王宮が治療所へ来る
王宮が治療所へ来る。
字面だけなら、ずいぶん親切な話に見える。病人を王宮へ呼びつけるよりは、王宮のほうから見舞いに来るほうが礼儀正しい。
ただし、土煙を上げて建物ごと突っ込んでくる見舞客は、たいてい玄関で断られる。
「全員、寝台から離れるな!」
リゼの声が病室を貫いた。
離れるなと言われても、寝台そのものが床の上を滑っている。木の脚が甲高く鳴り、治療師たちは壁へ足を踏ん張りながら脚へ布を噛ませ、患者たちを支えた。薬瓶が棚から落ち、割れた硝子の音とともに、甘い薬草と消毒酒の匂いが広がる。
誰かの悲鳴が地鳴りに飲まれた。包帯を巻いた腕で隣の患者を押さえる者もいれば、祈りの言葉を途中で忘れて口だけ動かしている者もいる。
窓の外では、通りの向こうにあった建物が横向きに流れていた。人が走っているのではない。人を乗せたまま、道と家が動いている。洗濯物を抱えた女が窓辺に取り残され、こちらと目が合った。互いに助けを求められる状況ではないので、気まずく見つめ合うしかなかった。
遠くにあった王宮は、もう遠くなかった。
尖塔が屋根の上へ迫り、外壁同士の距離が縮まっていく。白い石壁の彫刻まで見える。歴代の王が勝ち誇った顔で並んでいるが、今は揃って治療所へ頭突きを仕掛けてくるようにしか見えない。
「ノエル、あとどれくらいでぶつかる」
「建築の知識なら写本係の採用条件になかった」
「見れば分かる範囲で答えろ」
「薬を二口飲むくらいだ」
寝台の老人が、手にしていた杯を慌てて置いた。手が震え、薬が縁からこぼれる。
「一口で飲む」
「急がなくていい。喉に詰まらせたら、王宮より先に薬に負ける」
笑う者はいなかったが、老人はちゃんと二口で飲んだ。それでいい。俺の冗談は、人を笑わせるより、無茶を一つ減らすほうが成功率が高い。芸人なら廃業だが、写本係なら十分な成果である。
揺れる視界をこらえ、天井を走る金文字を見上げる。
『建国原文を、構成肢の位置に合わせて再配置する』
原因は最後の一語だ。
百十三人が所在を選んだ。原文はその選択を尊重した結果、国の配置を選んだ場所へ合わせようとしている。
人を部品として引きずれなくなったから、今度は部品以外を全部引きずることにしたらしい。患者を寝台へ縛るなと言われて、寝台ごと運び出す治療師がいたら叱られる。国を動かす術式には、叱られて縮こまる程度の良識すらない。
「融通が利くのか、利かないのか、どちらかにしてほしい」
「どちらでもないのら! ものすごく真面目な馬鹿なのら!」
ピピが俺の肩で叫んだ。文字でできた小さな身体が、振動で紙屑のようにはためいている。
否定しづらい。術式は命令に忠実だ。忠実すぎるものは、悪意がなくても人を潰す。そして悪意のない相手は、謝りもしないぶん始末が悪い。
問題の文字は天井にある。俺の左手は届かない。右手は包帯の中で脈打つように痛み、指先の感覚はまだ戻っていない。
魔力のない俺には、魔法で撃ち落とすことも、遠くから意味を変えることもできない。
俺にあるのは、古代語を読み、届いた一語を書き換えるための筆だけだ。
「リゼ。天井まで頼めるか」
黒銀の毛を逆立てた彼女が、迫る王宮と俺を見比べる。血と埃、それに汗を吸った獣毛の匂いが薬草の匂いへ混じった。生きて戦っている者の匂いだ。今は妙に頼もしい。
「肩へ乗れ」
「投げないのか」
「希望なら投げる」
「肩でお願いします」
騎士へ乗るのは非常に不敬だが、王宮に轢かれるよりは軽罪だろう。裁判官も、建物同士に挟まれて薄くなった被告を裁くのは面倒なはずだ。
リゼが身を低くし、俺は左腕で彼女の首へしがみついた。傷つけないよう爪を伏せた手が、俺の腰を支える。力は強いのに、触れ方は驚くほど慎重だった。
彼女が立ち上がる。
高い。だが、まだ足りない。金文字は俺の筆先を嘲るように、指二本ぶん上を流れている。
「跳ぶぞ」
「聞く前に言ってくれ」
「今、言った」
床が沈んだ。
次の瞬間、胃だけを病室に置き忘れたような感覚がした。リゼの脚力で俺の身体が天井近くまで持ち上がる。肩から伝わる獣の熱と、耳元で鳴る風だけが妙にはっきりしていた。
左手の筆を伸ばす。
金色に光る『再配置』へ、朱墨を押しつけた。
『表示』
『建国原文を、構成肢の位置に合わせて表示する』
地鳴りが止まった。
横滑りしていた寝台が止まり、窓の外の建物も動きを止める。王宮の尖塔は治療所の屋根すれすれで静止した。舞い上がった埃だけが勢いを失えず、遅れて病室へ降り注ぐ。
俺たちは床へ落ちた。
正確には、リゼが足から着地し、俺だけが彼女の肩で舌を噛んだ。危機を止めた代償としては安い。痛いものは痛いが。
「止まったのら!」
「八つ数える間だけだ」
天井の朱文字が、端から金へ戻り始めている。赤を食い潰すように、元の命令がじわじわと形を取り戻していた。
これは流れてきた実行文だ。ここを書き換えても、原文が同じ命令を送り直す。恒久的に止めるなら、親文の文字へ触れなければならない。
「元の文はどこだ」
リゼが俺を下ろしながら問う。
「近い。これだけ早く命令が届いたなら、この病室の真下を原文が通っている」
ピピが鼻をひくつかせた。鼻らしい形はあるが、本当に匂いを嗅いでいるのかは今も分からない。本人が嗅げると言うので、便利なときだけ信じている。
「下から古い文字の匂いがするのら。インクなら、もっと嬉しいのら」
「あとで瓶ごと舐めていい。場所を探せ」
「約束なのら!」
ピピが床すれすれを飛ぶ。
四つ。
床板と石の継ぎ目を回り、寝台の下へ潜り込む。俺の鼓動が数を追い越しそうになる。
五つ。
「ここなのら!」
窓際を選んだ患者の寝台の下だった。
治療師が動かそうとしたが、患者が乗ったままでは重い。すると隣の寝台にいた男が、弱った腕を伸ばした。
「俺の寝台へ移せ。二人くらい乗っても折れん」
「たぶん折れる」と俺は言った。「でも床よりはいい」
男は青い顔で笑った。ほかの患者たちも手を貸した。動ける者が足を支え、治療師が背を抱く。自分の傷を押さえていた手が、今度は他人を持ち上げるために伸びる。リゼが寝台を片手で持ち上げ、その間に患者を隣へ移した。
六つ。
空いた床に、細い金線が浮いていた。石の継ぎ目を縫う光が、こちらに見つかったことを喜ぶように明滅する。
七つ。
リゼが爪を継ぎ目へ差し込み、石板を持ち上げる。石が軋み、下から熱い風が噴き出した。王都地下を巡る建国原文。その一行が、むき出しの溝になって走っている。
八つ。
天井の文字が『再配置』へ戻った。
王宮が再び動き出す。
外壁が治療所の屋根へ触れ、石の砕ける音がした。梁が悲鳴を上げ、天井から粉が降る。患者を覆うように、治療師たちが身を屈めた。誰も逃げろとは言わなかった。逃げられない者の前で、その言葉は役に立たない。
俺は床の穴へ左腕を突っ込んだ。
熱で皮膚が焼ける。焦げた朱墨と自分の皮膚の匂いが鼻を刺した。右手ほどではない。そう考えれば耐えられるあたり、俺の痛みの基準は最近ずいぶん安くなった。
金文字は速い。
法、城壁、水路、王宮、治療所。国を形作る親文が、光の帯になって流れていく。一行を読み損なえば、次に巡ってくるまで屋根が待ってくれる保証はない。
その中から、同じ一語を探す。
「ノエル、屋根がもたない!」
リゼが背後で叫ぶ。砕けた石を受け止める音が続いた。振り返らなくても、彼女が何をしているかは分かった。
「もう少しだ!」
読める。
俺にできるのは、それだけだ。
だから見つけられる。
国がどれほど巨大な文章でも、間違いは一語ずつしか存在できない。偉そうな命令も、ばらせばただの文字だ。一語なら、俺の手にも負える。
金の流れの中へ『再配置』が来た。
俺は筆先を溝へ触れさせる。
朱墨が熱で泡立った。左手の指が震え、線が光に押し流されそうになる。
それでも離さず、左手で一語を重ねる。
『表示』
光が筆を弾いた。
俺の左腕が床から抜け、背中から倒れる。リゼが襟ではなく胴を受け止めてくれた。ようやく人間の扱いに慣れてきたらしい。俺もそろそろ、受け止められる側として上達したい。
轟音が一度だけ響いた。
王宮の外壁と治療所の屋根が、指一本ぶんの隙間を残して止まる。落ちかけた石片が、その隙間を転がって地面へ消えた。
今度は、八つ数えても動かなかった。
病室に落ちていた薬瓶も、寝台も、人も、そのままだ。
代わりに天井いっぱいへ、王都の地図が広がった。
青白い街路、金色の水路、城壁を示す太い輪。その上で、百十二の光が治療所へ集まり、一つの光がリゼの立つ場所で輝く。選ばれた所在を、国は動かさずに表示している。
「国が、私たちの場所を覚えたのか」
窓際の患者が尋ねた。隣の寝台で窮屈そうにしながらも、その目は天井の光を追っている。
「今度は、場所だけを」
「また動かさないか」
「親文を直した。少なくとも、この命令では動かない」
病室のあちこちから、長い息が漏れた。
誰かが笑い、遅れて別の誰かも笑った。泣き出した者もいた。治療師たちは止まった薬棚を起こし、こぼれなかった薬を患者へ配り直す。さっきの老人は、空になった杯を掲げて俺へ見せた。ちゃんと二口で飲んだという報告らしい。
俺はうなずいた。
守るために人を動かす必要はない。
国のほうが、人のいる場所を覚えればいい。
それだけの違いを理解させるために、危うく王都が折り畳まれるところだった。巨大な術式というものは、規模に比例して賢くなるわけではないらしい。
俺は焼けた右手を胸元へかばいながら、床へ座り込んだ。左腕も赤く腫れ、握った筆が指からなかなか離れない。両手が役立たずになると、写本係としてはかなり正直な姿になる。
「終わったのら?」
「移動はな」
「ではインク瓶を舐めるのら」
「約束したのは覚えている。俺より記憶力がいいな」
ピピが勝ち誇って飛び去ろうとした、そのときだった。
天井の地図に、一本だけ細い線が加わった。
治療所の印から真下へ伸び、地下の小部屋を四角く囲む。建物を動かしていたときには埋もれていた、古い搬送経路だった。
表示された文字を、俺は声に出して読んだ。
『永久補筆準備室――地上側受入口』
入口は、さっきリゼが持ち上げた石板のさらに下にある。
金の地図が床へ輪郭を写し出す。そこには小さな手の形をした認証窪みと、十五年前の日付が刻まれていた。
子供の手だ。
見間違えようとしても、日付の数字は変わらない。俺の息だけが、ようやく静かになった病室でひどく大きく聞こえた。
その脇にある対象名は、一人だけだった。
『第二対象――ノエル・アルクム』
十五年前から、この治療所の地下には、四歳の俺を永久補筆へ運び込むための入口が用意されていた。
(第92話へ続く)




