第三話 本当の自分
――私は、誰の目にも留まらない、ただの透明な人形でいい。
カエデは教室の隅の席で、クラスの「中心グループ」の女の子たちが笑う顔を、ただ見つめていた。
あの子たちが流行りの服や芸能人の話を振ってくれば、心の中では興味がなくても、100点満点の笑顔で
「そうだよね!」
「可愛い!」
と同意する。
もし少しでも違う意見を言えば、次の瞬間には自分がターゲットにされて、透明人間のように無視される。
それが、この教室の暗黙のルールだった。
自分の本音を押し殺し、周囲の顔色ばかりを伺う毎日に、カエデの心はいつしか限界を迎えていた。
チャイムが鳴ったとき、彼女は自分の限界に気づき、静かに教室から足を踏み出した。
そうして逃げ込んできたのが、この図書館だった。
そこには先客がいた。おっとりとした雰囲気の『2番』。そして、眼鏡をかけた優等生風の『5番』。
本当の自分を忘れるために番号で呼び合う。
その優しいルールに救われ、カエデは自分を『3番』と名乗った。
ここでは誰も、私の顔色を伺ってこない。ただ静かに、同じ空間で息をしているだけでよかった。
――しかし、そんなある日の午前十時。
図書館の静寂を乱暴に切り裂くように、激しい足音が響いた。
机に突っ伏していた2番と、ノートをめくっていた5番、そして本を開いていた3番が、同時に顔を上げる。
現れたのは、息を荒くした一人の少年だった。
制服の第一ボタンは引きちぎられ、袖には泥がついている。
何より、その鋭い目つきは周囲を威嚇する獣のようだった。
少年は館内を見回すと、一番奥にある彼らの席へと大股で近づき、隣の椅子を乱暴に引いて腰掛けた。
「……チッ、最悪だ」
少年は頭を抱えて毒づいた。拳の関節が赤く擦りむけている。
5番が冷静に、だけどどこか怯えた声で尋ねた。
「……喧嘩、ですか?」
「……喧嘩じゃねえよ。
一方的に絡まれて、ちょっと突き飛ばしたら、向こうの親が学校に怒鳴り込んできやがった。
先生も誰も、俺の言い分なんて聞いちゃくれねえ。
どうせいつもトラブル起こすヤマトが悪いんだろってさ」
ヤマト、と少年は自嘲気味に自分の名前を呼んだ。
「いつも一匹狼ぶって、周囲を睨みつけて。誰も俺の本当の言葉なんて信じない。
だったら、こんな学校の授業なんか、一生サボってやるよ」
彼は荒い息を吐きながら、机の上に突っ伏した。
3番はその姿を見て、胸の奥がキュッと痛んだ。
この少年も、自分とは形が違うけれど、「周囲が決めつけたイメージ」に押し潰されそうになって、ここに逃げてきたのだと分かったからだ。
2番がその背中を見つめ、少しだけ考えたあとに言った。
「じゃあさ、……ここではその名前、捨てなよ」
「は?」
「俺たち、ここでサボる時は本名を名乗らないって決めてるんだ。君も番号で呼び合おう」
5番が微笑んで言葉を継ぐ。
「僕は5番。彼は2番。彼女は3番。君は何番にする?」
ヤマトは一瞬、呆気に取られたように3人の顔を見たが、やがて鼻で笑って拳を解いた。
「変なルール。……じゃあ、俺は『1』だ」
「どうして1番なの?」
3番が思わず尋ねると、ヤマトはぶっきらぼうにそっぽを向いた。
「さあな。俺は一番が良いんだ」
「よろしくね。1番」
5番がそう言うと、1番は「おう」と短く返して、窓の外を眺めた。
1番、2番、3番、5番。 午前十時の図書館に、また一つ、誰も触れられない透明な番号が増えた。




