第104話 犬じゃない奴に地面の匂い嗅がせるな
翌朝、犬人族のフェンナは森の中で地面を嗅いでいた。雨上がりの土は重く、踏むたび靴底へ泥が張りつく。倒木、濡れた苔、獣の足跡。昨日の未精算群が通った跡はあちこちに残っているのに、フェンナが追っているのは足跡ではなかった。
「こっちだワン」
蜂蜜色の髪を後ろで束ね、大きな犬耳だけを風へ向ける。いつもの馬鹿みたいに元気な笑顔は消えていた。鼻先が数センチ動くたび、視線も少しずつ変わる。
「ボス、昨日の抜けてた臭い、細く続いてるワン。未精算獣の群れもここ避けてる」
「そのボスって役職、労働時間どれくらい?」
「ボスはいっぱい働くワン! 群れの先頭で、みんな守って、ご飯探して、寝る場所決めて、敵が来たら最初に起きるワン!あと子作りも!」
「なんだそれ、仕事多すぎ。降格してくれ」
「じゃあ副ボスでどうですかワン!」
「責任残ってる。もっと下で頼む」
「群れの昼寝係?」
「いいね。採用」
「それ係いるの?」
「俺が今日から作った」
フェンナの耳がぴたりと止まった。
「……ボス」
「何」
「今おならしたワン?」
「してない」
「したワン。三歩後ろ。風上。昨日の豆と干し肉の臭い混じってるワン」
「お前の鼻は敵の追跡に使え! 俺の腸内履歴を解析すんなって!」
「隠しても鼻には分かるワン」
「犬人族の能力を身内の屁検知で浪費するなぁぁぁぁ!」
後ろでレグリアが端末へ何か入力し始めた。
「おい。何書いてる」
「環境臭ノイズ♡」
「神界公文書に残すな!」
「監査対象の行動記録ですぅ♡」
「屁まで監査される契約なんか聞いてねえぞ、このクソメスガキ女神ぇぇぇぇ!!」
ゼニスが額を押さえる。
「朝の森で何を大声で争ってるんですか……」
その瞬間、フェンナの尻尾が止まった。表情が変わる。
「ボス。血」
「どっちだ」
「右。人の血。二人……三人かも。まだ新しい」
笑っていたフェンナの口元が閉じ、耳が血の臭いのする右手へ揃った。
「案内しろ」
「うん!」
フェンナが走り出す。俺とアレクシスたちが続く。森の斜面を下ると、倒木の向こうで王国兵が一人うずくまり、その先に荷車が横倒しになっていた。
「生きてる?」
「生きてるワン。奥に二人いる!」
勇者アレクシスが倒木を持ち上げ、ロイドとシェリアが周囲を見る。エルミナは負傷者の近くに残る魔力を確認し、俺は森の奥へ目をやった。枝が揺れた。
「伏せろ!」
黒い獣が倒木の陰から飛び出す。
ガァァァッ!
アレクシスの剣が敵の攻撃を正面で受け、シェリアの矢が脇腹へ刺さる。もう一体が横へ回ろうとした瞬間、フェンナが叫んだ。
「左の木の後ろ、もう一匹いるワン!」
「ロイド、頼むぞ!」
「分かってる!」
ロイドの魔法が地面を走り、潜んでいた個体の脚を止める。
俺は銃へ手をかけたが、撃たなかった。
(撃てることと、撃つべきことは別だ。近い、味方が動いている、勇者一行だけで止められている。ここで俺が一発足して格好をつけても、誰かの背中へ飛んだら全部終わる。撃たない判断は地味だし、請求書にも英雄譚にも映えない。でも、こういう時ほど要る)
「陸、撃たないの?」
「勇者どもで足りる。撃たなくていい時にまで撃つほど弾好きじゃねえよ。金もかかるしな」
ティアナが少しだけ笑った。
「ほんと、あんたってそこだけはまともね」
「普段もまともだろ?」
「今の発言で減点するわ」
戦闘が終わると、フェンナはまた地面へ鼻を近づけた。
「この先、臭いが変だワン。人の血は右、未精算獣は左。でも、その間だけ土も葉っぱも湿った木も、全部あるはずなのに鼻へ入ってこない。臭いが弱いんじゃなくて、そこだけ抜き取られてるみたい。昨日の場所と同じだから、この線を追えば何か見つかると思うワン」
彼女は視覚では分からない細い線をなぞるように進む。やがて土の中から、古い石が顔を出した。白っぽい石材の表面に、太陽と翼を組み合わせた意匠。崩落現場で拾った金属杭と似ている。
「またこれか」
「セレネア系ですね」
エルミナがしゃがみ込む。
「ただ、今はほとんど魔力を感じません。古い巡礼路の標石にも見えます」
「掘る?」
「ボス! 私掘れるワン!」
「お前は何でも嬉しそうに掘るな」
フェンナが前脚でも使いそうな勢いで土をかき始めたので止める。
「待て。先に人だ」
「……うん」
鼻が別方向へ向く。
「子供の臭いもある。奥だワン」
フェンナの声がわずかに低くなった。普段は群れだのボスだの飯だのと騒いでいるくせに、置いていかれた誰かの臭いを拾った時だけは笑わない。
(こいつにとって「群れ」は、俺が軽口で使ってる言葉よりずっと重いんだろう。失った話をわざわざ掘り返して慰める柄でもない。見つけたなら連れて帰る。それで足りる場面もある)
「見つけたなら連れて帰るぞ。話はそれからだ」
「うん!」
倒木の先で見つかったのは、負傷した母親と十歳ほどの男児、それから足を痛めた老兵だった。フェンナは先頭でしゃがみ込み、子供へ手を差し出す。
「もう大丈夫だワン。ここから先は私たちがいる。歩けないなら背負うし、怖かったら手を離さなくていい。帰るところまで一緒に行くから、今は立てるかどうかだけ教えてほしいワン」
尻尾は振っていない。子供がその手を掴んでから、ようやく一度だけ大きく動いた。
避難所へ向かう途中、男児は何度も後ろを振り返った。森の奥へ戻りたいわけではない。置いてきた荷物でも気にしているのかと思ったが、やがて小さな声で「父さんも来る?」と聞いた。フェンナの耳が少し伏せた。
「別の避難列にいるか、まだ森の外かもしれないワン。臭いが分かれば探せる。だから、名前と服と、最後に会った場所を教えてほしいワン」
見つかるとは言わなかった。絶対に大丈夫とも言わなかった。その代わり、聞いたことを一つずつ覚え、男児が言い終わるまで歩く速さを合わせた。俺は横から口を挟まない。
群れを失ったことがある奴に、「家族は大丈夫」なんて軽く言えるほど俺は器用じゃない。見つけられるものを見つけて、連れて帰る。今はそれだけでいい。
「フェンナ。避難所へ着いたら、その父親の情報も名簿へ回せ」
「分かったワン。ボス、ちゃんと覚えとく」
「俺は昼寝係だぞ?」
「昼寝係も群れの仕事するワン」
「役職名から詐欺じゃねえか!」
伏せていた耳が少し戻った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
避難所へ戻る途中、レグリアは例の石材の記録を取りながら不満そうだった。
「“臭いがない臭い”って、記録しづらぁい……。数値へ落とせない情報は照合に手間がかかるんですけどぉ」
「でも捨てないんだろ?」
「捨てません。フェンナさんの証言、発見位置、周辺の魔力値、石材の状態を別々に残して、あとで一致する項目を探します」
「へえ」
「何ですか」
「いや。数字にならないから却下するのかと思ってた。ちゃんと拾うんだな。そこは偉いじゃん」
レグリアが黙った。
「……監査官として当然です」
「また声ちっちゃくなったワン」
「小さくありません!」
フェンナが楽しそうに鼻を鳴らす。
「でもボスのおならなら、数値化しやすいワン!」
「せっかく人がいい話してんのに戻すな!」
「臭気識別精度、高♡」
「お前も復活すんな!」
【神界・追加ご請求】
・地中異常核探査補助費 金貨700枚
・救助領域因果安定化費 金貨900枚
・嗅覚情報世界間記録補正費 金貨600枚
・近接戦闘安全域維持費 金貨800枚
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今回加算 金貨3,000枚
今回加算・日本円換算 15,000,000円相当
前回繰越残高 金貨41,000枚
前回繰越残高・日本円換算 205,000,000円相当
暫定合計残高 金貨44,000枚
暫定合計・日本円換算 220,000,000円相当
※発見された古代石材は現時点で用途未確定。
※環境臭ノイズは金銭請求へ加算されていません。
「嗅覚情報記録補正、六百枚。フェンナが地面嗅いだだけで三百万円?」
「私の鼻、高いワン!」
「お前が喜ぶ話じゃない。請求先俺なんだぞ」
「高性能感覚器官ですからぁ♡ 黒田さんの鼻よりずっと優秀♡」
「じゃあ俺の鼻は無料なんだな。次から俺が嗅ぐわ」
「敵は無理だけど、ボス自身のおならならすぐ分かるワン!」
「その機能を今すぐ封印しろ!」
ゼニスが請求書の下を指す。
「ちなみに環境臭ノイズは無料です」
「当たり前だろうが!」
「保存だけは神界サービスでぇす♡」
「一番いらねえサービスを充実させんなぁぁぁぁ!!」




