所在を選べ
百十二本もの光が同じ場所へ伸びれば、方角を見失う心配はない。
見失いたかった、という意見ならある。
「治療所だ」
俺は天井を貫く金の文字を見上げた。眩しいほど鮮やかなのに、その光には松明のような温かさがない。百十二人を指し示す道標というより、獲物へ突き立てられた百十二本の針に見えた。
「百十二人全員を、原文はリゼと同じ構成肢だと判定している」
リゼの獣の耳が伏せられる。鼻先に寄った皺と、喉の奥で押し殺された音だけで、彼女が何を考えたかは十分伝わった。
「回収は保護へ変えたのだろう」
「親文はな。だが、国にとっての保護が、毛布を掛けて温かい粥を出すこととは限らない」
「ノエルの保護なら、それで足りそうなのら」
「粥を作るのはハンナだ。俺が作ると鍋のほうが保護対象になる」
冗談を言っている場合ではない。
言わずにはいられなかっただけだ。恐ろしいことを恐ろしい顔で迎えれば、少し賢そうに見えるかもしれない。だが俺の場合、賢さより先に膝の震えが見つかる。
金の枝は床を走り、建国原文の空洞から上層へ続く搬送路を照らしていた。俺たちは焼却室へ戻る昇降棚を待たず、薬運搬路を逆にたどった。
王宮地下から治療所へ薬を運ぶための狭い石路だ。木箱一つを通す幅しかなく、天井も低い。湿った石と薬草、古い油の匂いが鼻にまとわりつく。獣化したリゼにはひどく窮屈で、肩の毛が左右の壁を擦っていた。先を走る俺の背中へ爪が当たるたび、寿命が一日ずつ縮んだ気がする。
「刺していない」
「分かっている。俺の勇気が勝手に漏れているだけだ」
「それは汗というのら」
正確な指摘は、ときどき刃物より痛い。
狭い通路に、俺の荒い息と、リゼの重い足音と、ピピの紙片めいた体が擦れる音が重なる。後ろからはリゼの毛皮に残る汗と鉄の匂いも追ってきた。生きて走っている者の匂いだ。それすら今は、金色の光よりずっと信用できた。
治療所の地下搬入口へ着く前から、石壁の向こうで叫び声が聞こえた。
「扉が閉まるぞ!」
「寝台から離れろ! 床の線を踏むな!」
何かが倒れ、硝子の割れる音が続く。助けを呼ぶ声が、厚い壁に押し潰されていた。
俺たちが鉄蓋を押し上げると、積まれていた薬箱が雪崩のように落ちてきた。リゼが片腕で受け止め、俺とピピはその下をくぐる。役に立つ者と、小さいから助かる者と、魔力も腕力もなく腰を打つ者。分担は完璧だった。
治療所の大病室には、百十二台の寝台が並んでいた。
王墓から戻った人々を一度に診るため、仕切りを外して作られた部屋だ。白い布、薬草を煮た湯気、血と消毒酒の刺激臭。その全部を、床から湧いた金の光が不自然な色に染めている。
一本の光が、一台の寝台を囲む。
輪は寝台の脚から柵へ上がり、細い文字の帯となって患者の胸や手足を押さえつけていた。逃げようとした青年の足首では、帯が革紐よりも深く食い込み、皮膚が赤黒く腫れている。
病室の出入口は金色の膜で塞がれていた。外側では治療師たちが肩や器具をぶつけているが、膜は水面のように揺れるだけで、びくともしない。薬の盆まで弾かれ、割れた瓶から褐色の液が石床へ広がっていた。
「これが保護か」
リゼの喉から低い唸りが漏れる。獣の声に近い。それでも、その怒りが誰へ向けられたものかは間違えようがなかった。
「古い文章を書いた奴は、守ることと棚へしまうことの区別が苦手らしい」
俺にも覚えがある。貴重な原本だからと鍵を掛け、誰にも読ませず、最後には存在まで忘れる。写本局ではそれを保存と呼んでいた。
人間に使えば、ただの監禁だ。
奥の寝台で、白髪の女が激しく咳き込んだ。胸を押さえ、息を吸おうとするたび、細い喉が笛のように鳴る。治療師が膜の外から叫んだ。
「その人には呼吸を楽にする薬が要る! 枕元の瓶だ!」
瓶は寝台から二歩の場所に転がっていた。
女が震える腕を伸ばす。
金の帯が締まった。寝台の脚が床を擦り、女の口から息にならない声が漏れる。
「動くな!」
俺は叫んだ。
女の手が止まる。怯えた目がこちらを向いた。その顔に浮かんだのは安堵ではない。命令する側が一人増えたのだと、そう受け取った顔だった。
「また……私たちを寝台へ縛るのか」
別の寝台から、かすれた声が上がった。
「客人と呼んで、今度は部品と呼ぶのか」
百十二人を王墓から連れ出したとき、俺はもう誰にも彼らの名前を奪わせないと決めた。
だが、原文を一語直した結果がこれだ。
俺は知らなかったと言える。予想できなかったとも言える。どちらも事実で、縛られている側には何の役にも立たない。無知は罪ではない、などと言えるのは、その無知で首を絞められていない者だけだ。
「俺が書き換えた」
俺は隠さずに言った。舌がひどく重かった。
「リゼを連れ去らせないため、『回収』を『保護』へ変えた。その言葉があなたたちにも届いた」
病室が静まる。咳と荒い呼吸だけが残り、百十二人分の視線が俺へ集まった。金の文字に縛られるよりは軽いはずなのに、逃げたくなるには十分な重さだった。
責められる覚悟はした。立派な覚悟ではない。逃げ道が金の膜で塞がれていただけだ。
「こんなものが保護か」
足首を縛られた青年が吐き捨てた。
「違う」
俺は答えた。
「だから直す。あなたたちに我慢を頼んで、正しい言葉だったことにはしない」
謝罪だけで帯が緩むなら、俺はいくらでも頭を下げる。だが古代術式は、残念ながら礼儀より綴りを重んじる。
床の文字を追う。
百十二本の帯は、病室中央の柱で一本につながっていた。そこから天井へ上がり、丸天井を巡る古代語へ命令を渡している。
『保護対象よ、所在を固定せよ』
原文の『保護』を、治療所の隔離術式がそう解釈したのだ。
病人を守るには、病室から出さない。外からも触れさせない。動けば拘束する。
文としては整っている。人としては最低だった。
「文字は天井なのら」
ピピが俺の肩で見上げる。
「見れば分かる」
「ノエルは飛べないのら」
「それも分かっている」
脚立は金の膜の向こう側。柱は文字が滑っていて登れない。魔力があれば、離れた場所から術式へ干渉する夢も見られたかもしれない。
もちろん俺にはない。十九年間、一度も空気を読んで生えてきてくれなかった。今さら芽を出されても、育て方に困るが。
俺はリゼを見る。
リゼはもう身を屈めていた。獣の脚が床を踏み締め、太い尾が姿勢を整えるように一度振られる。
「投げるぞ」
「相談という形を覚えてくれ」
「今、した」
襟と腰をつかまれた。
「それは決定の通知だ!」
石床が遠ざかる。
胃袋だけが一拍遅れて地上へ残った気がした。俺は丸天井へ放り上げられた。右手は焼けて使えない。左手には朱墨を含ませた筆。肩のピピが耳のような文字を必死に伏せている。
「高いのらあああ!」
「俺の襟を引くな、首が先に固定される!」
天井の命令文が迫る。金の一画一画が、目の前では溝のように深い。
触れられるのは一瞬だ。
俺は左腕を伸ばした。肩が抜けそうになり、筆先から朱墨が一滴だけ宙へ散る。それでも穂先は『固定』の古代語へ触れた。
消すことはできない。
新しい命令を作ることもできない。
既にある一語へ、別の意味を重ねるだけだ。
『選択』
朱の線が金の溝へ沈んだ。
『保護対象よ、所在を選択せよ』
次の瞬間、俺は落ちた。
受け止めたリゼの腕は硬く、爪は俺の服だけを器用につかんでいた。騎士としては満点だが、荷物として扱われた俺の尊厳は採点対象外らしい。
「書けたか」
「俺の心臓が口から出ていなければな」
「出ていないのら。出たらピピが教えるのら」
その親切は一生使わずに済ませたい。
病室を満たしていた金の帯が止まる。
締めつけが緩み、文字が寝台の上の一人一人へ問いを表示した。
『所在を選べ』
誰もすぐには答えなかった。
命令に従わされ続けた人間へ、突然選べと言っても、それは自由ではなく試験に聞こえる。間違えれば罰せられるのではないか。後から選択を奪われるのではないか。そんな疑いが、伏せられた目や固く閉じた口に浮かんでいた。
俺は白髪の女のそばへ行き、床の薬瓶を拾った。幸い割れていない。栓についた埃を袖で拭い、彼女の目の高さまで腰を落とす。
「ここを選んでもいい。別の場所でもいい。治療が終わってから、また選び直してもいい」
「本当に、変えていいのかい」
「『固定』はもうありません。俺の書き間違いでなければ」
「最後の一言が不安なのら」
女は苦しそうに息をしながら、それでも自分の声で告げた。
「今は、この寝台を選ぶよ。薬を飲み終えるまでね」
彼女を縛っていた帯が、力を失った紐のようにほどけた。
俺が瓶を渡す。金の膜に小さな穴が開き、治療師が薬箱を抱えて駆け込んできた。女の背を支え、慣れた手つきで薬を飲ませる。その動きを、誰もが息を詰めて見守っていた。
それを見て、別の寝台から声が上がる。
「俺も、今はここだ」
「私は窓際がいい」
「治ったら娘の家へ帰る。それまではここを選ぶ」
声が一つ増えるたび、拘束の帯が輪へ戻った。輪は彼らを囲まず、選んだ場所の印として足元へ静かに沈む。
小さな声もあった。迷いながら口にされた声も、途中で言い直された声もあった。俺たちはそれを訂正せず、急かさず、最後まで聞いた。
百十二人全員が選び終えるまで、誰も急かさなかった。
最後の一人の帯が消えると、病室の扉を塞いでいた膜も、薄い硝子のような音を立てて砕けた。薬と水と、遅れていた治療が一斉に運び込まれる。怒鳴り声は指示へ変わり、怯えた呼吸には治療師の落ち着いた声が寄り添った。
部品に居場所は選べない。
選べるなら、国が何と呼ぼうと、その人はその人だ。
俺の隣で、リゼの脚にも問いが浮かんだ。
『所在を選べ』
リゼは金色の目で文字を見下ろした。獣の姿を恐れる視線も、構成肢と呼ぶ原文も、そこにはないもののように背筋を伸ばす。
「私は、私が立つ場所を選ぶ」
短くそう告げる。
彼女を囲んでいた最後の輪が消えた。
「格好いいのら。ピピも言うのら。ピピはインク瓶の隣を選ぶのら」
「それは居場所ではなく食事場所だ」
百十三人の選択が終わった。
ひとまず、誰も連れ去られず、誰も閉じ込められなかった。
その事実にようやく息をついたとき、病室の窓が横へずれた。
窓枠ではない。
石壁ごと動いていた。
低い地鳴りが腹の底を揺らす。棚の瓶が触れ合い、寝台の脚が細かく跳ねた。外では通りの敷石が次々と持ち上がり、建物と建物の間を縫うように金の文字が走った。遠くの王宮が、土煙を上げながらこちらへ滑り始める。
天井に、新しい実行文が刻まれた。
『構成肢の所在、選択完了』
『建国原文を、構成肢の位置に合わせて再配置する』
俺たちが国へ戻らないと決めたせいで、国のほうがこちらへ移動を始めた。
(第91話へ続く)




