敗北の記録
オズワルド・ケインは、被告席に立っても背筋だけは王立写本局長だった。
鎖につながれ、濃紺の外套も銀の徽章も取り上げられているのに、顎の角度だけで部下を三人ほど叱れそうである。長年の役職というものは恐ろしい。俺など長年魔力ゼロだが、威厳の一つも身につかなかった。身についたのは、役所の廊下で邪魔にならない歩き方くらいだ。
石造りの審理室には、紙と蝋と消毒薬の匂いがこもっていた。傍聴席を埋めるのは、救出された者、その家族、写本局の官吏たちだ。咳払いすら遠慮するような沈黙の中で、鎖の擦れる音だけが妙に大きく響く。
彼の目が、証拠台の拘束椅子から俺へ移る。
「ノエル・アルクム」
「はい。追放された元写本係です」
「ここはおまえのような者が立つ場所ではない」
「それは同感です。両手が動かない患者は、普通なら治療所に立っています」
リゼが俺の肩を強く支えた。革手袋越しの指が食い込む。冗談で誤魔化したつもりだったが、膝が笑っていたらしい。身体のほうは俺より正直で困る。
「無理なら座れ」
彼女が声を落とす。獣化の呪いが残す獣毛と、汗と、鉄の匂いが近かった。生きて隣に立っている者の匂いだ。
「証人が被告より先に倒れるのは、見栄えが悪い」
「見栄えで立てるなら、最初から心配していない」
正論はたいてい痛い。肩も痛いので二重に効いた。
中央の審理官が木槌を打った。
「被告人。原文焼却、臨時追記、アデル・アルクム拘束令状の発行。この三件について答えよ」
「答える前に、証拠能力を争う」
オズワルドは即座に言った。声に迷いはない。局内会議で不都合な報告を切り捨てていた頃と同じ速さだった。
「その男は術式を書き換える。証拠台から出た文字も、ノエルが都合よく改変した可能性がある」
審理室にざわめきが走った。傍聴人の視線が一斉に俺へ刺さる。英雄を見る目ではない。証拠に細工できる、得体の知れない人間を見る目だ。
腹は立たなかった。むしろ、そこを疑わない審理なら困る。俺が嫌いだからこそ、オズワルドは正しい穴を見つける。元上司として褒めるには、人を椅子に縛りすぎているが。
「疑いは妥当です」
俺が言うと、リゼが横目で見た。肩を支える力が一瞬だけ増す。自分から疑われに行くな、と目が言っていた。
「俺が書き換えられるのは、既存の術式の一語だけです。しかも文字に直接触れなければならない。俺が変更したのは、制度原文の『執行する』を『禁止する』へ。それ以外には触れていません」
「自分で言うだけなら、何とでも書ける」
「俺はいま、何も書けませんよ」
包帯に巻かれた両手を上げる。腕を持ち上げただけで、指先から肘まで鈍い熱が走った。指は一本も曲がらない。証拠を捏造するには歯を使うしかないが、残念ながら俺の歯に官印を彫る技術はなかった。
「それに、俺の能力は便利そうに見えて、融通が利きません。白紙から文章を作ることも、日付や印影を生やすこともできない。一語で済まない不正には、普通の官吏より役に立たないんです」
「胸を張って言うな」
リゼの小声が飛んだ。
「役に立たなさなら実績があります」
審理官が証拠台の石板を調べさせた。
鑑定官が薄い水晶板を重ねると、制度原文の刻線を青白い光が走った。古い石と焼けた油の匂いが立ち、消された文字、重ねられた文字、刻まれた時期が層になって浮かぶ。
制度原文に残る校正痕は一箇所。書き換え前後の語も青い光で開示された。その下には、俺が触れるより十五年前の日付で焼きつけられた三つの記録がある。俺が四歳だった頃だ。四歳児に十五年後の証拠を仕込む知恵があったなら、もう少しましな人生設計をしている。
令状の押印と、オズワルドが首から下げたまま試し押しさせられた局長印の押影が照合された。
同じ欠け。同じ歪み。同じ、右端の細い傷。
鑑定官は角度を変えて三度確かめた。誰も急かさなかった。ここで必要なのは早さではなく、あとから誰にも消せない確かさだった。
「印影は一致」
審理官の一人が告げる。
治療師が百十二枚の名札を机へ並べた。木札、金属札、布を固めただけの札。持ち主の暮らしと同じように、形も傷み方もばらばらだった。消えた赤印の下には、令状番号の圧痕が残っていた。すべて、オズワルドの印が押された記録とつながっている。
机に並べられる乾いた音が、一人分ずつ審理室へ落ちた。
百十二という数字は短い。口にすれば一息で済む。だが札を一枚ずつ見れば、その一枚ごとに顔があり、痛みがあり、帰れなかった夜がある。
最後に、アデルが証言台へ進んだ。
祖父の右腕は厚い布で固定されていた。歩くたび、古びた靴底が石床を擦る。立っていることさえ楽ではないはずなのに、俺よりよほど姿勢がいい。アルクム家の威厳は、一代飛ばしで伝わるらしい。
「私は第一対象として拘束され、永久補筆に用いられた」
「自ら志願したのではないか」
オズワルドが遮った。
「孫を守るために署名したはずだ」
「選ばされたものを、志願とは呼ばん」
祖父の声は静かだった。怒鳴らないからこそ、一語ごとの重みが逃げない。
「おまえは、四歳の子供を第二対象に指定した令状を見せた。私が拒めば、ノエルを連れていくと告げた」
傍聴席のどこかで息を呑む音がした。
俺自身には、その日の記憶がほとんどない。祖父が帰らず、冷えた夕食の前で待っていたことだけを覚えている。子供は理由を知らなくても、自分が捨てられたのではないかと考える。大人の罪は、ときどき説明のない空席として残る。
「国を維持するには、どちらかが必要だった」
「ならば、なぜ令状の原本を地下へ伏せ、複製盤から写した」
オズワルドの返事が止まった。
祖父は続けた。
「正しい命令だったと信じるなら、残せばよかった。おまえは隠した。子供を脅しに使ったと知っていたからだ」
沈黙は、どんな自白より重かった。紙をめくる音さえ消えた。オズワルドの喉だけが一度動いた。
彼は被告席の縁をつかんだ。白くなった指の下で木が軋み、鎖が鳴る。
「おまえたちは結果だけを見ている。建国原文には補筆が必要だった。誰かが欠落を埋めなければ、王都が、国が壊れる。私は局長として必要な判断をした」
「百十二人から選んで?」
俺は名札を見た。
鉱夫、洗濯女、孤児、病人。指に土が染みた者。冷水で皮膚が割れた者。後ろ盾も、役所に抗議する暇もない者ほど、赤い印を押されていた。
「なぜ、局長や審理官や貴族の名は候補にないんです」
「適性がなかった」
「都合のいい適性ですね」
「国を支える者と、支えられる者には役割がある」
その言葉に、名札の持ち主たちが息を呑んだ。リゼの喉奥から低い唸りが漏れかける。俺は動かない手で彼女を止められないので、肩を寄せて合図した。
俺も怒鳴りそうになって、やめた。怒りは俺のものだが、この審理は奪われた人たちのものだ。元上司を言い負かして気持ちよくなるための席ではない。声を荒らげれば、百十二人の痛みまで俺の見せ場にしてしまう。
「支えられていたのは国じゃない」
俺は言った。
「間違った制度と、それを正しいことにしたかったあなたです」
「魔力もない写本係に何がわかる」
懐かしい言葉だった。写本局では、俺の名前より頻繁に呼ばれていた気さえする。
「弱い側へ回された経験なら、少し」
追放状を渡された日のことを思い出す。
あの日、オズワルドは俺の名を見なかった。魔力ゼロという欄だけを見て、役に立たないと決めた。薄い紙一枚で机も給金も居場所も消えた。だから俺は、彼に同じことをしたくなかった。
「俺は、あなたを代わりの筆にしろとは言いません」
オズワルドの眉が動く。
「空いた椅子へ罪人を座らせたら、制度は終わらない。犠牲にしていい人間の条件が変わるだけです。あなたには人間として裁かれ、人間として責任を負ってもらう」
審理官が木槌を二度打った。
証言が記録され、石板の開示文と局長印の押影、百十二枚の名札、アデルの拘束痕が順に証拠として受理された。記録官の筆が紙を引っかく音を立てる。今日ここで語られたことが、今度こそ焼かれずに残る音だった。
オズワルドはなおも抗弁した。
「教会も承認していた。焼損した術式を神罰として処理し、混乱を抑えるためだ。私一人の判断ではない」
「誰の承認だ」
「領都から届いたペトル司祭の報告と、教会上層の通達だ」
審理官が記録係を見る。
記録係は保管目録を確かめ、首を横に振った。
「その通達は、写本局の保管目録にありません」
「教会が原本を保管している。解呪記録と一緒にな」
審理室の空気が変わった。椅子が軋み、何人かが顔を見合わせる。俺の足元では、袖に隠れていたピピの文字が小さく震えた。
「まだ燃えていないといいのら」
不吉な予感というものは、口に出すと律儀に働く。できればピピには、もう少し怠け者でいてほしかった。
だが審理官は、次の罪へ話を逃がさなかった。
「教会の関与は別途審理する。承認があったとしても、被告人が令状を発行し、原文を焼き、記録を隠した事実は変わらない」
もっともだった。共犯者がいることは、本人が無実になる呪文ではない。俺には呪文を撃てないが、それくらいはわかる。
審理官たちが短く協議する。
その時間は数分だったはずなのに、包帯の中で脈打つ痛みを数えていると、ひどく長く感じた。傍聴席からすすり泣きが聞こえる。救われると決まったわけではない。失った年月も、傷ついた身体も戻らない。それでも、待たされ続けた人たちは判決を待っていた。
やがて中央の審理官が立ち、判決文を開いた。
「オズワルド・ケイン。原文の故意焼却、不当な拘束令状の発行、官吏記録の隠匿、百十二名に対する違法な徴収準備。すべて有罪と認定する」
木槌が落ちた。
「王立写本局長の職を剥奪。官位および退任後の特権を失わせ、終身禁錮とする。私財は被害者の治療と生活補償へ充てる。また、本件の記録は封印せず公開し、被告人が発行したすべての徴収令状を再審査する」
オズワルドの首から、局長印の鎖が外された。
金具が触れ合う、あまりに小さな音だった。
俺を追放したとき、机の向こうにいた男は巨大に見えた。写本局そのものが外套を着ているようだった。ひと言で人の価値を決め、紙一枚で人生を外へ放り出せる存在だった。
だが役職を外されれば、そこにいたのは頬のこけた、老いた一人の男だった。
かわいそうだとは思わない。
それでも、怪物だったことにして終わらせてもいけない。怪物なら、自分とは違うものとして忘れられる。人間が選び、人間が命じ、人間が隠した。だから記録しなければならない。次の人間が、善意や必要という言葉を材料に、同じ椅子を作らないために。
衛兵がオズワルドを立たせた。
彼は連れていかれる直前、俺に言った。
「おまえは勝ったつもりか」
「いいえ」
俺は百十二枚の名札を見た。名札の前で抱き合う者も、泣けずに立ち尽くす者もいる。祖父の固定された右腕は、判決が出ても動かない。
「ようやく負けを記録できただけです」
鉄扉が閉じた。
その瞬間、外で警鐘が鳴った。
一度ではない。火災を告げる短い鐘が、立て続けに審理室を揺らす。張り詰めていた空気が砕け、全員が高窓を振り返った。
衛兵が扉を押し開け、息を切らして駆け込んだ。煤のついた顔から血の気が引いている。
「教会の文書庫から青い火が上がっています! 解呪記録を運び出したのはペトル司祭です!」
高窓の向こうで、青い煙が王都の屋根を越えた。昼の光を汚すように、不自然な色が空へ伸びている。
「言ったそばから燃えたのら!」
「次から縁起でもないことは胸の中にしまってくれ」
俺は床に落ちていた鉄筆を爪先で跳ね上げ、リゼに受け取らせた。彼女は片手でつかみ、もう片方の腕を俺の脇へ差し入れる。
「走れるか」
「足は包帯じゃない」
「膝はさっきから笑っているぞ」
「教会まで笑わせておけ」
包帯の両手を胸に抱えたまま、俺たちは教会へ走り出した。
(第97話へ続く)




