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追放された魔力ゼロの写本係、実は世界で唯一「呪文の意味」がわかる男 ~呪いは解かずに書き換えろ~  作者: ろくさんだ


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空席に人を座らせるな

 四歳児用の拘束椅子は、四歳児よりはるかに重かった。


 人を縛る道具というものは、逃げる側の都合だけはよく考えて作られている。鉄の脚、床へ食い込む爪、背から伸びた管。どれも頑丈で、運ぶ側への思いやりは一片もない。


 車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、椅子が荷台で跳ね、錆と古い薬品の臭いを振りまいた。十五年分の悲鳴まで染みついているようで、鼻より先に胃が嫌がる。


「もう少し軽い証拠はなかったのか」


 縄を肩へ回したリゼが言った。革帯と獣脂、それに汗の混じった匂いが風に流れる。ほとんど一人で荷車を引いているのだから当然だ。


「十五年前の俺でもよかったんだが、保管に失敗したらしい」


「冗談が悪い」


「両手を焼いた男に面白さまで求めるな」


 俺の左右の手は、治療師に巻かれた布で二回りほど太くなっていた。指は曲げられない。心臓が脈打つたび、包帯の内側へ熱い針を押し込まれる。おかげで、俺が役に立つ場面は荷車の上から進行方向を指示するときくらいだ。


 もっとも、指示に使える指もないので、顎で示した。


「右だ」


「さっきも右と言ったのら」


 荷車の縁で、ピピが口の周りを黒く染めていた。約束どおりインク瓶を渡した結果である。腹のあたりを形作る文字まで、いつもより黒々としている。


「王都の道が曲がっているのが悪い」


「三本目はピピの瓶を売る店だったのら」


「必要経費だ」


「二本買ったのら」


「必要が二倍あった」


 俺の財布は予定どおり殉職した。


 王立写本局の正門へ着いたころには、拘束椅子の鉄脚が石畳へ二本の傷を残していた。後ろには治療所から歩ける者たちが続いている。足を引きずる者。片腕を胸元で抱く者。灰色の患者衣の襟を、外気に怯えるように握る者。


 歩けない者の名札は、治療師たちが預かっていた。


 百十二人全員を連れてくる必要はない。


 だが、制度の話をする席から、制度に使われた人間だけを外す気もなかった。数字にしてしまえば、百十二は紙の上で三文字に収まる。名札なら百十二枚分の重さがある。


 門番が椅子を見て槍を交差させる。


「危険物の持ち込みは禁止されている」


「よかった。危険なのは認めるんだな」


「そういう意味ではない」


「十五年間、子供を縛って人間を筆に変える道具だった。これより危険な備品が中にあるなら、先に教えてくれ」


 門番の視線が、椅子の小さな手枷で止まった。


 大人の手首なら入らない。何を縛るための寸法かは、説明書がなくても分かる。


 彼は一度、正門脇の詰め所を見た。上役を呼べば、自分で決めずに済む。だが、やがて槍を下ろした。


「通れ」


 弱い立場の者ほど、規則に従うしかない。だからこそ、その一言には逆らう重さがあった。


「記録に名を残していいか」


「職務中だ。好きにしろ」


「ありがとう」


 門番は返事をしなかった。ただ、患者たちが通り終えるまで槍を上げたままでいた。


 俺たちは拘束椅子を審理室へ引きずり込んだ。


 半円形の机に審理官たちが並ぶ。磨かれた木材、上等な紙、乾きかけた封蝋の甘い臭い。中央の証拠台へ椅子を載せると、鉄が石を噛む音に続いて、ざわめきが起きた。


 机の向こうにいる連中のうち、あれが何のための道具か知っていた者は半分。実物を見たことがある者は、一人もいなかった。


 制度というものは便利だ。


 手を汚す道具を地下へ置けば、地上の人間は清潔な顔で署名できる。血が書類まで上がってこない限り、インクと区別する必要もない。


「審理の申請書が提出されていない」


 端の審理官が言った。


「手が使えない」


「代理人に書かせればよい」


「四歳児の同意を勝手に代理した連中の前で、代理という言葉を気軽に使わないほうがいい」


 室内が静まる。誰かの羽根筆から、インクが一滴だけ机へ落ちた。


 リゼが証拠台へ三冊の記録簿を置いた。治療所の患者名簿、永久補筆の候補者名簿、十五年前の令状控えだ。最後の一冊だけ、表紙の角が子供の歯形のように潰れていた。


「本日の要求は一つだ」


 俺は椅子の背から垂れた管を示した。


「永久補筆の空席を理由に、人間を代替筆として徴収する仕組みを止める」


「すでに原文への通常反映処理は修正されたはずだ」


「返却文書の差異を原文へ『採用』する処理は、『記録』へ直した。だが十五年前の臨時追記には、それとは別の入口が残っていた」


 俺は椅子の座面を蹴った。


 小さな拘束輪が、からん、と鳴る。


「空席が出た場合、記録された候補を令状で徴収する。通常処理を止めても、緊急処理を名乗れば人を奪える。役所は扉を閉める前に、必ず裏口を作るらしい」


「古代術式の根幹を、審理室で変更できるのか」


「できるように、この部屋が作られている」


 俺が椅子の管を床のくぼみへ差し込むよう頼むと、リゼが片手で押し込んだ。石と金属がこすれ、腹の底へ響く音がした。


 床下で石の輪が回った。


 証拠台から青白い線が伸び、審理官たちの机を囲む。壁の漆喰が乾いた皮のように剥がれ、その下から古代語が現れた。冷たい光を浴びた審理官たちの顔は、全員まとめて病人のように青い。


『永久補筆制度に対する異議を受理』


『証拠器具を制度原文へ接続』


 審理室は、制度を守るための部屋ではなかった。


 本来は、誤った制度を直すための部屋だったのだ。


 ただし、そこに書かれた言葉を読める者がいなくなってからは、立派な机を並べて現代語の書類を増やす部屋になった。読めない規則ほど権威がある。俺の元職場らしい進歩である。


 古代語が十五年前の臨時追記を壁へ映した。


『永久補筆に空席が生じた場合』


『登録候補より同質文字を選定』


『令状をもって代替筆の徴収を執行する』


 最後の一文だけ、周囲が黒く焼けていた。焦げ跡は古いのに、近づくと灰の臭いが鼻の奥へよみがえる。包帯の下の両手が、それに合わせたように疼いた。


「また焼損か」


 リゼの声が低くなる。


「ああ。元の文を焼いて、後から命令を差し込んでいる」


 自然に欠けたのではない。誰かが恒久校正の場所を知ったうえで壊したのだ。


 焼けた継ぎ目へ書けば、修正は親文へ定着する。


 問題は、俺の手が飾り以下だということだった。飾りなら少なくとも見栄えはする。今の俺の手は、包帯を浪費する置物でしかない。


「ピピ」


「インクは渡さないのら」


「一滴でいい」


「瓶ごと舐めていいと言ったのら」


「使うのは飲み残しだ」


「残してないのら」


 誇らしげに言うことではない。


 ピピは渋々、自分の尻尾についたインクを鉄筆の先へこすりつけた。文字でできた尻尾が二文字ほど薄くなり、本人は重大な献身をした顔になる。


 リゼが鉄筆を俺の口へ差し込む。


「歯を折るなよ」


「注文が多い」


「腕を二本焼いた男に、これ以上の部品を失われると困る」


 鉄の味とインクの苦みが舌へ広がった。俺は鉄筆を噛み、壁へ顔を寄せた。


 審理官の一人が立ち上がる。


「待て。制度を止めれば、建国原文に欠落が生じた際、誰が補う」


 俺は鉄筆を口から離した。


「人間以外を探せ」


「見つからなければ国が損なわれる」


「だから子供を椅子へ縛るのか」


「多数を守るための必要な犠牲だ」


 背後で、名札を握る治療師の手が震えた。紙の角が擦れ合う音が、妙に大きく聞こえる。


 俺は審理官を見た。


「必要だと言う者が、必要とされる側へ座ったためしはない」


 椅子の手枷が、わずかに開いている。その隙間へ、幼い手首が何本押し込まれたのか。数えたところで、どの一人も軽くはならない。


「国を直すために人がいるんじゃない。人が生きるために国がある。順番くらい、写し間違えるな」


 今度こそ、鉄筆を焼け跡へ押し当てた。


 口で字を書くのは難しい。線は震え、歯の根から顎の奥まで痛みが響く。息をするたび筆先がずれそうになり、首の筋が悲鳴を上げた。


 それでも、新しい術式を作る必要はない。そもそも俺には、そんな大層なことはできない。


 すでにある命令の、一語だけを変える。


 『執行する』を、『禁止する』へ。


 最後の線を書き切った瞬間、椅子の管が大きく脈打った。


 青い光が床下へ走る。石床の継ぎ目を駆け、壁へ登り、焼けた文字を内側から洗った。


『臨時追記を校正』


『令状による代替筆の徴収を禁止する』


『永久補筆の空席は、人間によって充当されない』


 一つ。


 二つ。


 俺は息を止めたまま数えた。術式は、ときに書き換えを異物として吐き戻す。


 八つ。


 文字は戻らなかった。


 拘束椅子の手枷が左右へ落ちた。足輪が外れ、背から伸びた管も根元から抜ける。一つ外れるたび、短い鉄音が審理室へ響いた。


 人を待つ形だった椅子が、ただの小さな鉄の椅子になった。


 壁には、最後の一行が残った。


『代替筆制度を停止』


 治療師が抱えていた百十二枚の名札から、一斉に赤い印が消えた。紙の上を走った淡い光が、長年こびりついていた血判だけを拭い去っていく。


 歓声は上がらなかった。


 代わりに、誰かが泣き始めた。押し殺した声が一つずつ増えた。助かったと理解するには、奪われる側でいた時間が長すぎたのだ。


 俺は振り返らなかった。こういう涙を見物する権利まで、助けた側に付いてくるわけではない。


 リゼが俺の肩を支える。その掌は熱く、革手袋越しでも震えが伝わった。


「終わったな」


「ああ。もう空席に人を座らせることはできない」


 俺は鉄筆を吐き出した。顎まで役立たずになる前に、治療所へ戻ったほうがよさそうだ。


 だが、証拠台の下で別の音がした。


 拘束椅子から細い石板が押し出される。制度原文へ接続したことで、臨時追記の作成記録まで開示されたらしい。


 泣き声が止まり、青い文字が、審理室の正面へ大きく浮かんだ。


『原文焼却命令者』


『臨時追記者』


『第一対象アデル・アルクム拘束令状発行者』


 三つの欄すべてに、同じ名が刻まれていた。


『王立写本局長 オズワルド・ケイン』


 中央の審理官が木槌を打つ。


「記録を証拠として受理する。被告人を入廷させろ」


 審理室の鉄扉が開いた。


 両腕に鎖を掛けられたオズワルド・ケインが、衛兵に押されて被告席へ入ってきた。


(第96話へ続く)

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