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追放された魔力ゼロの写本係、実は世界で唯一「呪文の意味」がわかる男 ~呪いは解かずに書き換えろ~  作者: ろくさんだ


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余白を選ぶ

 百十二枚の書類は、持ち上げるには少し重すぎた。


 もちろん紙の重量の話ではない。俺の両手は相変わらず、役立たずを極めていた。指は包帯の中で腫れ、曲げろと命じても、持ち主の指示を無視する。俺の身体は建国術式より先に、命令への服従をやめたらしい。


 リゼが書類束を支え、ピピが一枚目の上へ降りた。


「読むのら」


「ああ」


 一枚ずつ、声に出して読んだ。


 故郷へ戻りたい者。


 王都に残って治療を続けたい者。


 フォグレス領へ行きたい者。


 家族を捜してから決めたい者。


 まだ決められない、と書いた者もいた。


 百十二名の希望は、百十二通りだった。


 当たり前だ。国は長いあいだ、それを当たり前として扱ってこなかった。人間を名前ではなく番号で並べ、空席を埋める材料にし、都合が悪くなれば返却不能と記した。


 だから俺たちは、一枚ごとに読んだ。


 似た希望をまとめず、未定を不備として差し戻さず、本人の名と本人の言葉を記録した。


 夜が明け、朝の鐘が鳴っても終わらなかった。


 途中でピピがインク瓶に顔を突っ込み、リゼに襟首をつままれた。俺は笑ったせいで肋骨が痛んだ。つい数刻前に国の原文と殴り合った人間としては、ずいぶん情けない負傷理由である。


 最後の一枚は、アデル・アルクムのものだった。


『フォグレス領。今度は筆としてではなく、ただの老人として暮らす』


 その下に、小さく付け足されている。


『孫が嫌がらなければ』


「卑怯だな」


 俺が言うと、椅子に座っていた祖父は肩をすくめた。


「年寄りには、若者を困らせる権利がある」


「そんな条文はない」


「草稿なのだろう。書き足せ」


「却下する」


 祖父は笑った。


 拘束椅子から外された手首には、まだ深い痕が残っている。十五年を取り戻すことはできない。代替筆にされた者たちの傷も、奪われた暮らしも、書類一枚で元には戻らない。


 それでも、祖父が自分の行き先を自分で書いた。


 その事実は、どんな立派な慰めより信用できた。


「おまえはどうする」


 祖父に問われ、俺は黙った。


 写本局にいた頃、俺の居場所は机の端だった。


 追放されたときは、居場所そのものがなくなったと思った。フォグレス領へ着いてからも、役に立つあいだだけ置いてもらえるのだと、心のどこかで勘定していた。


 魔力がない。


 魔法を撃てない。


 読めても、既存の術式へ触れ、一語を直すことしかできない。


 そんな俺が役に立たなくなれば、また外へ出される。そう思っていた。


 だが、役に立つことと、ここにいていいことは、同じ意味ではなかった。


 ハンナは働きぶりに関係なく飯を盛った。トマスは十五年ぶりに目覚めたあと、礼より先に壊れた棚の直し方を教えてきた。ガルドは人使いが荒いが、俺を道具として数えたことはない。コルムは勝手に弟子を名乗り、俺が断るたび、読める文字を一つ増やした。


 ピピは俺のインクを盗み、リゼは俺の命を勝手に自分の責任へ加えた。


 ひどい連中である。


 おかげで、追い出されないために役立とうとする癖を、少しずつ忘れてしまった。


「フォグレス領へ戻る」


 俺は答えた。


「命令ではなく?」


「ああ。俺が選ぶ」


 リゼが、ほんの少し笑った。


「なら、私も戻る」


「騎士の任務か?」


「違う」


 彼女は銀の毛が残る手で、俺の肩をつかんだ。革と鉄、それに夜通し走り回った汗の匂いがした。懐かしい、帰る場所の匂いだった。


「私が、おまえの隣を選ぶ」


「それは同意書が必要では」


「いま言った」


「口頭でも有効なのか」


「異議があるなら聞く」


 銀の爪が肩当てへ食い込んだ。


「ありません」


 国の原文には逆らった俺だが、物事には勝てる相手と勝てない相手がいる。


「ピピも選ぶのら!」


 小さな身体が書類の上で跳ねた。


「インクのあるところに住むのら!」


「範囲が広すぎる」


「では、ノエルのインクがあるところなのら」


「勝手に所有権を移すな」


「草稿なのら。あとで直せるのら」


 覚えなくていいところばかり覚える。


 それからの始末には、季節が一つ変わるだけの時間がかかった。


 オズワルド・ケインは、原文焼却、臨時追記、拘束令状の発行について有罪と認められ、王立写本局長の職を失った。


 俺を追放したこと自体は罪に数えられなかった。当然だ。嫌な上司であることまで罪にすれば、王都の牢は役人だけで満室になる。


 だが、彼が敗れた記録は残った。


 誰かの失敗として押しつけられず、教会の承認という存在しない紙で隠されず、印影と名札と拘束痕に結びついた記録として。


 教会上層が命じた再焼損と祈祷料の徴収も、六十三体の祈祷師が提出した記録によって裁かれた。差し押さえられた金は村々と患者へ返された。


 金を返せば、腐った井戸を飲んだ日々が消えるわけではない。眠らされた十五年が短くなるわけでもない。


 だから返還は償いの完了ではなく、ようやく始まった支払いとして記された。


 六十三体の文字片も捨てられなかった。


 モルグたちは人ではなかったが、彼らの記録までなかったことにすれば、同じ焼却を繰り返す。文字片は教会原板とともに封じられ、命令を実行する道具ではなく、命令された罪を示す証拠になった。


 建国王の署名は、今も建国術式の末尾にある。


 王の意志を消したわけではない。消すことなど、俺にはできない。


 ただし、完成稿ではなく草稿になった国では、署名は最後の命令ではない。誰が何を変えたのか、なぜ変えたのか。校正の記録を残し、生きている者が読み直す。


 面倒な仕組みだ。


 だが、人を材料にする仕組みほど手早くなくていい。


 百十二名の選択も、一度で綺麗には収まらなかった。


 故郷へ戻ってみれば家がなく、王都へ戻った者がいた。治療所に残ると書いたあと、フォグレス領へ希望を変えた者もいた。決められないと書いた者は、今も決めていない。


 それでよかった。


 選択は一度提出したら固定される命令文ではない。


 本人が生きているかぎり、書き直していい。


 俺の指は、完全には元に戻らなかった。


 右手の二本は曲がるようになったが、長く筆を持てば震える。左手は寒い日に痺れる。リゼの獣化も消えていない。遺跡で押しつけられた守護術式は、彼女の内側に残ったままだ。


 けれど彼女は、獣になる時を自分で選べる。


 呪いがなかったことにはならない。傷も消えない。


 俺たちがしたのは、傷の持ち主を命令文から人間へ戻しただけだ。


 フォグレス領へ戻った日、ハンナは百十二人分でも足りそうな鍋を火にかけていた。トマスは窓枠を直し、アデルはガルドと部屋の割り当てで喧嘩をしていた。


 コルムは俺を見るなり、挨拶もせず一枚の石板を突き出した。


「読めた」


「まず、おかえりくらい言え」


「先生が帰るの遅いんだよ」


 石板には、古い灯り石から写した術式があった。


 綴りは三か所間違っていた。区切りも一つ違う。以前の俺なら、鼻で笑って取り上げていたかもしれない。


「ここは、どういう意味だ」


 俺は末尾近くの一語を示した。


 コルムは眉間にしわを寄せ、何度も音を確かめた。


「……『繰り返せ』」


 ピピが俺の肩から石板へ飛び移った。


「正解なのら!」


「おまえが答えるな」


「でも、ピピの得意な言葉なのら」


 繰り返すためだけに切り離された終端語。


 署名へ戻れば、王の命令を永遠に唱える部品だったもの。


 今のピピは、コルムの正解を喜んでもう一度唱えている。


 同じ言葉でも、意味は命令だけで決まらない。


 誰が、何のために使うかを選べる。


「次は、この語を読め」


 俺が示すと、コルムは嫌そうな顔で石板を抱え直した。


「休ませてくれよ」


「弟子を名乗ったのはおまえだ」


「全部教えたら、先生は世界で唯一じゃなくなるぞ」


「大歓迎だ。唯一という役職は、休暇が少なすぎる」


 コルムは笑い、また文字へ目を落とした。


 俺は自分の筆を取り出した。


 震える二本の指を添え、欠けた灯り石の文字へ直接触れる。流れ込む魔力はない。俺には最初から一滴もない。


 ただ、書かれている意味を読み、一語だけを書き換えた。


 古い石に淡い光がともった。


 ピピが歓声を上げ、コルムが目を丸くする。屋敷からは煮込みの匂いが流れ、リゼが俺を呼ぶ声がした。


 俺は筆を置いた。


 もう、誰かが決めた完成稿へ自分を押し込む必要はない。


 間違えれば読み直す。傷つけたなら記録し、直せるところから直す。決められない日は、余白のまま残しておく。


 国も、人も、俺自身も、きっとそのくらいでいい。


「帰るぞ」


 俺が言うと、ピピが肩へ乗り、コルムが石板を抱え、リゼが当然のように隣へ並んだ。


 そこは与えられた席でも、追放の果てでもなかった。


 俺たちが自分で選び、これから何度でも書き直していく場所だった。


(完)

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