひなた:今度はちゃんと顔を見せてください。
「......はあ?」
俺は起き上がった。
もう一回読む。
「明日? 何で? いや、差し入れ確認って返しただろ。あれは生存確認終了の意味だろ。対面フェーズまで移行する契約じゃねえぞ」
部屋を見回す。
缶。
灰。
馬券。
雑誌。
靴下。
謎の皿。
生きてるか死んでるか分からないゴキブリ一匹。
「さすがに、まずい」
異世界で岩殻巨獣を見た時より、明確にまずい。
その時、部屋の隅に金色の光が滲んだ。
「黒田さん。今後の債務返済計画について――」
「ゼニス!いいところに来たな!!」
「はい?」
光の中から現れたゼニスは、紺のパンツスーツに白いブラウス、首から社員証みたいな神界証票を下げ、手にはキャリア面談用らしいファイルを持っていた。
「仕事くれ。今すぐ異世界へ行けるやつなら、危険度は多少高くてもいい」
ゼニスの琥珀色の目が大きく開いた。
「......今、何と言われました?」
「仕事。任務。依頼。何でもいい。ドラゴンでも魔王でも金融神でも、今すぐ異世界へ飛ばせ。報酬は後で揉めるから、とりあえず明日の夕方まで帰ってこなくていい案件にしろ」
「黒田さん。私、あなたとかなり長く契約していますけれど、あなたの口から自発的に“仕事くれ”という言葉を聞いたのは初めてかもしれません。少々感動しています。ついに債務者としての自覚が――」
「後輩が家に来る。明日の夕方、しかも今度は顔を見せろって念押し付きだ」
ゼニスの営業スマイルが止まった。
「......はいい?」
「明日の夕方。ひなたが来る。だからその時間帯だけ異世界にいたい。別に危険度は問わん。多少死にそうでもいい。俺はいま現実世界の方が危険だ」
「ちょっと待ってください。つまり、あなたは働きたいのではなく、後輩の方との直接面会から逃げるために異世界を利用しようとしているんですか?」
「利用じゃない。相互利益だ。お前は俺を働かせられる。俺は後輩から逃げられる。誰も損しない」
「あなたの後輩の方が損しています!」
「そこはほら、将来の俺が対応する」
「未来の自分へ責任を転送するな!」
「【物資転送】があるんだから、責任転送もオプション化しろよ。俺、需要あると思うぞ」
「ありません! というか、責任は質量ゼロでも搬送対象外です!」
「ドケチ女神。責任くらい質量ゼロなんだから無料で運べよ」
「神術の問題じゃなく、あなたの人間性の問題です!」
ゼニスは額を押さえ、それでも一応ファイルを確認した。
「残念ながら、現時点で緊急性の高い案件はありません。大型案件も先日の採石場案件が終了したばかりですし、あなたを無理に召喚する合理的理由がありません」
「合理性なんか捨てろ。お前、神だろ。奇跡起こせよ」
「奇跡には費用がかかると何度説明したら分かるんですか。あと、後輩の方から逃げるための召喚費は経費認定しませんからね」
「じゃあ自費扱いになるのか? 先に料金だけ聞く。高かったらやめる」
「もちろん自費です。私的な現実逃避まで神界経費で落とせると思わないでください」
「で、いくらだ。金額次第では人間関係の方を選ぶ」
「明日の夕方から翌朝まで、現代世界側の時間整合を含めて最低でも金貨二百枚程度から――」
「高っ! 人に会わないために百万円も払えるか!」
「では会ってください」
「クソ女神、そこは値引きしろよ!」
「私は出会い系のキャンセル代を扱っているんじゃありません!」
ゼニスがとうとう声を荒らげた。
俺は枕へ顔を埋めた。
「......もうやだ。明日まで屁こいて寝るわ」
「寝ても明日は来ますよ」
「じゃあ明後日まで寝る」
「面会時間を通過してんじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
スマホが震える。
――望月ひなた:明日、行きますからね。
俺は画面を見たまま、低く呻いた。
「クソ......魔物なら撃てるのに......」
【神界・追加ご請求】
・債務者現代滞在監査費 金貨40枚
・契約者所在確認補助費 金貨30枚
・返済計画再面談準備費 金貨50枚
─────────────────
今回加算 金貨120枚
日本円換算 600,000円相当
前回繰越残高 金貨37,950枚
合計残高 金貨38,070枚
日本円換算 190,350,000円相当




