六十三人の祈祷師
石床が、下から六十三回叩かれた。
数えたわけではない。六十三という数字を見た直後だったので、床が一度鳴るたびに俺の臆病な想像力が律儀に人数を割り当てただけだ。
一つ。二つ。三つ。
腹の底へ響く鈍い音が増えるほど、聖堂の空気は冷えていった。燭台の炎が細くなり、天井から砂埃が降る。口の中に石灰の味が広がった。
最後の一撃で、祭壇から聖堂の入口まで亀裂が走った。
青白い指が、石の隙間から伸びる。
爪が床を引っかき、指の次に手首、肘、頭が押し出される。墓場の死体なら、まだ生前の顔に違いがあるだけ愛想がいい。
次々と床を押し上げて現れたのは、痩せた男たちだった。頬は落ち、皮膚の代わりに細かな古代文字が絡み合っている。背丈も服装も少しずつ違うのに、顔だけは同じだった。
水車小屋で見た祈祷師モルグの顔だ。
「六十三人兄弟にしては、親の手抜きがひどいな」
「兄弟ではない」
リゼが俺の前へ出て剣を抜いた。煤と焦げた革、それに獣化が強まったときの熱い毛皮の匂いが鼻を刺す。背中越しでも、肩の筋肉が硬く盛り上がるのが分かった。
「全部、同じものだ」
祈祷師たちが一斉に口を開いた。
「災いが来る」
六十三の喉が作る声は大きくなかった。なのに、わずかなずれを伴って聖堂中を這い、耳の奥で何度も繰り返された。
「もう来ているのら!」
ピピの指摘は正しい。ただし災いの人数が多すぎる。
先頭の一体が壁へ手を伸ばした。その指先から黒い文字が走り、開示された記録へ絡みつく。墨を落とした水のように、黒が青を内側から食っていった。
『汚染』
『焼損』
『未照合』
青い壁面の文字が、一行ずつ黒く染まり始めた。日付も、村の名も、受け取った金額も、読めなくなる寸前に身をよじるように揺らいでいる。
「証拠を消す気だ!」
衛兵が剣を振り下ろした。
刃は祈祷師の肩から胸まで抜けた。手応えの代わりに、乾いた紙を束で裂くような音がした。血は出ない。散った文字が床を這い、虫の群れのように集まって再び脚を組み上げる。
「剣が効かないぞ!」
「効かない相手に二度振るのは、写本局では熱意と呼ばれていました」
「騎士団では馬鹿と呼ぶ」
リゼの左手が銀色の爪へ変わった。指が伸びるたび、籠手の継ぎ目が悲鳴を上げる。本人の息にも獣の低い唸りが混じった。
彼女が横薙ぎに腕を振るう。風が頬を打ち、爪に裂かれた三体が文字の塊となって壁へ叩きつけられた。今度はすぐに戻らない。リゼの獣化も古代術式だ。文字でできた相手なら、触れられるらしい。
もっとも、三体止めても残りは六十体である。俺の得意な残数だったが、今日はまったく嬉しくない。
「ノエル、親文を探せ!」
「探している!」
祈祷師一体ずつに命令文がある。六十三体を六十三回書き換える案は、指を一本も曲げられない俺への嫌がらせとしてさえ質が低い。
俺は迫ってくる文字の流れへ目を凝らした。似た単語を拾い、並びを比べ、違いを捨てる。写本局で他人の誤字を探していた頃とやることは同じだ。あの頃は紙に噛みつかれる心配がなかっただけ、職場環境が優良だった。
同じ顔。同じ声。同じ帰還命令。
ならば、個々の身体は写しだ。
原文は別にある。
俺は祭壇を見た。ペトルが教会印を押し、青い炎を起動した祭壇。その内部には、さっき露出させた教会原板がある。青い火の向こうで、石蓋の縁がまだ熱を帯びていた。
「リゼ、祭壇まで運んでくれ」
「運ぶとは?」
「包帯付きの荷物としてだ」
返事の代わりに腰を抱えられた。十九歳の男として守るべき尊厳はあった気がするが、両手が使えない時点で尊厳は戦力にならない。後で拾えるなら拾おう。たぶん踏まれている。
リゼが俺を抱えたまま走る。
揺れる視界の端で、衛兵たちが壁の記録を背にして陣を組んだ。祈祷師たちが進路を塞ぐ。彼らの腕が肘からほどけ、縄のような文字列となって襲いかかる。リゼは剣で二本を払い、肩で一体を弾き飛ばした。
文字列が刃に触れるたび、青黒い火花と、焦げた羊皮紙に似た臭いが散った。
それでも一本が俺の首へ巻きついた。
『回収』
文字が喉を締める。冷たいのに、触れた皮膚だけが焼ける。息を吸おうとすると、単語そのものが喉の奥へ潜り込んでくるようだった。
「ノエル!」
ピピが体当たりし、文字列へ噛みついた。小さな身体が激しく明滅する。噛みつく場所があるのかという疑問は、この際ピピに任せる。
「これは、ピピと同じ文字を探しているのら!」
六十三の顔が、同時にピピを向いた。
首だけが一斉に動く音はしなかった。その無音が、骨の鳴る音よりよほど気味が悪い。
『分離片』
『署名へ返却』
嫌な文字は、読める速さで来る。昔からそうだ。良い知らせは判読不能の走り書きで届くくせに、処刑命令と借金の期限だけは達筆である。
「返却先は持ち主が決めるものだ!」
リゼの爪が首の文字を引き裂いた。圧迫が消え、俺は咳と一緒に空気を飲み込む。俺たちは祭壇へ滑り込み、開いた石蓋の前に転がった。背中へ石の角が食い込んだが、痛いと抗議する相手は石なので諦める。
「鉄筆を」
「手に持てないだろう」
「口はまだ局長に噛みつける程度には動く」
「それは健康の基準になるのか?」
「俺にとっては」
リゼが鉄筆を俺の歯の間へ差し込んだ。鉄と血の味が舌へ広がる。
祭壇の奥では、教会原板の文字が黒く脈打っていた。六十三体から伸びた細い線が、すべて一か所へ集まっている。複雑な枝を一本ずつ目でたどる。焦れば似た文字が重なり、意味が濁る。魔力の一滴もない俺に、力任せのやり直しはない。一語を外せば、それで終わりだ。
『回収後、巡回祈祷師は所持記録を抹消する』
これだ。
巡回祈祷師は、災いを予告するだけの人形ではない。自分が焼いた場所、祈祷を行った教会、受け取った金、命令した者。そのすべてを身体の文字に蓄えている。
村人たちが怯えた声も、治るはずの術式を壊された患者の痛みも、こいつらには記録でしかなかったのだろう。だが、記録だからこそ嘘をつけない。
だから教会は、証拠開示と同時に回収した。
記録ごと抹消するために。
リゼが背後で祈祷師を押し返す。銀の爪が石床を削り、火花が俺の頬をかすめた。荒い息と獣の唸りが近い。彼女の靴底が半歩ずつ祭壇へ押し戻されていた。
「長くは保たないぞ!」
「俺の歯もだ!」
鉄筆の先を原板へ触れさせる。
顎に力を込めた瞬間、両手の傷まで脈打った。包帯の内側が熱く濡れる。痛みというものは、呼んでもいないのに家族連れで来る。しかも長居する。
『抹消する』
その一語を削る。
消すことはできない。新しい命令を、同じ場所へ重ねる。鉄筆が石を噛むたび、振動が歯から頭蓋へ突き抜けた。一本目の線が歪みかける。息を止め、舌で柄を支え、古い文字の癖に沿わせる。
『提出する』
最後の線を引いた。
鉄筆が歯の間から落ち、石床で甲高い音を立てた。
六十三体が止まった。
一拍遅れて、全員の口から青い文字が噴き出した。
井戸の位置。焼損した日時。災いを予告した日。祈祷料の額。領内教会へ残した三割と、王都へ送った七割。教会上層から受け取った巡回命令と、補修されかけた術式を再び焼くための手順。
文字は奔流となって頭上を走った。青い光が衛兵たちの驚いた顔を照らし、柱を這い、梁を渡る。聖堂は祈りの場所から、巨大な告発状へ変わった。
六十三体、十五年分の記録が、聖堂の壁と柱と天井を埋めていく。
祈祷師たちは証拠を消さなかった。
命じられたとおり、すべて提出した。
ペトルが膝をついたまま首を振る。青い文字がその頬を流れ、言い逃れの一つ一つに印をつけているようだった。
「我々が作ったのではない……。上から与えられたのだ。災いを知らせる聖なる使者だと……」
「途中で、災いを作る道具だと気づいただろう」
「教会を維持するためだった!」
「同じ言葉を二度使っても、正しさは増えない」
「祈る場所がなくなれば、民はどうなる!」
「病人を増やして祈らせる場所なら、先になくなったほうが民のためだ」
声を荒らげる力は残っていなかった。だから、できるだけ静かに言った。弱っている者へ差し出す手と、その弱さを値札に変える手を、同じ祈りと呼ばせるわけにはいかない。
壁面に、命令を承認した教会上層の役職と教会印が並んだ。衛兵たちは記録を書き取り、入口を封鎖する。別の衛兵が連絡板を抱えて走り出した。靴音が青い光の下を遠ざかっていく。
逃げ道は、もう祈りでは開かない。
ほどなく、教会上層の執務区画を封鎖し、記録に印を残した者を拘束したとの返答が届いた。祈祷料は被害を受けた村と患者への返還資金として差し押さえられることになった。
金で失った時間や傷が戻るわけではない。それでも、奪った側の懐に残しておくよりは、ずっとましだ。
六十三体の身体から文字が抜け落ちる。
倒れる音すらなく、祈祷師たちは薄い文字片の山になった。モルグも、特別な一人ではなかった。災いを予告し、術式を壊し、客を教会へ運ぶために何度も写された残響だったのだ。
ピピが、その中から一文字を拾った。小さな指の上で、それは弱々しく青く瞬いた。
「ピピも、書かれて生まれたのら」
「ああ」
「でも、壊せとは言われてないのら」
「言われていても、従うかはおまえが決めろ」
ピピは一文字をじっと見つめた。やがて腕を下ろし、一文字を床へ戻した。
「なら、ピピはピピでいるのら」
それでいい。
誰かに書かれたからといって、誰かの命令文として生き続ける必要はない。
教会が災いを作り、祈りを売る仕組みは終わった。記録は開かれ、祈祷師は止まり、命令した者たちは裁きの席へ運ばれる。
今回くらいは、請求書を払い終えたと思った。
だが、床へ戻した文字片が動いた。
最初は、隙間風に押されたのかと思った。次の瞬間、六十三体の残骸すべてがかすかに震えた。
末尾の署名だけが剥がれ、祭壇へ集まっていく。教会原板を通り抜け、石床の下へ青い線を伸ばす。その線は聖堂を出て王都の大通りを走り、王宮へ向かった。
俺はその署名を知っている。
見間違えたかった。だが古代語を読むことだけが取り柄の男に、読めないふりをする逃げ道は用意されていない。
千年術式にも、建国禁書にも刻まれていた、すべての始まりの署名だった。
王都中の石畳に、同じ文字が浮かび上がる。
『巡回端末六十三体、応答消失』
『代行処理を終了』
『建国術式、全域再編を開始』
その下に現れた数字が、一つ減った。
『完了まで、六百』
(第99話へ続く)




