四歳の俺に同意させるな
床に浮かんだ小さな手形は、俺の右手よりずっと小さかった。
当然だ。十九歳の手が四歳のころと同じ大きさなら、俺は写本局で筆より先に定規を支給されている。
笑えるはずのことなのに、喉は乾いたままだった。
『第二対象――ノエル・アルクム』
名前の下で、十五年前の日付が淡く明滅している。
祖父が王都へ呼び出され、帰ってこなかった日だ。
数字を見ただけで、古い家の扉が脳裏に浮かんだ。隙間風の鳴る音。冷えた夕食。油の減ったランプ。外で荷車が止まるたび、椅子から飛び降りた小さな足の痛みまで、腹立たしいほど鮮明だった。
あの日、俺は祖父を待っていた。
祖父は帰ると約束した。俺はその約束を疑わず、扉の音がするたびに走った。子供というものは、自分が待っている相手に、自分を差し出す取引を強いられているとは考えない。
祖父が帰れば、抱きついて、それから遅いと文句を言うつもりだった。四歳なりに順序まで決めていた。結局、どちらもできなかったが。
少なくとも四歳の俺は、そこまで性格がひねくれていなかった。
「触るな」
リゼの獣の腕が、俺の胸の前へ差し込まれた。
濡れた毛から血と薬、それに石埃の匂いがする。獣化した彼女の匂いは、治療所の空気に紛れるには少々力強い。だが今は、その生々しさがありがたかった。
体温も、毛先が外套をこする感触も、荒い呼吸も、全部が現在のものだ。
俺を十五年前へ引き戻しかけた文字より、隣にいる相棒の匂いのほうが確かだった。
「触るつもりはない」
「今、右手を出した」
「読もうとしただけだ」
「お前は文字を読むとき、崖から落ちる人間と同じ顔をする」
「もっと知的な顔に見えていると思っていた」
「諦めろ」
ひどい。
だが、リゼの言うとおりだった。俺の焼けた右手は、小さな窪みへ向かっていた。
考えるより先に文字へ手を伸ばす。写本係としては勤勉で、命を守る習慣としては落第である。
ピピが俺の肩から飛び、手形の真上で急停止する。
「ノエルの手なのら?」
「四歳の俺を想定した大きさだ」
「今のノエルは入らないのら」
「成長して初めて得をした」
「頭の中身はあまり――」
「続きを言ったらインクは水で薄める」
「立派に成長したのら!」
訂正が早い。写本局にいたころの俺より出世できる。
俺は手形の周囲へ目を凝らした。
金の地図が示しているのは入口の位置だけだ。実際の命令は石板の下にある。さっきリゼが持ち上げた石板をもう一度ずらすと、その下から青黒い金属の縁が現れた。
石とこすれた金属が、耳障りな低音を立てる。治療所に漂う薬草の匂いへ、錆とも血ともつかない古い臭気が混じった。
細い文字が、縁を一周している。
古代語だった。
文字は装飾のように細く、それでいて一画ごとに逃げ道を塞ぐ配置になっている。人を捕らえる文章ほど、見た目だけは整っているものだ。
『第一対象返却後、第二対象の受領を開始する』
『第二対象が地上側受入口へ接触した場合、永久補筆への同意とみなす』
俺は二度読んだ。
二度目で意味が変わることを期待したわけではない。古代語は人間より頑固だ。書いた者が卑劣なら、千年経っても卑劣なままである。
「同意だと?」
リゼの声が低くなった。
「四歳の子供が、床の手形に触れただけで?」
「ああ。手を置けば、自分から永久補筆を望んだことになる」
「ふざけるな」
獣の爪が石床を削った。白い傷が走り、砕けた欠片が小さく跳ねる。
病室の患者たちにも聞こえていたらしい。窓際の老人が寝台から身を起こし、こちらを見た。ほかの患者も息を潜めている。咳も、杯を置く音も止み、部屋の中央に浮かぶ子供の手形だけが明るすぎた。
「坊主。そいつは、まだ生きている命令なのか」
「拘束の根拠はもうない。十五年前の令状は書き換えた。俺は第二対象ではなく、証言者だ」
「なら安心か」
「相手がまともな文章なら」
残念ながら、まともな文章は人間より希少だ。
この受入口は令状から切り離された補助文だった。強制的には運べない。だから、触れたことを同意に仕立てる。撤回された命令の代わりに、四歳の子供の無知を使う仕組みだ。
命令が死んでも、罠だけは生き残る。作った者は、法の抜け穴を見つけたつもりで満足したのだろう。穴へ落とされる側が子供であることなど、文面のどこにも書く必要はないと考えて。
十五年前、祖父が戻されていたら、俺はここへ連れてこられただろう。
病気を診る場所だと言われたかもしれない。祖父に会えると言われたかもしれない。床に手を置けと言われれば、俺は置いた。
祖父の姿を一目見せられていたなら、きっと誰かが命じる前に駆け寄っていた。
それを同意と呼ぶ文章が、ずっとここで待っていた。
「壊すか」
リゼが尋ねた。
「壊せば、下にある経路ごと動く可能性がある。ここは親文へつながっている」
「では、どうする」
「同意させない」
答えは一語で足りる。
いつもそうだ。一語しか直せない俺に合わせて、悪意のほうが簡潔に書かれてくれている。親切と言うには、ずいぶん趣味が悪い。
問題は手だった。
右の指先にはほとんど感覚がない。左腕も原文の熱で焼け、握ろうとすると筋肉が震える。皮膚の下へ熱い針を何本も差し込まれたようで、肘まで脈に合わせて痛んだ。
筆を持つ職業としては、両腕が焼けるのは配置換えを願い出るのに十分な理由だろう。
もっとも、俺はすでに追放済みなので、願書の提出先がない。
「筆を」
俺が言うと、リゼは動かなかった。
「ノエル」
「書かなければ、次にここへ来た子供が同じ目に遭う」
「お前の腕が動かなくなれば、その次を直せない」
「分かっている」
「分かっている人間は、自分の手を消耗品のように扱わない」
正しい。
正しいから困る。
彼女が怒っているのは命令に対してだけではない。俺にもだ。分かっていて無茶をする人間は、分かっていない人間より説得が面倒である。自分のことなので、よく知っている。
俺が黙ると、窓際の老人が咳を一つした。
「嫌なら、嫌だと言えばいい」
視線が集まった。
老人は薬の杯を両手で持ち、肩をすくめた。
「さっき、あんたが俺たちに選ばせただろう。ここにいるか、出ていくか。四歳のあんたにも、まず聞くべきだった。それだけじゃないのか」
その声に力はなかった。だが、力のない者の言葉だからこそ、床の命令よりまっすぐに届いた。
俺は金属縁の文を見る。
『同意とみなす』
聞きもしないで、望んだことにする。
なら、直す言葉は決まった。
「リゼ。左手首を固定してくれ」
「一度だけだ」
「ああ」
「震えたら私が筆を離す」
「俺の指ごと持っていくなよ」
「努力する」
「そこは断言してほしかった」
リゼは獣の掌で俺の左手首を包み、石床へ押しつけた。爪は避け、焼けていない箇所だけを支えている。
力は強いのに、触れ方は驚くほど慎重だった。その慎重さがかえって痛みを際立たせたが、文句を言えば本当に筆を取り上げられるので黙っておく。
ピピが筆先へ体を寄せた。黒い文字でできた腹が淡く光り、残ったインクを押し出す。
「一画ぶんだけ貸すのら」
「あとで瓶を一本やる」
「二本のら」
「交渉を覚えたな」
震える指で筆を運ぶ。
『同意』
その一語へ、別の意味を重ねる。
『照会』
触れたなら、同意したと決めつけるのではない。
本人へ、意思を尋ねろ。
筆先が金属へ触れるたび、白い火花が散った。焼けた腕の奥で筋肉が引きつり、視界の端が暗くなる。リゼの掌がなければ、一画目で線は曲がっていた。
最後の線を書き終えた瞬間、筆が指から落ちた。
乾いた音が、静まり返った病室に響く。
金属縁の文字が白く灼ける。書き換えた語は流されず、親文の一部として定着した。
小さな手形が光る。
『第二対象へ照会する』
『永久補筆準備室への搬送を望むか』
十五年遅れて、ようやく質問が来た。
たった一つの問いだった。あの日、誰一人として四歳の俺へ向けなかった問いだ。
俺は窪みに手を置かなかった。
立ったまま、声で答えた。
「望まない」
声は少しかすれた。それでも、古代の命令へ届くには十分だった。
床の奥で、重い歯車が一つ止まった。
『回答を記録』
『第二対象の搬送を終了する』
小さな手形から光が消えた。十五年間、四歳の俺を待ち続けていた受入口が、初めて沈黙した。
あの日の俺は何も選べなかった。
だが今の俺が、代わりに断ることはできる。
胸の奥に空いたままだった穴が埋まったわけではない。祖父と過ごせなかった十五年も、待ち続けた夜も戻らない。ただ、あの子供の手を、ここへ差し出さずに済んだ。それで今は十分だった。
「これで終わりか」
リゼが手首を放しながら尋ねた。
「俺を運ぶ命令は終わった」
「よく言ったのら!」
ピピが金属縁へ着地した。
その瞬間、手形の底から黒い文字列が噴き出した。
細い帯がピピの胴へ巻きつき、石板の隙間へ引きずり込む。
「のらっ!?」
消えていたはずの手形が、今度は黒く光った。
『第二対象、搬送拒否』
『不足する補筆材を、周辺の余剰文字より確保する』
「ピピ!」
リゼの爪が帯を裂こうと振り下ろされる。だが黒い文字は二本に分かれ、一本が彼女の腕を石床へ縫い止めた。
俺は考えるより先に、焼けた右手でピピをつかんだ。
感覚のない指に、細い体の震えだけが伝わる。
「離すのら! ノエルまで落ちるのら!」
「約束のインクをまだ払っていない」
床が割れ、受入口が縦穴を開いた。
冷たい空気が下から噴き上がり、薬草と血の匂いを吹き散らす。底は見えない。黒い文字だけが、闇の奥へ続いていた。
黒い帯がピピを引く。俺の身体も穴の縁を越える。
リゼが俺の外套へ爪を伸ばしたが、布が裂けた。
四歳の俺を運べなかった搬送路へ、十九歳の俺は自分の意思で飛び込んだ。
(第93話へ続く)




