青い炎は証拠を吐く
王都の教会は、祈りより先に煙を吐いていた。
正面扉から信徒が雪崩れ出し、その向こうで青い炎が柱を舐めている。誰かが落とした祈祷札を、別の誰かが踏みつけた。泣き声と怒鳴り声、助けを求める声が高い天井に反響し、どれが誰のものかも分からない。
焦げた羊皮紙、溶けた蝋、香油。それに逃げる人々の汗が混じり、ありがたみのない臭いになっていた。金をかけた聖堂も、燃えれば台所の失敗より少しましな程度である。
「文書庫は奥だ」
リゼが俺を抱えるようにして人波を割る。革鎧からは走ってきた汗と、獣化しかけた毛の匂いがした。生きている相棒の匂いだ。今は香より信用できる。
胸元のピピが顔だけ出し、煙に目をしばたたかせてから、大きなくしゃみをした。
「へくちっ、のら! ただの火ではないのら。文字ばかり食べてるのら!」
よく見れば、その通りだった。
炎に包まれた祈祷証明書は、紙の形を保ったまま白くなっていく。焼け落ちるのではない。日付、金額、印影、人名だけが、青い舌に選り分けられて舐め取られている。炎は紙の端すら焦がさず、都合の悪い箇所だけを正確に食っていた。
「ずいぶん行儀のいい火だな」
「感心している場合か」
「嫌味を言わないと、怖くて帰りたくなる」
「帰るなら鎧の襟を離せ」
気づけば、包帯の両手ではなく歯でリゼの襟を噛んでいた。十九歳にもなって騎士に運ばれる荷物である。しかも壊れ物の札まで必要そうだ。俺の尊厳は扉の外で踏まれた祈祷札と仲良くしているだろう。
回廊の先で、鉄張りの箱が床を削っていた。
ペトル司祭が二人の助祭に箱を引かせている。煤で白い法衣を汚しながらも、胸には教会印のついた書類束を抱えていた。火から逃げる者の顔ではない。火が仕事を終えるまで見届ける者の顔だった。
「そちらへ近づくな!」
俺たちを見るなり、ペトルは叫んだ。
「解呪記録は私が保護する。火は写本局から燃え移ったものだ!」
「青い火が屋根の上を飛んだのなら、ぜひ報告書にしてくれ」
「貴様……!」
鉄箱の表面に文字が浮いていた。煤の下を青白い線が這い、命令文を形作っていく。
『解呪記録を受領する』
『証拠能力を除去する』
『処理後、文書庫を焼却する』
保護箱ではない。持ち運べる証拠処分具だ。名前だけ立派にして中身を逆にするあたり、教会の得意分野らしい。
「リゼ、箱を止めろ」
彼女が踏み込むより早く、ペトルが胸の教会印を箱へ叩きつけた。
床から青い文字列が噴き上がった。
『獣性ある者を拘束する』
文字が鎖に変わり、リゼの両脚へ巻きつく。彼女の身体が前へ傾いた。爪が石床をえぐり、耳障りな音を立てる。喉から低い唸りが漏れ、鎖の隙間から濃い獣毛が押し出された。
ペトルの顔が引きつった。
「神罰を負った獣が、聖堂へ入るな!」
リゼの肩が震えた。
怒りではない。
この言葉を、彼女は何度浴びてきたのだろう。呪いを受けた側が罪人にされ、治してほしければ金を払えと手を差し出される。そのたび彼女は剣を握り直し、騎士の顔を作ってきた。傷ついていないふりばかり上手くなるのは、強さとは呼ばない。
俺はその肩へ額を押しつけた。毛越しにも震えが伝わってくる。
「リゼ。鉄筆を」
「手が使えないだろう」
「口は減らずに残っている」
「それは毎日よく知っている」
返事にいつもの呆れが戻った。それで十分だった。
リゼが腰から鉄筆を抜き、俺の口元へ差し出した。
歯で柄を噛む。鉄と革、それから自分の血の味がした。
文字列は彼女の脚へ巻きついている。触れるには、俺も鎖の内側へ入らなければならない。
俺は膝をつき、青い文字へ顔を寄せた。熱が頬を焼き、目の表面が乾く。包帯の下で両手が脈打つように痛んだ。次に焼く場所まで身体が相談してくれなくていい。こちらは魔法の一つも撃てないのだ。痛みくらい順番を守ってほしい。
鉄筆の先を、『拘束する』へ触れさせる。
首だけで線を引く。真っ直ぐ書くどころか、自分の唾液を垂らさないだけで精いっぱいだった。写本係の試験なら落第だろう。受験者が床に這いつくばり、騎士の脚へ顔を寄せている時点で、試験官も採点を諦めて帰る。
それでも、一語を書き換えた。
『獣性ある者を解放する』
青い鎖が弾けた。
リゼの脚から離れた文字が、逆に彼女の背を押す。獣化した脚が石床を蹴り、ペトルとの距離を一息で消した。
「待――」
言い終える前に、リゼの掌がペトルの胸を押した。
司祭は鉄箱の蓋へ背中から落ちた。箱が閉まり、重い音が回廊に響く。助祭たちは綱を放して壁際へ逃げた。リゼはペトルの手から教会印を奪い、腕をひねって床へ伏せさせる。
「動くな。次は爪で押さえる」
低い声だった。
ペトルは動かなかった。脅しが的確だと、説得は短くて済む。
だが文書庫の炎は止まらない。
扉の内側で、棚から棚へ青い文字が走っている。記録を消す順番まで決められていた。祈祷料の台帳、災いの報告、巡回祈祷師への通達。罪に近いものから燃えている。火まで組織の都合を理解しているらしい。俺より出世しそうで腹が立つ。
「箱の印を使えば止められるか」
リゼが問う。
「止める命令がない。あるのは処理を完了させる命令だけだ」
「では書き換えろ」
「簡単に言うな。火は文書庫中を巡回している。触れても数秒で戻る」
目の前の文を変えるだけならできる。だが、枝先をいくら直しても、根から同じ命令が流れ込めば元に戻される。恒久修正には、命令の根へ触れなければならない。
俺は炎の流れを追った。
棚から奪われた文字は床の溝へ落ち、細い青光となって奥の祭壇へ集まっている。祭壇の脚に、教会印と同じ形の窪みがあった。
「リゼ。その印を窪みへ」
「罠かもしれない」
「教会の物はだいたいそうだ」
彼女が印を差し込む。
祭壇が左右へ割れ、石の擦れる音とともに、内側から一枚の原板がせり上がった。長く閉じ込められていた埃が舞う。青い炎がその表面を巡り、一行ずつ古代語を照らし出した。
『監査または審理が開始された場合』
『未照合の解呪記録を焼却する』
『受領済みの祈祷料を寄進として確定する』
最初から、調べられたときのために用意された術式だった。
ペトル一人が今夜思いついたものではない。欠落部の周囲には、十五年前より古い補修痕が幾重にも重なっている。違う筆跡、違う深さで同じ命令がなぞられていた。司祭が替わっても、罪を受け渡すために、同じ火を使えるよう残されてきたのだ。
「ノエル、どれを変える」
一語だけだ。
焼却を停止に変えても、消された記録は戻らない。寄進を返金にしても、誰から奪った金なのかが消えれば返しようがない。正しい言葉を選ぶ余地は、いつだって悪事を仕組んだ側より狭い。
だから、消す命令そのものを裏返す。
「原板を押さえてくれ」
リゼが片膝をつき、熱を帯びた石板を両腕で固定した。獣毛の先が熱に縮れ、焦げた匂いがする。俺は彼女の肩を借りて身体を起こす。
「ピピ、文字の流れを教えろ」
「右から戻ってくるのら! 三つ数えたら、また通るのら!」
俺は鉄筆を噛み直した。顎が震える。失敗すれば記録が消えるだけではない。消されたという事実まで、きれいに白くなる。
一つ。
二つ。
三つ。
青い炎が原板の中央へ戻る。
俺は首を振り、鉄筆を押し込んだ。
『焼却する』を――『開示する』へ。
最後の線を書いた瞬間、炎が口元まで跳ねた。視界が青く染まる。リゼが俺の襟をつかみ、後ろへ引き倒した。
青い火が文書庫から噴き出した。
だが、もう紙を食わなかった。
奪っていた文字を吐き出した。
日付、金額、印影、人名。無数の文字が火の粉となって聖堂を飛び、柱と壁と天井へ貼りついていく。白くされた帳面にも、消えた記録が青い光で戻った。祈りの言葉よりも、ずっと鮮明に読めた。
『井戸の自然修復を確認』
『祈祷需要維持のため欠落部を再焼損』
『災いの予告後、解呪祈祷を実施』
『祈祷料の三割を領内教会へ、七割を王都教会上層へ送付』
一行ごとに、ペトルの顔から色が消えた。
外から戻ってきた衛兵たちも、剣を抜くことさえ忘れて壁を見上げている。隠すには聖堂そのものを壊すしかない量だった。さすがの教会も、今夜中に天井まで持ち逃げはできない。
「これは教会を保つためだった!」
ペトルが床へ頬を押しつけたまま叫んだ。
「病人を受け入れ、貧民へ粥を配り、死者を弔うには金が要る! 人は災いがなければ祈らない!」
「だから災いを作ったのか」
「必要だったのだ!」
俺は壁に戻った名を見た。
井戸の水を飲めなくなった村。眠る石碑のそばで十五年待った家族。獣と呼ばれたリゼ。一行に縮められた痛みの向こうには、それを毎日生きた人間がいる。
必要という言葉は便利だ。痛むのが自分でないときほど、よく切れる。切った側の手は汚れず、傷つけられた側だけが理由を説明させられる。
「弱い人間を支えるために、別の弱い人間を壊した」
俺はペトルへ言った。
「それは救いじゃない。客を作っていただけだ」
衛兵がペトルの両腕を縛った。助祭たちは抵抗せず、教会印と鍵束を差し出した。目を伏せたまま、青く光る壁だけは見ないようにしていた。
文書庫の青い炎は消えた。
記録は残った。ペトルの逃走も、証拠の焼却も止めた。少なくとも今夜、誰かの苦しみが白紙に戻されることはない。
それで終わってくれれば、俺の顎の痛みも少しは報われたのだが、世の中はだいたい請求書を最後に出してくる。
ピピが天井を見上げ、身体を作る文字をざわつかせた。直後、急にくしゃみを連発する。
「へくちっ、へくちっ、へくちっ、のら!」
開示された記録の最後に、新しい一行が浮かんでいた。
『証拠開示時、巡回祈祷師を王都教会地下へ回収する』
続いて、帰還数が刻まれる。
『六十三体』
足元で、石床を引っかく音がした。
一つではない。
聖堂の地下から六十三の声が重なった。
「災いが来る」
(第98話へ続く)




