第五話 動かない時計と、消えた名前
――本当の私なんて、誰も見ていない。
ナギは、図書館の窓の外を眺めながら、自分の冷え切った指先をさすっていた。
学校での私は、いつも笑顔で、誰の悪口も言わず、みんなの愚痴を優しく聞いてあげる「完璧な優しい女の子」だった。
でもそれは、誰からも嫌われたくないという恐怖が作らせた偽物の仮面だ。
私が本当に辛いとき、誰も私の本音には興味を持ってくれなかった。
みんなが好きなのは「都合のいいナギちゃん」であって、私自身じゃない。心が空っぽになって、呼吸の仕方も分からなくなったあの日、私は息苦しい教室を飛び出したのだ。
だけど、この図書館だけは違った。 乱暴だけど本当は誰より優しい『1番』。 おっとりしているけれどすべてを受け入れてくれる『2番』。 怯えながらも、私にそっとお菓子を分けてくれる『3番』。 そして、いつも穏やかにみんなをまとめてくれる『5番』。
本名を捨てて『4番』になれたこの場所だけが、私の乾ききった心を潤してくれる、唯一の居場所だった。 5人が揃ってから、どれくらいの時間が経っただろう。
トランプのカードが擦れる音だけが響く静寂の中、5番が不意に目を丸くした。
「ねえ、みんな。……ちょっと、おかしなことに気づいちゃったんだけど」
5番は眼鏡を押し上げながら、ひどく困惑した声をあげた。
「僕の家は、確か、すごく厳しくて……母親にいつも『〇〇家の人間がトップを取れないなんて』って怒鳴
られていた記憶があるんだ」
「……でも、変なんだ。その『〇〇』に入るはずの、僕の家の苗字が、今どうしても思い出せないんだよ」
その言葉に、館内の空気が一瞬で凍りついた。
5番は続けて話した。
「僕たちの下の名前は、ヤマト、ノゾム、カエデ、ナギ、タクミだよね。……じゃあ、僕たちの『苗字』って、何だっけ?」
ヤマトが、ノゾムが、カエデが、そしてナギ自身も、自分の記憶の引き出しを必死に引っかき回す。
しかし――思い出せない。
毎日学校に通い、テストの答案用紙に何度も書いてきたはずの自分の苗字が、頭の中の霧に隠れて、最初の1文字すら引っかからないのだ。
「……それに、さ」
3番が、震える指で壁の古い掛け時計を指差した。
「私、ここに来てから、時計の針が動くのを一度も見てないの…」
「最初は壊れてるのかなって思ってたんだけど…」
ナギは慌ててポケットからスマホを取り出した。
画面の右上に表示されたデジタル時計の数字は『10:15』。
昨日も、一昨日も、ここにいる間、この数字は1分たりとも進んでいない。
窓の外を見れば、太陽はいつも同じ位置にあり、午前十時のあの少し傾いた光が、ずっと埃を白く照らし続けている。
「おい、これどういうことだ……? 俺たちは一体、どこにいるんだ?」
1番が声を荒らげ、椅子をガタリと鳴らして立ち上がった。
恐怖が、静かに5人の間に広がっていく。ここは本当に、自分たちの街にある普通の図書館なのだろうか。
「待って。あそこ……」
2番が館内の最奥を指差した。
普段はロープが張られ、鍵が閉まっているはずの『地下閲覧室』へ続く木製の重い扉が、内側からゆっくりと、ひとりでに開いていくところだった。
――まるで、誰かが奥で手招きをしているかのように。




