第122話 忘れたらまた名乗れ。聞くくらいはしてやる
翌朝、少しの休息をとった俺たちは前日に印をつけた旧戦場南東の谷へ入った。
シルフィアが見つけた「何もない帯」と、レグリアが拾った存在安定度の反応。その二つが最後に重なった場所が、この谷だった。地図には俺の油性ペンで丸が付いている。そこへ書いたのは名前ではない。
【第六元帥【零】を探す】
まだ、名前を知らなかったからだ。
谷の奥は風の音まで遠く、崩れた石柱が斜めに土へ突き刺さっていた。その間だけ薄い霧が溜まり、日差しは届いているはずなのに色が抜けたように見える。足元の小石を踏む音さえ妙に吸われ、俺たちの足音だけが谷へ入るほど頼りなくなっていった。
その石柱の間に、小柄な少女が座っていた。黒に近い灰色の髪は肩へ力なく落ち、細い身体を包む服も古い。逃げるでも隠れるでもなく、最初からそこにいたみたいにこちらを見ている。
アルヴィナが息を呑んだ。
「……いる」
俺は腕を見る。まだそこに書いてあるのは【第六元帥【零】を探す】だけだ。
「お前が、第六元帥【零】か?」
「……はい」
「名前は?」
「イリス・ゼロス。第六元帥【零】、イリス・ゼロスです」
「イリス・ゼロス――」
口に出して復唱した。ところがティアナの方へ一度だけ顔を向け、もう一度少女を見る。
「ん、あれ……悪い。今、名前なんだっけ」
少女は驚かなかった。むしろ、ずっと同じことを繰り返されてきた人間みたいに、少しだけ寂しそうに笑った。
「イリスです」
「……マジか」
そこでようやく異常の質が分かった。敵に逃げられたわけでも、姿を消されたわけでもない。目の前にいるのに、数秒視線を外しただけで「誰を探していたんだっけ」と意識から滑り落ちる。
俺はすぐ油性ペンを取り出し、左腕へ大きく書いた。
【イリスを探している】
「黒田、手帳にも書いてある!」
ティアナに言われ、一ページ目にも同じ名前を書き殴る。
「これで忘れても戻せるな」
「……そこまでしますか?」
「もう一回忘れたからな。俺の記憶力より油性ペンの方が信用できるんだぜ」
イリスがほんの少しだけ笑った。
手帳の一ページ目にも、同じ内容を太字で書いてある。
【イリスを探している。見つけても忘れる。文字を見ろ。】
その下には、ティアナが勝手に一文追加していた。
【忘れたら腕を見る。腕を忘れたら私に聞く。】
「最後の一文いらなくない?」
「必要よ。あんた、そのうち手帳持ってることから忘れそうだもの」
「そこまで信用ないの?」
「今さっき本人見て“誰だっけ”って言ったでしょ」
「ぐうの音も出ねえわ」
俺は油性ペンを握ったまま考えた。
「腕だけじゃ足りねえな。右手にも書くか」
「何で右手?」
「オナ〇ーしてても目に入るだろ」
「こらぁぁぁ!最低の記憶固定方法やめなさいよ!!」
「忘れるよりマシだろ!」
「イリス本人の前で言う話じゃない!!」
ばちこーんとティアナに杖で殴られた。
それを見て、イリスが小さく首を傾げた。
「……お、な??」
「子どもは知らなくていい」
「ティアナさん、教えてください!」
「ぜぇぇぇぇ絶対教えないから!」
ティアナが顔を真っ赤にして怒鳴る横で、俺は右手には普通に【イリス】とだけ書いた。さすがにこれ以上やると、別の意味で忘れられない黒歴史になる。
そこで背後から靴音が二つ近づいてきた。
振り返った俺は、一秒黙った。もう一秒黙ってから、二人を上から下まで見た。
「なあ……お前ら、夜のお店の人ですかぁ?」
「違います!!」
「違いますぅ♡」
ゼニスとレグリアが同時に叫んだ。
前回、俺が少しだけ衣装へ反応したせいで、こいつら、完全に調子へ乗りやがったらしい。ゼニスは白金を基調にした神殿巫女風の軽装(ほぼ裸)へ、踊り子みたいな布の重なりを混ぜた格好だった。古戦場調査用と言い張るには胸元も腰まわりも妙に華やかで、実用装備より「今日は見せに来た」という意図の方が先に目へ入る。胸も体も布が薄い。
一方のレグリアは、黒と白の軽装騎士に監査官を混ぜたような格好だった。短いケープ、細身の上衣、やたら短いスカート風の腰布、膝上まで伸びたブーツ。本人は自信満々に胸を張っているが、小柄な体格に対して衣装の方だけがやたら大人びていて、正直なところ絶望的に似合っていない。
「ゼニスはまだ分かる、百歩譲ればな」
「でしょう? ひゃ、ひゃっぽ!?」
「だって、夜のお店にいそうだし」
「何でですかぁぁぁぁ!!」
ゼニスの顔が一瞬で崩れた。
「レグリアは……」
「私は?」
「チビが無理してデートに姉ちゃんの服借りてきたみたい」
「ちょっとぉぉぉぉぉぉ!!」
「体格と衣装が絶望的に合ってねえ」
「に、二回言ったぁぁぁぁ!!」
「脚出せば大人っぽく見えると思ったの?」
「思ってません!」
「思った顔してるじゃん」
「してませんってぇぇぇぇ!!」
レグリアがケープの裾を握って震える。
「黒田さん、前回はちゃんと反応したじゃないですか!」
ゼニスも参戦してきた。
「昨日は昨日だろ、昨日の俺は別人だ」
「今日はもっと頑張ったんですよ!?」
「何を頑張ってんだよ。あほか、救助に来たんだぞ」
「あんたねぇ、少しは女として見なさいよぉぉぉぉ!!」
「てめえら女神だろうがぁ!!見てるから言ってんだよ。そんな格好で谷歩いたら虫刺されるぞ」
「心配の方向が色気ゼロぉぉぉぉ!!」
レグリアも負けじと一歩前へ出る。なぜか自信満々に腰に手を当てクイっとこちらに向けている
「私なんて前回より脚出してるんですけどぉ♡」
「知るか。転んだら膝擦りむくぞ」
「保護者目線やめてくださぁぁぁぁい!!」
「あと、そのスカート。風強かったらパンツ見えそうだわ」
「見えません! 神界補正がありますぅ♡」
「神力をパンツ隠すのに使うな」
「用途の言い方ぁぁぁぁ!!」
ティアナが腕を組み、二女神を上から下まで眺めた。
「……あんたたち、黒田相手に色仕掛けするの向いてないんじゃない?」
「言わないでください!」
「言わないでくださぁぁぁい!」
二人が揃って項垂れる。
「ていうか、胸とか脚とか強調してるのバレバレよ。本人に効いてないのが一番悲しいけど」
「効いてないわけじゃねえぞ」
「え?」
二女神が同時に顔を上げた。
「俺も男だからな。見るもんは見る。ただ、今それどころじゃねえだけ」
一瞬だけ静かになった。
ゼニスとレグリアが顔を見合わせる。
「ね、聞きました?」
「聞きましたぁ♡」
「完全敗北ではないですね」
「部分点ありますぅ♡」
「採点競技にすんな!」
俺が怒鳴ると、二人はさっきまでの落ち込みが嘘みたいに少しだけ機嫌を直した。
「黒田さん、今の発言は記録しておきますね」
「何で」
「精神安定用です」
「私も監査記録へ保存しますぅ♡」
「そっちは消せ」
そのやり取りを聞いていたリリアが、俺の袖をつまんだ。
「ねえ陸」
「何」
「ゼニスとレグリアには“見るもんは見る”って言うのに、私には全然そういう反応ないよね」
「お前、金ないし大体死んでるじゃん」
「正論がひどすぎる!!」
リリアの目が吊り上がった。
「死んでたって愛は永遠でしょうがあああああ!!」
「永遠って、お前もう成仏する気ゼロじゃん」
「陸に雑に扱われながら永遠に憑いてくから!」
「それ愛じゃなくてもはや死霊の呪いだろ」
「ちょっと強めに罵られるくらいなら、むしろちょっと嬉しいし!」
「ドM死霊術師やめろ!」
「ドMじゃない! 愛に耐久力があるだけ!」
「言い換えてもドMだろーがあああっ!」
ティアナが真顔で割って入る。
「リリアはさ、嫁候補というより特級呪物じゃない?」
「愛が重いだけなの!」
「重すぎて祓われる側なのよね」
「だめ、祓わないでぇぇぇぇ!!」
イリスが小さく笑った。
その笑顔を見て、俺は腕の文字をもう一度確認する。
――イリス。
忘れたら、読む。読むものまで忘れたら、誰かに聞く。格好悪くても、それしかない。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
アルヴィナが一歩前へ出た。
「……あなた」
「魔王様」
「名前……」
アルヴィナが頭を押さえる。知っているはずなのに、その名前だけが喉の奥で引っかかって出てこない。
「知ってる。知ってるのに……出てこない」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないもん!」
アルヴィナの声が谷へ響いた。
「私、イリスの事忘れたくない!」
その瞬間、谷の奥で黒い影が立ち上がった。一体ではない。二体、三体。石柱の陰から、査定不能の守護個体が次々と姿を現した。
ゼニスが端末を開く。
「黒田さん、存在隔離領域が反応しています! イリスさんを外へ出そうとしたことで、防護処理が起動した可能性があります!」
「神界の保全処置って本人閉じ込める警備まで付いてんの?くそうぜぇ」
「私に怒らないでください!」
レグリアの顔から♡が消える。
「これは……現在の規定なら通りません」
「後で始末書書け! 今は通路を作る!」
そこまで言って、俺は一度止まった。
守護個体はまだこちらへ殺到していない。ティアナが風を構え、フェンナが前へ出る。リリアはイリスの魂の輪郭を見ようと集中し、ミルネも後方へ下がった。
俺は89式へ手を伸ばしかけ――やめた。
「黒田?」
ティアナが振り返る。
「俺、しばらく寝るわ」
「は?このタイミングで?」
俺は近くの平たい岩へごろんと横になり、両手を腹の上で組んだ。片足だけ伸ばした姿は、戦場の真ん中というより昼寝中の無職そのものだった。
「何してんの!?」
「涅槃図スタイル」
「こんな時にぃ!?」
「俺が直接撃つと即応が戦闘判定拾って、即日レベルアップが回るだろ。お前らで足りるうちは俺は戦わんぞ、がんばれー」
「開き直りやがった!」
「節約だよ節約。俺は今、涅槃に入った」
「ただ寝てるだけでしょ!」
俺は横になったまま片手を上げた。
「ティアナ、右の二体を壁際へ。フェンナは左から回してイリス側へ寄せるな。シルフィアは上がりすぎんな。リリアはイリスから目ぇ離すな」
「指示だけは真面目なの腹立つ!」
「砲兵は後ろで仕事するもんだ」
「今は砲兵じゃないでしょ!」
守護個体が一体、ティアナへ向かって走った。
ブワッ――!
風が弾け、黒い身体が横へ流れる。
「右、押した!」
「そのまま壁沿い! 倒さなくていい、通路だけ空けろ!」
俺は寝たまま鼻くそをほじりながら指示を出す。
レグリアが呆れた顔で見下ろした。
「黒田さん、本当に戦わないんですかぁ?」
「戦わなくて済むならな」
「すごい絵面ですよ。皆さん戦ってるのに一人だけ死体みたいですぅ♡」
「だから涅槃図って言ってんだろ」
「それお釈迦様に失礼ですぅ♡」
そこで腹の奥が少し動いた。
ぷぅ。
「……」
「……」
「……」
ティアナが戦いながら振り返った。
「今、屁こいたよね?アンタぁ!」
「出たもんは仕方ない」
「寝ながら屁こいてんじゃねえええっ!!」
「生きてる証拠だろ」
「最低の生存確認すぎるわ!!」
ゼニスが頭を抱える。
「せっかく私たちの衣装まで含めて絵になる場面だったのに!」
「お前まだ衣装気にしてんの?」
「気にしますよぉぉぉ!!」
レグリアまで叫ぶ。
「私、今日かなり攻めてきたんですよぉ!?」
「屁の前では全員平等だ」
「そんな平等いらないですぅぅぅ!!」
イリスがぽかんとしている。
「……魔王様。この人たち、いつもこうなんですか?」
「だいたいこうだよ」
「おいっ、否定してくれよ!」
その時、守護個体が一体だけ風を抜けた。ティアナの横をすり抜け、まっすぐイリスへ向かう。
「黒田!」
俺は寝たまま一秒だけ考えた。
「……ちっ」
しぶしぶ起き上がる。
「涅槃終了!」
「早い!」
「金より人が先だ、クソったれが!」
89式を短時間転送。視界の端へ表示が走る。
【特性即応:戦闘判定成立】
【即日レベルアップ:小規模起動】
「ほら出たぁぁぁぁ!!」
「システムへ怒らないでください!」
最初の一体が岩陰から飛び出した。
タタッ――タァンッ!
銃声が谷を抜け、少し遅れて石壁の端が砕けた。
パキッ、ザザッ!
だが一体だけ止まらない。黒い影が弾けるように距離を詰め、そのまま俺の胸元へ飛び込んできた。
「っ、近い!」
89式を引き寄せる。グリップを握った右腕を鋭く返し、銃口を味方のいない方向へ逃がしながら、銃床を横へ短く振る。
ゴッ!
硬い衝撃が肩から肘へ返ってくる。獣とも鎧とも違う、芯のない妙な手応えだった。守護個体の顔が横へ弾け、その隙に俺は一歩だけ間を空ける。
「黒田、今のもう一回できる?」
「注文すんな! 近づけさせない方が先だ!」
ティアナが風を差し込み、残った影を岩壁側へ押し返す。
「イリスの前へ大きい魔法通すな! 存在そのものが不安定なら何起きるか分からん!」
「分かってる。風魔法だけで押す! リリアは?」
「イリスの状態見てるよ! 死者じゃないけど魂の輪郭が薄すぎる!」
「ミルネは後ろだ。今ここで診察始めんなよ!」
「分かってますぅ! でも患者が薄いって何なんですかぁ!」
フェンナが横から叫ぶ。
「右の奥、二体いるワン! でもボスじゃなくイリスのほう見てる!」
「じゃあ俺らが邪魔なんじゃなく、あいつを戻したいんだな。倒し切らなくていい、通路だけ作るぞ!」
ティアナの風が一体を壁へ押しつける。
ズザァッ!
土と小石が流れ、別の一体がアルヴィナの進路へ割り込んだ。
「邪魔だ!」
撃てる角度じゃない。右手はグリップを握ったまま、身体ごと半歩踏み込み、右腕を切り返して銃床を肩口へ叩きつける。正面から力比べをするつもりはない。アルヴィナが通れる幅を、一瞬だけ作ればいい。
ガッ――ドッ!
鈍い衝撃と同時に黒い身体が横へ崩れ、地面の砂を長く削った。空いた隙間へフェンナが迷わず肩をねじ込み、そのまま体当たりで押し込む。
「道あいたワン!」
「そのまま外へ押せ! 追うな!」
「今! アルヴィナ、イリス連れて出ろ!」
「分かった!」
アルヴィナがイリスの手を掴む。
数歩。
少女の輪郭が一瞬だけ薄くなった。
「待って、消える!」
リリアが叫ぶ。
「名前呼んで! 誰でもいい! 今ここにいるって分かるようにして!」
「全員、忘れそうになったら会話にならなくても名前だけ言え! 音で残す!」
アルヴィナが息を吸ったが、名前が出ない。
俺は腕を見る。
「イリス!」
少女がこちらを見る。
「イリス、歩け! お前を探しに来たんだ!」
「イリス!」
ティアナも続ける。
「イリス、こっち!」
フェンナが吠える。
「イリス、臭いあるワン! ちゃんといるワン!」
ミルネも負けじと叫んだ。
「イリスさん、患者ですぅ!」
「患者で覚えるな!」
「だって一番忘れません!」
「職業病強ぇな!」
リリアも声を張る。
「イリス! 死んでないんだから頑張って!」
「リリアさんは死んでますよね……?」
「今それ言えるなら元気だねっ!」
黒い守護個体が最後に一体飛び込む。
俺は伏せて射線を外へ向けた。
タァンッ!
乾いた一発。守護個体が身を捻る。
その隙にアルヴィナがイリスを境界の外へ引き出した。
パァンッ――。
薄い膜が弾けたような高い音が谷へ走り、さっきまで殺到していた黒い影が一斉に止まる。境界の向こう側で輪郭だけを揺らし、それ以上こちらへ来ない。
俺はすぐには銃口を下げず、数秒そのまま待った。敵が止まったのか、俺たちが別の条件を踏んだだけなのか判断できない。
「終わり?」
ティアナが息を整える。
「多分な。追うなよ。あれ倒しに来たんじゃない」
即応表示が消えた。
俺はようやく銃口を下げ、その場へ座り込む。ティアナも近くの石へ腰を落とし、フェンナは舌を出したまま伏せ、ミルネは耳を押さえてしゃがみ込んだ。アルヴィナだけがイリスの腕へしがみついたまま離れない。
ゼニスとレグリアも、あれだけ気合を入れてきた衣装を白い砂で汚し、並んで岩へもたれている。
「……何これ」
イリスが周囲を見回した。
「涅槃図」
「またそれ言うの?」
「全員転がってるからな」
「縁起悪そうな説明やめなさいよ」
ティアナが呆れる。
俺は岩へ背中を預けたまま、もう一度だけ息を吐いた。
ぷぅ。
「ちょ、またなの!?」
「残りカスだ」
「屁に残弾管理みたいな概念持ち込むなぁぁぁぁ!!」
ゼニスがとうとう頭を抱えた。
「もういやぁぁぁぁ!! 何で私がこんなに頑張って衣装選んだ日に限って屁こくんですかぁぁぁぁ!!」
「知らんがな」俺は鼻くそをポイっと投げる。
「あんたね、少しは女として見なさいよぉぉぉぉ!!」
「さっき見たって言っただろ」
「そのあと全部屁で上書きされましたぁぁぁぁ!!」
レグリアも白い砂まみれの脚を見て崩れる。
「私なんてチビ扱いされた上に、衣装似合ってないって言われて、最後が屁なんですけどぉ!?」
「今日はイベント盛りだくさんでよかったな」
「他人事みたいに言うなぁぁぁぁ!!」
リリアが横からさらっと言った。
「私は陸の屁くらいなら平気だけど」
「張り合う場所そこじゃねえ」
「愛は臭いにも勝つよ!」
「さっき永遠とか言ってた愛、急に試練の方向が汚くなったな」
「むしろ雑に扱われるほど燃える、なんかなんなら陸の屁を嗅ぎたいかも......」
「お前、やっぱドMじゃねえか!」
イリスが声を殺して笑った。その笑い声を聞いて、アルヴィナも少しだけ泣き笑いになった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
移動式やどり木へ戻る頃には、全員の服や靴へ谷の白い砂が薄く付いていた。いつもの食事時なら鍋の匂いと誰かの喧嘩声が先に来る場所なのに、その日は皆がイリスの方を何度も確認している。
見失ったわけではない。ただ、「まだいる」と確認したくなる。
救護区画へ入ると、ミルネがすぐイリスの診察を始めた。
「脈、あります」
「はい」
「体温、あります」
「はい」
「呼吸も普通です」
「はい」
ミルネが頭を抱えた。
「じゃあ存在が薄いって何ですかぁぁぁぁ!!医学の常識を覆してますよこの人!リリアさんとは別次元で厄介なんですけど!?」
「医療の守備範囲じゃねえよ」
「患者なんだから私の守備範囲に入ってきます!」
「強いなあその理屈」
「脈がある! 呼吸もある! 体温もある! なのにみんな時々患者を忘れる! 診察票のどこへ書けばいいんですかこんなの!」
「備考欄?」
「足りません!!」
「じゃあ裏でもいいよ」
「カルテを自由帳にしないでください!」
イリスが小さく笑った。
「みんな、賑やかなんですね」
「だいたい毎日こんな感じ」
「黒田さんが中心で?」
「そこは否定したい!」
「無理です!」
ミルネとゼニスの声が重なった。
「お前らそこだけ仲良くなるな」
イリスがまた笑う。その笑顔まで一瞬目を離すと薄れそうで、俺は手帳を膝へ置いたまま椅子へ座った。ページの一番上には、まだ大きな字で【イリスを探している】と残っている。
「で――」
「はい」
「俺、さっき一回お前のこと忘れた」
イリスの笑顔が少しだけ消えた。
「……はい」
「だから忘れたらまた何度でも自己紹介しろ。面倒だけど聞くくらいしてやる」
イリスが目を瞬いた。
「……何度でも?」
「自己紹介に、回数制限あんの?」
しばらくして、イリスが首を横へ振った。
「ありません」
「じゃあ何度でも言え!」
アルヴィナが横で泣いていた。
「……イリス」
今度は、ちゃんと名前が出た。
「はい、私は――第六元帥【零】、イリス・ゼロスです」
「イリス!」
アルヴィナが抱きつく。
「遅いです、魔王様」
「ごめん! 忘れててごめん!」
「魔王様のせいじゃありません」
「でも、ごめんねぇ!」
俺は目を逸らした。こういう湿っぽいのは苦手だ。
アルヴィナが急にポケットを探る。
「これ!あげる!!」
出てきたのは金平糖の袋だった。
「星みたいで綺麗なの。黒田が教えてくれたんだ。イリスにも半分あげるね!」
セラフィナが驚く。
「魔王様が……お菓子を半分も!?」
「今日は特別だから!!」
イリスが一粒受け取る。
「ありがとうございます」
俺はぼそっと言った。
「魔王が菓子半分あげるだけで国家勲章授与式みたいになってんな」
アルヴィナが睨む。
「ふん、黒田には一個もあげないよ!」
「いらねえよ」
「本当に?」
「……一個なら」
「やっぱ欲しいんじゃん!素直な子には一個だけあげるね!」
少しだけ空気が戻った。
【神界・追加ご請求】
・イリス存在固定緊急補助費 金貨10,000枚
・89式小銃短時間転送及び認識阻害費 金貨5,000枚
・救出戦闘即応小規模起動費 金貨5,000枚
・旧保全処置一次解除試行費 金貨12,000枚
・識別名呼称記憶固定補正費 金貨4,000枚
・存在反応医療走査補助費 金貨5,000枚
・小火器原状復帰処理費 金貨4,000枚
─────────────────
今回加算 金貨45,000枚
今回加算・日本円換算 225,000,000円相当
前回繰越残高 金貨701,000枚
前回繰越残高・日本円換算 3,505,000,000円相当
暫定合計残高 金貨746,000枚
暫定合計・日本円換算 3,730,000,000円相当
「二億二千五百万……救出成功したのに、成功報酬を俺が払うの? 色々とおかしいよな?」
「救出報酬ではなく、存在固定と保全処置解除の神界処理費です」
「腕に書いた油性ペンの方が役に立ってなかった?」
「油性ペン代は?」
ティアナが聞く。
「二百円くらい」
「今日、一番費用対効果良かったの油性ペンじゃねえか!」
「世界整合管理局としては評価対象外ですぅ♡」
「そこ評価しろよ! 二百円で存在救ったぞ!」
レグリアは少しだけ笑ったが、すぐ請求画面とは別の記録へ目を戻した。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
夜。レグリアが一人で神界記録を見ていた。ゼニスも隣にいる。俺が覗くと、一行だけ残っていた。
【世界整合管理局・保全処置】
【対象:第六元帥【零】イリス・ゼロス】
【救出確認】
【保全処置:解除未完了】
「助けたのに、まだ未完了?」
レグリアは答えない。
「おい」
「……はい」
いつもの♡はなかった。
「存在隔離の根が、まだどこかに残っています」
ゼニスが画面を見た。
「それに、もう一つ変です」
「何が」
「この処理。イリスさん一人だけを対象にしたものではありません」
俺は煙草を咥えたが、火はつけなかった。
「まだいるの?」
レグリアが古い記録を閉じる。
「……次の接続を調べないと分かりません」
神界の画面に、別の文字列が浮かぶ。
【契約系統:異常】
こういう時、嫌な予感だけは、よく当たる。




