余った文字などない
落下中にできることは、だいたい後悔だけだ。
祈るという手もあるが、あれは助けてくれそうな相手に心当たりがある者の特権である。古代の縦穴に飲み込まれた魔力ゼロの写本係には、少々ぜいたくすぎた。
俺の場合は両手を焼いたこと、外套の留め具を直していなかったこと、そしてピピにインクを先払いしなかったことの三つだった。
「ノエル、離すのら!」
「断る」
「一緒に潰れるのら!」
「俺だけならとっくに潰れている。写本係の腕力を甘く見るな。驚くほど無いぞ」
感覚の鈍い右手でピピを握り、左腕を壁へ伸ばす。冷たい風が袖口から入り込み、焼けた皮膚を細い刃でなぞった。指先が石をかすめたが、爪が割れただけだった。
縦穴の壁を黒い文字が上へ流れている。濡れた石肌をびっしり埋めた命令文が、こちらの速度に合わせて脈打っていた。
俺たちが落ちているのではない。搬送路のほうが、獲物を下へ送っているのだ。
気づいたところで落下が止まるわけではない。正確な読解は、ときどき死因を詳しくしてくれるだけである。
魔力があれば、風を起こすなり、身体を浮かすなりできたのかもしれない。
もちろん俺にはない。
空っぽというのは、落下中でも実に安定した才能だった。
ピピへ巻きついた黒い帯が締まる。紙を裂くような、乾いた音が耳元でした。小さな身体を作る文字が一つ剥がれ、細い光の屑になって闇の底へ吸い込まれた。
「の、ら……」
「しゃべるな。舌まで持っていかれる」
「ピピに舌はないのら!」
「元気なら結構だ」
強がる声はいつもより半音高かった。俺の冗談で隠せる程度の恐怖ならよかったが、握った掌の中で震えまで伝わってくる。
帯の表面に細い補助文が走った。
『回収した余剰文字を分解する』
余剰文字。
灯り石からこぼれた残響。確かに、古い術式から見ればピピは定められた位置を持たない文字だ。
だから余っている。
だから壊して使っていい。
命令文はそう言い切っていた。本人に尋ねる欄は、どこを読んでもない。
国というものは、千年前から理屈の立て方が卑怯らしい。
腰の革帯へ左手を伸ばす。校正筆は外套と一緒に裂けて飛んだが、鉄筆が一本だけ残っていた。抜こうとしても、焼けた指が柄をつかめない。力を込めるたび、皮膚の奥で鈍い熱だけが膨らんだ。
「ピピ。八つ数えろ」
「何をするのら?」
「落ちながら字を書く」
「ノエルはとうとう馬鹿になったのら!」
「以前からだ。知らなかったのか」
俺は鉄筆の柄を歯でくわえた。錆と自分の血の味が舌へ広がる。
首をひねり、迫ってきた黒い帯へ筆先を押し当てる。上下が揺れ、歯が折れそうになる。一本目の線は外れ、火花だけが頬をかすめた。二本目でようやく文字の縁を捉える。
新しい術式は書けない。
俺にできるのは、そこにある一語を読み、一語だけ書き換えることだ。
それだけしかない。だから、たった一語で足りる場所を見つける。
『分解』を――『保持』へ。
「ひとつ、ふたつ、みっつのら!」
黒い帯の締めつけが止まった。
剥がれかけていたピピの文字が、細い尾を引いて身体へ戻る。だが帯そのものは離れない。命令はピピを捕まえたまま、壊さず保持することを選んだ。
助けたというより、処分を先延ばしにしただけだ。ひどく役所らしい救命だった。
「ななつ、やっつ!」
書き換えた文字が裏返る。
『保持』が『分解』へ戻り始めた。
巡回中の実行文は、八つ数える間で原文に押し戻される。知っていた。知っていても腹は立つ。仕組みを理解すれば理不尽に納得できるという者がいるなら、一度この穴へ放り込んでやりたい。
俺はもう一度、鉄筆を帯へ当てた。
その直前、頭上から石の砕ける音がした。
「ノエル!」
銀色の影が縦穴を駆け下りてくる。
リゼだった。
獣化した爪を左右の壁へ交互に突き立て、落下というより石壁そのものを斬り裂きながら降りてくる。砕けた石が雨のように頬を打つ。湿った毛皮と血、汗、それに鉄の匂いが冷気を追い越した。
「手を伸ばせ!」
「両方とも品切れだ!」
「では首をつかむ!」
「もう少し人として扱え!」
襟をつかまれた。
人として扱う予定はなかったらしい。
リゼの爪が壁へ深く食い込み、落下が一瞬だけ鈍る。衝撃で首が締まり、目の前に白い火花が散った。だが黒い文字は三人分の重みを下へ引いた。石が裂け、また速度が増す。
「下までどれくらいだ」
「見えない」
「役に立たない回答だな」
「お前にだけは言われたくない」
もっともだった。
ピピの身体から再び文字が浮いた。俺は歯で鉄筆を操り、『分解』を『保持』へ戻す。
「ひとつ、ふたつ――」
ピピが数え、リゼが壁を削り、俺が八つごとに同じ一語を書く。
三回目には顎が痺れた。
四回目には筆先が曲がった。
五回目、ようやく縦穴の底に金色の輪が見えた。
『永久補筆準備室』
『第二対象および補筆材を受領する』
床が近づくにつれ、冷気の中へ古い油と焦げた紙の臭いが混じった。歓迎の香りとしては、墓穴のほうがまだ慎み深い。
「床が来るぞ!」
リゼが俺とピピを胸元へ抱え込み、身体をひねった。銀の肩から床へ落ち、鈍い音と一緒に転がる。
俺は彼女の腕と床の間で潰れた。
転落死は免れたが、女騎士の胸当てで圧死しかけた。英雄譚には書きにくい死因である。
「無事か」
「俺に聞く前に退いてくれ」
リゼが身を起こす。息は荒く、右肩の銀毛が血で濡れていた。爪の何本かは石を削ったせいで欠けている。それでも俺が何か言う前に、彼女はピピを見た。
黒い帯はまだ小さな身体へ巻きついている。
『保持』がまた『分解』へ戻った。
「ピピ!」
リゼの爪が帯を床へ縫い止める。切っても二本に増えるだけだ。力でどうにかできない相手を前にしたときの彼女は、まず力で確かめる。騎士として正しく、校正者の護衛としては少々物騒だった。
部屋の中央には、小さな椅子があった。
四歳の子供に合わせた高さだ。肘掛けには手首を固定する輪。背後には頭を支える枠。そして椅子から伸びた無数の管が、壁一面の文字へつながっている。
座面には浅いへこみがあり、拘束輪の内側には柔らかな布まで残っていた。逃げられないように作りながら、痛くないようには気を配ったらしい。親切と残酷は、同じ机で設計できる。
十五年前、俺を座らせるはずだった場所。
怖いとは思わなかった。
代わりに腹が立った。
子供一人を道具にするために、ずいぶん丁寧な仕事をしたものだ。
椅子の前で黒い文字が組み上がる。
『第二対象、受領不能』
『不足時、周辺に存在する同質の文字を代用する』
ピピが小さく震えた。帯が縮むたび、身体を形作る文字の輪郭が紙を水に浸したようににじんでいく。
「同質……ピピは文字なのら。ノエルの補筆に使うなら、たぶん合うのら」
「合わない」
「でも、ピピはこぼれた文字なのら」
「こぼれたことと、余っていることは違う」
俺は床へ膝をついた。着地の痛みで脚が笑ったが、今は付き合っている暇がない。
「お前は腹が減ればインクを要求する。失敗すれば言い訳をする。怖ければ震えるし、それでも俺を逃がそうとする。そんな面倒な補筆材があるか」
「面倒は余計なのら……」
「余計なのは国の命令だ。お前じゃない」
ピピをつかむ右手へ、わずかに震えが返ってきた。
感覚のないはずの指だった。
壁の親文を追う。何層もの命令が管のように絡まり、椅子へ流れ込んでいる。代用命令は、焼けた穴へ後から埋め込まれていた。周囲の古代文字と筆致が違う。線は浅く、間隔も狭い。欠落を直したのではない。都合のいい命令を継ぎ足したのだ。
なら、直す場所はここだ。
「リゼ。十数える間、帯を押さえてくれ」
「八つではないのか」
「残り二つは俺が格好をつける時間だ」
「三つ必要だろう」
「傷つくぞ」
リゼが爪と肩で黒い帯を床へ押し込む。獣化した腕に文字が食い込み、銀毛が焦げた。焦げた毛と血の臭いに、石床から立つ埃が混ざる。それでも彼女の爪は一寸も退かなかった。
俺は曲がった鉄筆を左手で握ろうとした。指が閉じない。筆先は震え、狙った一画の上を頼りなくさまよう。
ピピが帯の隙間から細い尾を伸ばし、鉄筆へ巻きつけた。
「ピピも持つのら」
「食われかけている奴は休んでいろ」
「余っていないなら、仕事があるのら」
まったく、口だけは俺に似てきた。
俺の左手とピピの尾で、一本の鉄筆を支える。二人合わせても立派とは言い難い筆運びだったが、読める字ならそれでいい。美しさを競う場ではない。
新しい文は作らない。
焼けた欠落へ押し込まれた一語だけを、正しい意味へ戻す。
『代用』を――『保護』へ。
最初の線が古い傷へ沈む。二本目で黒い光が鉄筆を押し返す。リゼが息を詰め、ピピの尾がきつく柄へ巻きついた。
筆先が最後の線を結んだ。
『不足時、周辺に存在する同質の文字を保護する』
壁を巡っていた黒い光が止まる。
八つ数えても、文字は戻らなかった。欠落部そのものへ書いた一語が親文につながり、古い代用命令を押し出していく。壁一面から、長く止めていた息を吐くような低い音が響いた。
ピピを縛っていた帯がほどけた。
小さな身体が俺の掌へ落ちる。何文字か薄くなっていたが、ピピは自分の腕を確かめ、尻尾を確かめ、最後に語尾が残っているか試すように言った。
「インク、特盛りなのら」
「ああ。瓶ごと舐めていい」
「言質を取ったのら!」
いつもの調子が戻った声に、胸の奥の強張りがようやくほどけた。インク代で財布は死ぬだろうが、持ち主より先に死ねるなら財布も本望だろう。
リゼが床へ座り込んだ。傷だらけの肩で息をつきながら、俺の頭を軽く小突く。
「次に穴へ飛び込むときは、先に言え」
「言ったら止めるだろ」
「一緒に飛ぶ準備をする」
それは止めてほしかった。
小さな椅子の拘束輪が開き、乾いた金属音を立てる。管から光が消え、壁の命令文も一行ずつ暗くなった。十五年前の準備室は、ようやく誰も材料にしない部屋になった。
その区切りを待っていたように、壁の奥で鐘が鳴った。
一度。
余韻が石室の隅まで這い、椅子の脚をかすかに震わせる。
続いて、赤い文字が親文の下へ刻まれる。
『第二対象、使用不能』
『補筆材の代用、禁止』
『永久補筆の空席を確認』
そこで終われば、少しは古代術式を褒めてやれた。
だが最後の一行が現れた瞬間、床の別の搬送路が動き出した。石の下で巨大な歯車が噛み合い、足裏へ不吉な振動が伝わる。
『第一対象の返却を取消す』
『アデル・アルクムの再徴収を開始』
壁に数字が浮かぶ。
残り六十。
減り始めた数字の赤い光が、リゼの血と俺の焼けた指を照らした。休ませてくれる気はないらしい。古代の役所仕事は、弱い者を使うときだけ妙に迅速である。
俺はピピを胸元へ入れ、曲がった鉄筆を歯でまっすぐに噛み直した。
「祖父を二度も筆にさせるか。返却路を逆に走るぞ」
(第94話へ続く)




