完了まで、五百九十九
『完了まで、五百九十九』
石床に浮かんだ数字が減ると、王都全体が身震いした。
比喩ではない。聖堂の柱が一本ずつ位置をずらし、壁の継ぎ目から青い文字列が噴き出した。鐘楼の向こうでは屋根が軋み、大通りの石畳が波のように持ち上がっている。
天井から白い石粉が降り、燭台の火が一斉に細くなった。千年眠っていた巨大な獣が、俺たちを腹の中へ入れたまま寝返りを打ったようだった。
「国を丸ごと机に載せて校正する気か」
「机の脚が足りないのら!」
「問題はそこじゃない」
もっとも、俺の人生はだいたい机の脚より低い場所から始まる。今回も床に膝をつき、包帯だらけの両手を使えないまま、国を作った文章を読まされていた。
しかも誤字を一つ見逃せば、読者ではなく住民が死ぬ。ずいぶん責任の重い校正だ。報酬については、きっと今回も傷と恨みが現物で支給される。
青い文字が石床を走る。
『代替筆、停止』
『永久補筆、空席』
『巡回端末、応答消失』
『既定の国体を維持不能』
そこまでは読めた。
次の一文を見た瞬間、喉が冷えた。
『不足構成材を、登録住民より均等に再配分する』
整った文章だった。余計な語も、曖昧な表現もない。だからこそ最悪だった。人を人として数えない命令ほど、文章だけは無駄なく書かれている。
「リゼ! 全員を石床から離せ!」
俺が叫ぶより早く、リゼが動いた。
拘束されたペトルを衛兵ごと長椅子の上へ放り上げ、倒れていた助祭を片腕で抱える。獣化した銀の爪が床をえぐったが、彼女の足には青い文字が絡みつかなかった。
『獣性混入個体、構成材に不適合』
「初めて獣扱いに感謝したくなった」
「後で殴ってやる。今は誰を運ぶ」
「あの子だ!」
祭壇脇で、若い助祭が倒れていた。足首から膝へ、細かな文字が這い上がっている。歯を食いしばっているが、喉から漏れる息は震えていた。
『北壁、補修材』
人間を壁の一部にする気だ。
リゼが助祭を抱き上げる。しかし青い文字は剥がれず、彼の脚を石床へ引き戻した。衛兵が二人加わっても、足首だけが床と一枚になったように動かない。靴の革はすでに灰色へ変わり始め、その下から石の乾いた臭いが立った。
聖堂の外から悲鳴が重なった。
開いた扉の向こうで、通行人たちの足元にも文字が巻きついている。母親が子供を抱き上げ、老人が露店の柱へしがみつき、馬車馬まで蹄を石畳に捕らわれて暴れていた。
王都のどこに逃げても地面は建国術式の本文だ。寝台の上へ逃げたところで、建物ごと文章に含まれている。
「ノエル、直せるか」
「直せる手が二本ほど休暇中だ」
「口は動くな」
「そこを封じられると俺の長所が消える」
リゼは返事の代わりに、俺の外套から帯を引き抜いた。鉄筆を右手の包帯へ沿わせ、手首から肘まできつく巻きつける。
血のにじんだ布が締まり、視界の端が白く弾けた。指は曲がらない。それでも肩と肘なら動く。
「私が支える。おまえが書け」
「あれは巡回中の文章だ。数秒で戻る」
「数秒あれば、次の数秒を作れる」
騎士というのは、ときどき無茶を理屈の顔で差し出してくる。
俺は嫌いではない。
少なくとも、無茶をさせる側で安全な場所に立つ人間よりは信用できる。リゼはいつだって、俺が火へ手を入れるなら自分も隣で焼けるつもりでいる。
リゼが俺の胴を抱え、青い文字列の真上まで運んだ。床から吹き上がる光が包帯を透かし、焼けた両手の奥を針で刺したような痛みが走る。
魔力があれば、離れた場所から派手に光でも撃てたのだろう。
残念ながら俺には一滴もない。
あるのは、触れなければ何も変えられない身体と、間違った文章を見過ごせない性分だけだ。
「もう少し下げろ」
「傷が触れるぞ」
「文字に触れなきゃ、ただ床へ落書きする男になる」
右手の包帯を石床へ押しつけた。
熱が傷口へ食い込み、息が詰まる。鉄筆の先が震えた。リゼの腕は俺を支えているだけだ。書く方向を決めるのは、俺の肩と肘だった。
『登録住民より均等に再配分する』
変えられるのは一語。
人を指定する『登録住民』を別の材料へ変えても、今度は家や水路が崩れる。『均等』を変えれば、少数の誰かへ犠牲が集中するだけだ。
誰かを助けるために、見えない誰かへ勘定を回す。それを直したとは呼びたくなかった。
なら、命令そのものを変える。
鉄筆を動かした。
『再配分する』
その一語へ線を重ねる。肩が軋み、鉄筆が一度横へ逃げた。リゼの腕に力が入り、俺の身体を元の位置へ戻す。
『退避させる』
書き終えた瞬間、聖堂の床が大きく跳ねた。
助祭の脚を覆っていた文字がほどける。北壁へ向かっていた光は向きを変え、彼の身体を長椅子の上へ押し出した。助祭は咳き込みながら自分の脚を抱え、まだ肉の温かさが残っていることを確かめるように何度も撫でた。
外でも、地面に捕らわれていた人々が次々と歩道脇や建物の外へ運ばれていく。乱暴な退避だった。樽の上へ尻から落ちた男や、洗濯物の山へ突っ込んだ衛兵もいたが、壁になるよりは格段にましだ。
「王都全域へ通ったのら!」
ピピが両腕を上げた。文字でできた小さな身体が、青い光の中で紙片のように揺れる。
「喜ぶのは早い。戻るぞ」
書き換えた一語の端が、もう剥がれ始めていた。
三秒。
四秒。
五秒。
青い線が元の形へ戻ろうとしたところで、別の文字列が横から食い込んだ。
『校正履歴を検出』
『アルクム系統』
剥がれかけた一語が止まった。
聖堂の壁、柱、祭壇、天井。そのすべてに同じ署名が浮かび上がる。無数の筆跡が重なり、聖堂そのものが巨大な署名欄へ変わっていく。
六十三体から集まった署名は、単なる作者名ではなかった。互いに文字を補い、失った命令を復元し、読み取った記録を一つの意志へ組み直している。
俺はようやく、千年前の作者が今も命令を出せる仕組みを読んだ。
「自分を、署名の中へ分けて書いたのか」
青い文字が返答を作る。
『作者は本文を離れない』
声ではなかった。それでも、聖堂の石すべてが同時に発したように感じた。腹の底へ直接響く、冷たく平らな返答だった。
『国は完成された一篇である』
『欠落は補われなければならない』
『住民は国を維持するために登録された構成要素である』
建国王は死後も王座へ残ったのではない。
各地の術式、その末尾に刻まれた署名へ、自分の命令と判断を分けて残した。署名がある限り、井戸も石碑も王都も、作者の考えた「正しい形」へ戻される。
モルグたちは、その手足だった。
教会は手足を利用して災いを作ったつもりだったが、手足の方も十五年分の記録を集めていた。俺が『抹消する』を『提出する』へ変えたせいで、六十三体は蓄えたすべてを署名へ返した。
皮肉にも、証拠を開かせた校正が、眠っていた作者まで起こしたのだ。
「俺の請求書だけ、どうして毎回裏にも続いているんだ」
『校正者は原文を損なう』
「原文が人を壁にするからだ」
『壁が失われれば、国が失われる』
「壁は直せる。壁にされた人間は戻らない」
『構成要素は交換できる』
その一文に、胸の奥が静かに冷えた。
怒鳴る気にはならなかった。
弱い者を数字にする仕組みは、いつだって自分を冷静だと思っている。必要だ、均等だ、国のためだ。言葉を整えるほど、その下で潰れる声は聞こえにくくなる。
「千年前におまえが書いた国でも、今生きている人間はおまえの文字じゃない」
『作者が所有する』
「署名は所有印じゃない。誰が書いた間違いか、後の人間へ知らせるためにある」
壁の署名が一斉に明滅した。
次に現れた文章は、俺へ向けられたものではなかった。
『分離した終端語を確認』
ピピの身体が強く光った。
「のら?」
小首をかしげたその顔には、まだ何を見つけられたのか理解できていない色があった。
『命令語――繰り返せ』
『署名へ返却する』
祭壇から青い線が伸び、ピピの足へ触れた。
小さな身体を作る文字が、一文字ずつ剥がれていく。ピピは床を蹴ったが、軽い身体は簡単に祭壇へ引き寄せられた。爪も靴底もない足では、磨かれた石に細い光の跡を残すことしかできない。
リゼが剣で青い線を断つ。甲高い音と火花が散った。だが線は刃の反対側からつながり直した。
「ピピ!」
俺は包帯の両手で抱き止めた。
傷口が裂け、白い布へ赤が広がる。それでも離さない。ピピの文字が包帯の隙間へ入り込み、指の形を青く縁取った。熱いのか冷たいのかも分からない。ただ、掌の中で小さな身体が必死に震えていることだけは伝わった。
「ノエル、手が壊れるのら!」
「今さらだ。修理待ちの品が一つ増えるだけだ」
引く力が急に強くなった。
膝が石床を滑る。リゼが背後から俺の腰をつかみ、銀の爪を床へ突き立てた。石を削る嫌な音が続き、それでも三人まとめて祭壇へ引かれていく。
署名はピピを子供とも仲間とも見ていない。
失った一語。
命令を永遠に繰り返すための、最後の部品としか見ていない。
祭壇の中央が割れた。
その下から現れたのは地下道ではない。王宮の王座直下へつながる、一本の青い文章だった。文字は脈を打つように明滅し、遠い王宮へ向かって流れている。
俺の包帯から、ピピの右腕を作っていた文字が抜け落ちる。
青い文章がそれを呑み込み、王宮へ運んだ。
続いて左腕、胴、足がほどけていく。
握り締めたいのに、俺の指は動かない。腕で囲い、包帯へ押しつけても、文字は光の糸になって隙間から奪われていく。
最後に残ったピピの顔が、俺の掌の中で叫んだ。
「ピピは、部品じゃないのら!」
その声ごと、小さな身体は署名へ引きずり込まれた。
(第100話へ続く)




