返した人を、もう一度奪うな
残り五十九。
床の数字が一つ減ると、拘束椅子の背後で石壁が割れた。
現れた斜坑を、黒い文字が上から下へ流れてくる。人を寝台へ運ぶには速すぎ、荷物を投棄するには丁寧すぎる速度だった。
『第一対象を永久補筆室へ再搬送する』
流れの先は、俺たちが立つ準備室だ。
つまり逆へ進めば、祖父に会える。
「上だ」
リゼが獣化した爪を斜坑の壁へ突き立てた。銀毛には血と汗が染み、鉄に似た臭いがする。傷だらけなのに、俺より先に身体を持ち上げた。
「背へ乗れ」
「歩ける」
「両手を焼いた人間の台詞ではない」
「脚は無事だ」
「穴へ飛び込んだ人間の判断も信用していない」
反論する間に襟をくわえられ、背へ放り上げられた。
騎士に運ばれる救出者というのは、英雄譚ならもう少し見栄えがいいはずだ。現実の俺は腹を銀毛へ押しつけ、落ちないよう両脚でしがみついている。荷袋との差は、文句を言うかどうかくらいしかない。
「ピピ、前を照らせ!」
「インク特盛りのために働くのら!」
「動機が財布に厳しい!」
ピピが青白く光り、斜坑の奥へ飛んだ。
リゼが駆け上がる。爪が石を砕くたび、濡れた獣毛と血の臭いが鼻へ届いた。上から流れてくる文字が鎧へぶつかり、黒い帯になって脚へ絡みつく。
『返却を取消す』
『再徴収する』
『空席を補う』
どれも人間を数えていない。
数えているのは、空いた椅子と、足りない筆だけだ。
残り四十八。
斜坑が激しく揺れた。黒い流れが太くなり、リゼの爪が壁から抜ける。身体が一歩ぶん滑り落ちた。
俺は焼けた左腕を壁へ押しつけた。痛みが肩まで走り、指がまともに曲がらない。
「無茶をするな!」
「一緒に落ちる準備をしたのは誰だ」
「落ちる準備ではなく、おまえを拾う準備だ!」
「先に説明してくれ!」
「言ったら止めるだろう!」
さっき俺が使った理屈を、そのまま返された。自分の言葉というものは、敵より容赦がない。
リゼが踏み直す。俺も靴底を斜坑へ押しつけた。二人ぶんの体重を爪だけで支え、また上へ進む。
「いたのら!」
ピピの声が響いた。
残り三十九。
斜坑の曲がり角から、白いものが突き出ている。
骨の筆だった。
石の継ぎ目へ筆先を差し込み、流れに抗っている。その奥で、痩せた身体が黒い文字に巻かれていた。祖父は足から下へ引かれながら、残った左手でも壁の出っ張りを掴んでいる。
「遅いぞ、ノエル」
乾いた声がした。
「残り六十で呼びつけるほうが悪い」
「わしが呼んだのではない」
「なら帰ったら、呼び出し方から教える」
祖父の左手が滑った。
リゼが跳ぶ。黒い流れの中へ片腕を突っ込み、祖父の外套を掴んだ。衝撃で肩の傷が開き、銀毛へ新しい血が広がる。それでも爪は布だけを捉え、皮膚には触れなかった。
「アデル殿、離すな!」
「そちらこそな」
「二人とも俺を挟んで頑固さを競うな!」
俺はリゼの背から這い出し、祖父の左腕を抱えた。
冷たい。
治療所の寝台でようやく戻り始めていた体温が、もう奪われかけている。骨の右腕からは黒い墨がにじみ、斜坑の文字へ吸われていた。
『初代筆、再接続』
『補筆機能を確認』
祖父を人として返した記録より、骨の筆が残っているという事実を優先している。
古代術式は外見で役割を決めるらしい。ずいぶん浅い。俺の格好を見れば、写本係ではなく路地裏で負けた酔っ払いと判定されるだろう。
「どの文を直す」
リゼが歯を食いしばって尋ねた。
「今見ている」
「残り三十一なのら!」
「それも見えている!」
黒い文字は祖父の骨の腕を通り、胸へ向かっている。ここで『再接続』を『切断』へ変えても、巡回する文なら八つ数える間に戻る。
変えるべきは実行文ではない。
なぜ、返した人間をもう一度徴収できるのか。
流れを遡って読む。
『永久補筆の空席を確認』
『第二対象は使用不能』
『代用文字は保護対象』
そこまでは、さっき直したとおりだ。
その下に、焼けた縁を持つ古い追記がある。十五年前、代用命令と一緒に後から押し込まれた文だ。
『空席が残る場合、第一対象の返却を取消す』
これだ。
返却後の本人が何を選んだかも、受諾が有効だったかも確かめず、空席だけを理由に取り戻す。
祖父はすでに、自分の口で停止と返却を選んだ。
写本局地下の証言記録では、永久補筆への受諾そのものが強要により無効と裁定されている。
記録はある。
この文だけが、読んでいない。
「じいさん。右腕を少し上げられるか」
「筆として使う気か」
「手を借りるだけだ」
「同じことを前にも言ったな」
「あのとき返してもらった。今度は返すために借りる」
祖父は一度だけうなずいた。
骨の右腕がわずかに持ち上がる。命令文が表面へ露出した。
俺は鉄筆を握ろうとした。
右の指は動かない。左も熱と痛みで震え、筆が骨の上を滑った。
残り二十。
「貸すのら!」
ピピが鉄筆へ飛びついた。小さな身体から一滴だけ青いインクを絞り、筆先へ垂らす。
「それはおまえの身体だろ」
「インク瓶をもらえば太って戻るのら!」
「瓶ごとやる。だから一滴以上出すな」
「特大瓶なのら!」
「今決めるな!」
俺は鉄筆を両手で挟んだ。握れないなら、手のひらと手のひらで支えればいい。立派な筆の持ち方ではないが、追放された写本係に今さら品評会の予定はない。
リゼが背後から俺たち三人を抱え込む。獣化した爪を左右の壁へ突き立て、黒い流れの中で身体を固定した。
「書け、ノエル!」
残り十二。
青い筆先を追記へ押しつける。
『取消す』
古代語では、記録を囲う線を内側へ折り潰した形だ。
折れた線を外へ開く。
潰していた一点を、向かい合う二つの印へ分ける。
『取消す』を――『照合する』へ。
『空席が残る場合、第一対象の返却を照合する』
残り七。
黒い文字が激しく波打った。俺の指から鉄筆が弾かれ、ピピごと流されかける。リゼの尾が二人まとめて腰へ巻きついた。
「そこは言わないでくれ」
「何も言っていない!」
追記が親文へ沈む。
『返却記録を照合』
『初代筆の停止――本人が選択』
『親族への返却――完了』
『永久補筆への受諾――強要により無効』
数字が三で止まった。
『第一対象の資格――消失』
『再徴収の根拠――なし』
『再徴収を終了する』
祖父を縛っていた文字がほどけた。
黒い帯は一本ずつ墨へ戻り、斜坑の溝へ吸い込まれていく。骨の腕から胸へ伸びていた線も消えた。俺は祖父の身体を抱え直した。軽すぎて、助かったという実感より先に怖さが来る。
八つ数えた。
文字は戻らなかった。
追記そのものへ書いた一語が、焼けた欠落へ定着している。
「終わったのら?」
「ああ。今度こそ、じいさんの返却は取り消せない」
祖父が長く息を吐いた。
「また、おまえに助けられたな」
「違う。今回は待っただろ」
祖父の骨の筆は、まだ石の継ぎ目へ刺さっていた。折れば流れから逃れられたかもしれない。だが祖父は腕を捨てず、俺たちが来るまで耐えた。
十五年前のように、一人で全部を差し出さなかった。
「相談する前に死なれると困る」
「おまえが来るまで待つのも、なかなか骨が折れる」
「右腕で言うと洒落にならない」
祖父が小さく笑った。
斜坑の流れが反転する。今度は『地上へ返す』という青い文字が足場になり、俺たちをゆっくり押し上げた。
治療所の床が開く。
薬草と血、それに大勢の人間の汗の臭いが降りてきた。治療師たちが縄を垂らし、患者たちまで寝台から身を乗り出している。百十二人ぶんの声が重なり、祖父の名を呼んだ。
リゼが先に祖父を押し上げる。
何本もの手が、その軽い身体を受け止めた。
今度の返却先は、台座でも王でもない。
人の手だった。
俺も引き上げられ、床へ仰向けに転がった。治療師が左右の腕を見て顔をしかめる。俺より先に俺の手の将来を悲観するのはやめてほしい。
「そのまま動くな」
「一つだけ仕事が残っている」
「両手が残っていない」
「脚がある」
俺は起き上がり、床下を指した。
あそこには、四歳の俺を縛るはずだった椅子がある。祖父を戻そうとした空席がある。アデル一人の再徴収を止めても、椅子が次の人間を探す仕組みは残ったままだ。
「リゼ。あの拘束椅子に縄をかけてくれ」
「引き上げてどうする」
俺は焼けた両手の代わりに、歯で縄の端をくわえた。
「王立写本局の審理室へ運ぶ。次に誰を座らせるつもりだったのか、制度を作った連中自身に答えさせる」
(第95話へ続く)




