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追放された魔力ゼロの写本係、実は世界で唯一「呪文の意味」がわかる男 ~呪いは解かずに書き換えろ~  作者: ろくさんだ


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草稿の国

 掌の中には、何も残っていなかった。


 ピピの重さなど、もともとインク瓶より軽い。それでも失えば分かる。軽いものほど、いなくなったあとの空白は妙に重い。


 さっきまでそこにあった、紙を擦るような気配もない。うるさい語尾も、勝手に袖へ潜り込む感触もない。俺の手はもう何も握れないのに、何かを取り落とした感覚だけが、指の形をして残っていた。


 包帯の隙間から青い光が流れ落ち、祭壇の下の文章へ吸い込まれていく。


『終端語の返却を完了』


『署名の自動補完を再開』


『完了まで、五百四十二』


「返せ」


 俺は青い文章へ腕を突っ込んだ。


 指は曲がらない。掴めもしない。包帯を巻いた腕で水を抱えようとするようなものだ。流れる文字は肘の両側へ分かれ、何事もなかったように王宮へ走っていく。


 床石の継ぎ目、柱の傷、壁画の剥落。そのすべてを青い文字が縫い合わせ、聖堂の外へ命令を運んでいた。千年も働いて、まだ休み方を知らない文章らしい。俺より勤勉で、俺よりはるかに迷惑だ。


『分離語に所有権はない』


 六十三の署名を束ねた声が、聖堂じゅうから答えた。


『語は文に従属する』


「国を作ったわりに、ずいぶん狭い辞書だな。人も文字も、部品としか書いてない」


『国体は一つの意志によって保たれる』


「一人で書いた文章は、たいてい誤字に気づかないものだ」


 祭壇から伸びた青い線が太くなった。王都の石床が低く震える。靴底から上がった振動が膝を打ち、歯の根まで鳴らした。


 リゼが俺の襟を掴み、後ろへ引いた。直後、祭壇の縁から文字の棘が突き出した。あと半歩残っていれば、魔力ゼロの写本係が串刺し標本になるところだった。後世の見出しは『読めたが避けられなかった男』だろう。あまり売れそうにない。


「ノエル、読めるか」


「嫌になるほど」


 建国術式の文章は何層にも重なっていた。


 城壁を保つ文。水路を巡らせる文。火災を知らせる文。その下に、人の名を不足した構成材へ割り当てる文がある。


 暮らしを守る命令と、人を食い潰す命令が、同じ筆跡で仲よく並んでいる。善意と傲慢は、古代語にしても見分けにくい。どちらも命令形を好むからだ。


 俺が『再配分する』を『退避させる』へ書き換えた箇所も見えた。まだ残っている。だが、署名の光が触れるたび、元の語が薄く浮かび上がっていた。


 署名同士が欠けた命令を補い、建国王の判断へ戻そうとしているのだ。


 今まで直した箇所を、一つずつ直し直す時間はない。仮にできても、俺の手が先に肉の飾り紐になる。


「親文は?」


 リゼが問う。声は落ち着いていたが、獣化した右腕の爪は床を引っかいていた。石の粉が細く舞い、血と埃の匂いが鼻を刺す。


「ある。ただし、流れの底だ」


 すべての命令より前に、短い一文が繰り返されていた。


『署名者の裁定を完成稿として固定する』


 それが根だ。


 建国王の文章が古いから強いのではない。自分の裁定を完成稿と定め、後世の校正を誤りとして戻す仕組みが埋め込まれている。


 千年前の王が、永遠に最後の筆を握っている。


 死者の手は疲れない。迷わない。だから、生きている人間より始末が悪い。


「一語で止められるか」


「止めるだけならな」


 命令を『停止する』へ変えれば、建国術式全体が止まるかもしれない。城壁も水路も、灯りも警報も巻き添えだ。古代術式を消し去れば万事解決、というほど人の暮らしは親切にできていない。


 今夜を生き延びても、明日、水が届かず誰かが死ぬ。それを勝利と呼べるほど、俺は立派な英雄でも無責任な馬鹿でもなかった。残念ながら後者には少し自信があるが、今は遠慮したい。


 必要なのは破壊ではない。


 王の文章を、直せる文章へ戻すことだ。


 だが親文は一巡のうち、瞬き一つほどしか表へ出ない。しかも俺には筆を握る指がない。


 青い流れの中で、一文字が跳ねた。


『繰り返せ』


 続いて同じ語が、もう一度浮かぶ。


『繰り返せ』


 文章の流れがわずかに詰まった。


『繰り返せ、のら』


「ピピ!」


 返事の代わりに、青い線が三度震えた。


 署名へ戻されても、ピピは消えていない。命令語として、内部から同じ箇所を何度も送り返している。従うためではない。俺に読ませるために。


 声も身体も奪われて、それでも語尾だけは譲らない。まったく、文字のくせに行間を使うのがうまくなった。


『終端語の異常を検出』


『再統合を開始』


「急げ!」


 リゼが床に転がった小瓶を拾った。ピピがもらった約束のインク瓶だ。蓋を歯で抜き、腰の筆入れから鋼筆を取り出す。


「握れない」


「知っている。だから縛る」


 俺の右手首へ鋼筆を添え、包帯の端で何重にも巻いた。筆は人差し指の先から不格好に突き出した。握れなくても、肩と肘は動く。


 締め上げられた包帯の下で、傷んだ肉が鈍く脈打った。こんな握り方を写本院で披露すれば、筆より先に俺が廃棄されるだろう。


 リゼが背後から俺を抱え、左腕で胴を支えた。右手は獣化し、銀の爪が石床へ食い込む。血と革、それに逆立った獣毛の匂いがした。生きた相棒の匂いだった。


「私ごと使え」


「騎士団長代理を筆置きにした写本係は、たぶん俺が初めてだ」


「名誉に思え」


「始末書を書く手が治ったらな」


 鋼筆の先をインクへ浸す。


 青い流れへ包帯の手を押しつけた。触れた瞬間、焼けた鉄を握ったような痛みが腕を駆け上がる。指が動かないのが、今だけは幸いだった。動けば反射で離している。


『署名者への干渉を排除』


 文字の棘が腕に絡んだ。包帯が裂け、湿った熱が内側へ広がる。インクと血の区別がつかなくなった。


 リゼが唸り、俺を固定する。銀の爪が石を削った。俺の背中越しに伝わる心臓は速い。それでも一歩も退かなかった。


『完了まで、四百八十一』


「まだ出ない」


『四百八十』


「ノエル!」


「ピピ、もう一度だ!」


 流れの奥で、文字がばらばらに明滅した。


『ピピは』


 一瞬途切れ、別の語に押し流される。


『部品では』


 署名の光が強まり、その先を潰そうとした。


 小さな文字が逆流し、最後の一行を押し返した。


『ないのら!』


 青い文章が大きく脈打った。


 親文が表へ出る。


『署名者の裁定を完成稿として固定する』


 俺は筆を当てた。


 完成稿。


 誰にも問い返されず、間違いを認めず、人を削ってでも自分へ戻り続ける言葉。


 そんなものを国と呼ぶには、余白がなさすぎる。


 鋼筆を動かす。肩から先が裂けそうに痛んだ。リゼが俺の肘を支え、流れに合わせて身体ごと押した。


 署名の声が聖堂を震わせる。


『我が裁定は正しい』


「正しいなら、直されても残る」


 最初の文字を書く。


『国は完成されなければならない』


「国に終わりを決めるな」


 二文字目。インクが青い光へ食い込む。筆先が弾かれ、線が震えた。リゼの腕が締まり、その震えごと正しい一画へ押し戻した。


『民は王の文に従う構成要素である』


「人は、おまえの文章より先に生きてる」


 最後の一画を引いた。


 俺が書き換えたのは、たった一語だ。


『署名者の裁定を草稿として固定する』


 聖堂から音が消えた。


 青い文章は止まらない。ただ、俺の書いた語を呑み込み、王都全域へ運んでいく。


『完成稿指定を解除』


『署名による自動復元を停止』


『既存の校正記録を保持』


『登録住民の構成材指定――無効』


『以後の変更に校正記録を要求』


 城壁の灯りは消えなかった。水路を流れる音も続いている。遠くで弁が開く重い響きがして、聖堂の壁を伝う水音がいつもの調子を取り戻した。


 古代術式そのものがなくなったわけではない。壊れた箇所も、危険な命令も、これから一つずつ読んで直す必要がある。


 たぶん俺の机には、天井まで届く修正依頼が積まれる。給金が同じなら泣いていい案件だが、その愚痴を言える明日が残った。


 だが、もう王の署名が勝手に誤りを元へ戻すことはない。空席へ人を押し込み、足りない文字を命で埋める仕組みも動かない。


 完成していないから、直せる。


 それで十分だ。


『草稿に国家としての正当性はない』


 建国王の声は、ひどく遠くなっていた。六十三の声はもう重ならず、古びた一人分の響きに戻っている。


「なら、これから生きる人間に聞け」


 青い光が砕けた。


 祭壇から無数の文字が噴き出し、俺の胸へぶつかる。リゼと二人で床へ倒れた。肺から空気が押し出され、視界いっぱいに青い欠片が舞う。


 包帯の手の上に文字が集まり、腕、足、胴、最後に丸い顔を作る。崩れては集まり、綴りを確かめるように何度も輪郭を結び直した。


 ピピは何度か瞬きをした。


「……戻ったのら?」


「ああ」


「ピピは、まだピピなのら?」


 その問いだけは、冗談で流してはいけない気がした。だが、俺たちには俺たちなりの確かめ方がある。


「インク瓶一本を勝手に使った。怒れるなら間違いなくピピだ」


 小さな顔がくしゃりと歪んだ。


「それはピピのだったのらー!」


 泣きながら俺の鼻へ頭突きしてきた。痛い。文字でできているくせに、妙に硬い。だが、これほどありがたい痛みもない。


 リゼが俺たちごと抱き締めた。銀の毛に覆われた腕は温かく、少し汗臭く、ものすごく力が強かった。


「リゼ、骨が」


「黙れ」


「はい」


 ピピも潰れた声で「狭いのら」と抗議したが、リゼは緩めなかった。俺も本気では逃げなかった。逃げられる身体ではない、という事情はさておく。


 署名の光は静かに祭壇へ沈んだ。


 王の意志は消えてはいない。ただの署名として、建国術式の末尾に残っている。もう命令する王ではなく、誰が書いたかを示す記録だ。


 書いた者の名は残る。だが、その者だけが最後の言葉を持つ必要はない。


 夜明けに近い鐘が鳴った。


 その直後、聖堂の扉が激しく叩かれた。王宮治療所から来た使者が、厚い書類束を抱えている。息を切らし、額に汗を浮かべながら、それでも書類だけは両腕で大事に抱いていた。


 百十二枚あった。


 数字として術式へ並べられていた者たちが、一枚につき一人、自分の言葉を書いている。その重みは、さっきまで掌にあった空白とは正反対だった。


 一番上には、アデル・アルクムの筆跡でこう書かれていた。


『百十二名全員、これから住む場所を自分で選びたい』


(第101話へ続く)

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