第七話 夜野奏多のカルテ
ピー ピー ピー ピー
無機質な、高い機械音が規則正しく鼓膜を叩いている。
そこは、どこにでもある静かな病院の一室だった。
窓からは昼下がりの本物の太陽の光が差し込み、白いベッドの上には、たくさんの管に繋がれた一人の少年が横たわっている。
少年の頭には包帯が巻かれ、固く閉じられた瞼は、もう何日も開く気配がない。
傍らのパイプ椅子には、心身ともに疲れ果てた様子の母親が座り、息子の冷え切った手をただただ握りしめていた。
この少年の名前は、夜野奏多。
ほんの数日前まで、彼はこの街のヒーローだった。 地元の強豪クラブチームで、誰もが羨むエースナンバー『10番』を背負った天才サッカー少年。
俊敏なドリブルと、周囲の誰もが信じる圧倒的な実力。
監督からも、チームメイトからも、親からも、彼は常に「完璧なエース」であることを期待され、奏多自身もその期待に応え続けて視界を支配していた。
あの日も、激しい雨が地面を叩きつける泥泥としたピッチの上で、彼はチームを勝利に導くハットトリックを決めたばかりだった。すべてが絶頂だった。
その帰り道。 視界を白く遮るほどの豪雨のなか、傘を深く差して交差点を渡ろうとした、まさにその瞬間だった。
アスファルトを激しく引き裂くような、狂ったようなブレーキ音が爆音で響く。
奏多が顔を上げたときには、もう遅かった。巨大なヘッドライトの光が、網膜を真っ白に焼き尽くす。
直後、凄まじい衝撃が彼の身体を宙へと跳ね飛ばした。
雨の冷たさ。
骨がきしむ鈍い音。
自分の身体が地面を叩きつけられ、何度も転がる感覚。
じわじわと体温を奪っていく、生温かい血液の感触。
遠くで誰かが叫んでいる悲鳴が、まるで水の中にいるようにこもって、遠ざかっていく。
土色の空から降り注ぐ激しい雨の音が、彼の意識のなかで聞こえた、現実の最後の音だった。
一命は取り留めたものの、手術を終えた医師から告げられた診断は、あまりにも残酷なものだった。
頭部への強い衝撃。そして何より、両足の神経の深刻な損傷。
『命が助かっただけでも奇跡です。ですが、二度と以前のようには……サッカーはおろか、まともに走ることも難しいでしょう』
その言葉は、少年の世界を、未来を、一瞬ですべて叩き割った。
自分のすべてだったサッカーが消えた。
見舞いに来る友人たちの、腫れ物に触るような哀れみの視線。
泣き崩れる母親の姿。
『頑張れ』
『また奇跡が起きるよ』
という周囲の無責任な励ましの言葉。
それらのすべてが、鋭いナイフとなって、身動きの取れない奏多の心をズタズタに切り刻んでいった。
――もう、誰も僕を見ないでくれ。
――僕を天才と呼んだ、あの現実から消えてしまいたい。
過度の精神的ショックと絶望から、奏多の心はある日、プツリと音を立てて壊れてしまった。
現実のすべてを拒絶するように彼は言葉を失い、そのまま深い意識の底へと沈み込んでいったのだ。
主治医は、ベッドの上の彼を見つめながら、静かにカルテを閉じた。
「身体の傷は回復しつつあります」
「ですが、彼自身の『生きたい』という意志が戻らない限り、彼がこのまま目を覚ますことはないでしょ
う」
何も聞こえない。
時間は10時15分。
ベッドの傍らに置かれた彼の鞄の奥に、一本の深い青色をした高級な万年筆が、寂しげに眠っているだけだった。




