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保護対象百十三名

 つかんだ黒銀の毛が、左手の中を滑っていく。


 雨に濡れたような毛は冷たく、その下にあるはずの体温だけが、指の隙間から遠ざかっていった。


 床へ沈むリゼを引き上げようと、俺は右手まで伸ばした。焼けた掌に力を込めた瞬間、痛みすらなかった。


 痛まないのは治ったからではない。感覚が死んでいるからだ。人間の身体は、肝心なときほど役に立たない報告書を提出してくる。しかも、だいたい手遅れになってからだ。


「右手を使うな!」


 リゼが吠えた。


 腰まですでに石床へ沈んでいる。黒い文字が脚へ幾重にも巻きつき、その身体を原文の中へ引きずり込もうとしていた。


 石へ沈んでいるのに、砕ける音も、肉を押し潰す音もない。ただ水面へ沈むように輪郭が薄れ、代わりに床を走る文字だけが濃くなる。それが余計に気味悪かった。


「使わないと、君がいなくなる」


「だからといって腕を捨てるな!」


「一本で君一人なら、計算としては得だろ」


「勝手に私の値段を決めるな!」


 怒鳴られた。


 正論だった。人を材料にする国と喧嘩してきたくせに、自分の腕なら勝手に勘定へ入れていいと思っている。どうやら俺の良心は、持ち主だけを対象外にする便利な欠陥品らしい。


 リゼの爪が石床を削った。濡れた獣毛と焦げた革、それに血の鉄臭さが混じる。爪痕は残るのに、身体は少しずつ沈んでいく。


 腕力でどうにかできる相手なら、彼女が負けるはずはない。だが文章には喉も骨もない。騎士の爪で脅されても、一字たりとも反省しない。


「ノエル、文字を読め!」


 彼女は俺の腰帯をつかみ、引き寄せた。


 これで左手が空いた。


 助ける側と助けられる側を、きれいに分ける気はないらしい。騎士という人種は、床に食われている最中でも仕事を増やしてくる。


「ピピ、文字の流れを追えるか」


「追えるのら! でも、いっぱい流れて鼻がむずむずするのら!」


 ピピは俺の肩から飛び降り、黒い文字の上を走った。小さな足が触れるたび、床の文が水紋のように揺れる。途中で一度くしゃみをし、身体を作る文字がばらばらになりかける。それでも両腕を広げ、一本の文をせき止めた。


「ここが命令なのら!」


 リゼの脚を巻く文字は、城壁や水路の記述ではなかった。


『欠落した構成肢を原文へ回収する』


 構成肢。


 人間の腕や脚を指す言葉ではない。巨大な術式を成り立たせる、役割を持った一部分。歯車や柱、城門と同じ分類だ。


 その無機質な語がリゼの身体を指している。その事実は、刃物より冷たく胸へ入ってきた。


「私は、何と書かれている」


 リゼの声が低くなる。


 嘘をつけば、すぐにばれる。彼女は俺が黙るときほど、読んだ内容が悪いと知っている。長い付き合いというものは、こういうときだけ不便だ。


「国を守るための構成肢だ」


「人ではなく?」


「この文を書いた奴にとっては」


 獣化した耳がわずかに伏せられた。


 俺は筆を抜いた。


「だから、書いた奴の間違いだ」


 筆先を命令へ伸ばす。しかし文字は流れている。触れた瞬間に位置を変え、リゼの身体を伝って床へ戻っていく。


 巡回中の文を書き換えても、数秒で復元される。さっき『採用』を『記録』へ直したせいで、子文に加えた差異が原文へ取り込まれることもない。


 自分で閉めた扉に、自分の鼻をぶつけた気分だった。しかも扉の向こうから、以前の俺が笑っている。


「この文字を書き換えても、すぐ戻る」


「何秒だ」


「八つ数えるより短い」


「十分だ」


 リゼは沈みながら、俺の腰帯を握り直した。その指にも余裕はなく、革が嫌な音を立てる。


「一度止めろ。私が床を割る」


「床の下には君を引いている原文がある」


「なら、そこへ直接書けば戻らない」


 簡単に言ってくれる。


 石床を割り、国そのものへ筆を突き立てろという話だ。写本係の仕事としては、だいぶ腕力に偏っている。職務手当を請求する相手が滅んでいることだけが残念だった。


「ピピ、インクを」


「任せるのら!」


 ピピがインク壺の栓へ噛みついた。両脚を俺の腰袋へ踏ん張り、小さな身体を振り回し、ようやく栓を抜く。勢い余って顔から朱墨へ突っ込んだ。


「赤くなったのら……」


「似合ってる」


「今の雑な慰めは忘れないのら!」


 忘れるための頭がどこにあるのかは、聞かないでおいた。


 俺は筆先を浸し、流れる『回収』へ触れた。


 一語だけ。


『停止』にすれば、リゼを引く動きは止まる。だが、欠落したものを見つけるたび、国は同じ命令を繰り返すだろう。


『返却』では駄目だ。どこへ返すかを決めるのは原文になる。


『解放』も違う。術式から一語を消したところで、欠けた命令は別の形で人を縛る。


 俺にできるのは、たった一語を書き換えることだけだ。だからこそ、その一語には逃げ道も言い訳も許されない。


 必要なのは、リゼを国の一部だと認めたまま、国の中へ取り込ませない言葉だ。


 俺は『回収』の上へ朱を走らせた。


『保護』


『欠落した構成肢を原位置で保護する』


 文字の束が緩んだ。


 リゼの身体を締め上げていた黒い線が一斉に浮き、わずかに空気が戻る。彼女は大きく息を吸った。


「今だ!」


 リゼは片腕を床から引き抜くと、五本の爪を石の継ぎ目へ突き立てた。


 石が鳴る。


 一度目ではひびが入っただけだった。衝撃が膝から歯まで響く。黒い文字が朱を押し流し、『保護』を元の『回収』へ戻し始める。


「あと三つ!」


「数えるな、焦る!」


「二つ!」


 リゼの肩が膨れ、黒銀の毛が逆立った。筋肉が獣毛の下で縄のように盛り上がり、獣の腕が石板を持ち上げる。


 床が割れた。


 石片と古い埃が噴き上がる。喉へ砂が入り、目の奥まで焼けるようだった。


 裂け目の下に、金色の原文が露出した。


 文字は石へ刻まれているのではない。光そのものが幾層にも重なり、王都の地下を川のように流れている。低い唸りが足元から腹へ伝わり、無数の文が互いを読み上げるように明滅していた。その中央に、さっき読んだ命令の親文があった。


 けれど遠い。


 裂け目へ腕を差し込んでも、筆先が指一本分届かない。


 昔からそうだ。人生を変える言葉は、たいてい指一本ぶん遠い。机の上なら椅子を寄せれば済むが、今は椅子も机も国の底にある。


「ノエル!」


『保護』が消えた。


 回収が再開し、リゼの身体が胸まで沈む。息を詰める音とともに、彼女は俺の腰帯をつかんだまま、自分のほうへ強く引いた。


 俺の上半身が裂け目へ落ちる。


 右腕を石の縁へ絡めた。焼けた掌の皮が裂けても、やはり痛みはない。代わりにぬるい血だけが手首を伝い、金の文字へ落ちた。血に反応したわけでもなく、原文は冷淡に流れ続ける。


「届くか!」


「もう少し!」


「これ以上は私も沈む!」


「それは困る。君がいないと帰り道が分からない」


「今、口説くな!」


「道案内の話だ!」


 リゼがさらに俺を押し込んだ。襟が喉へ食い込み、視界いっぱいに金色の光が広がる。


 筆先が親文へ触れた。


 朱墨が金色の溝へ吸い込まれる。魔力の光など出ない。俺には出せない。奇跡らしい音も、都合のいい力も湧いてこない。ただ震える左手で一語の形を選び、最初の線から最後の払いまで書ききる。


『保護』


 金色の文字が大きく脈打った。


 リゼを巻いていた黒い文字がほどける。


 今度は戻らない。


 原文は彼女を引き込む代わりに、周囲の石を押し退けた。沈んでいた身体が床の上へ持ち上がる。俺は裂け目へ頭から落ちかけ、襟をつかまれて引き戻された。


 石床へ転がった俺の上に、リゼが倒れ込む。


 肺から息が全部出た。


 重い。


 本人に言えば、今度こそ爪で裂け目へ戻されそうなので黙っておいた。生き延びる知恵とは、勇敢に戦うことではなく、余計な感想を飲み込むことなのかもしれない。


「無事か」


「下敷きになっている点を除けば」


 リゼはすぐに身を起こした。獣化した腕、黒銀の脚、そして自分の胸を順に確かめる。濡れた毛から血と埃の匂いが立ち、荒い呼吸が徐々に静まっていった。


「私は……国の一部なのか」


 その問いだけは、騎士の声ではなかった。


 遺跡で拾わされた呪い。故意に焼かれた欠落。獣へ変わる身体。そのすべてが、建国原文へつながっていた。


 俺が軽々しく否定しても、彼女の身体に刻まれた事実は消えない。だから、せめて分からないことまで分かったふりはしたくなかった。


「分からない」


 俺は正直に答えた。


「術式の一部を負っているのは確かだ。でも、原文に構成肢と書かれているから、君が部品になるわけじゃない」


「根拠は?」


「君はさっき、自分を助けるために俺の腕を捨てるなと言った。部品は、隣の部品の心配をしない」


 濡れた金色の目が俺を見る。


「それに、国が人間と部品を間違えたなら、直されるべきなのは人間のほうじゃない。国の文章だ」


 リゼは短く息を吐いた。


 笑いではない。泣き声でもない。ただ、自分の身体へもう一度立つための息だった。


「なら、最後まで直してもらう」


「あまり大量に持ち込まれると困る。俺は一語ずつしか扱えない」


「一語ずつでいい」


 彼女は獣の手で、俺を立たせた。爪は恐ろしい形をしているのに、焼けた右手へ触れないよう力を加減していた。


 ピピが赤く染まった顔を振り、俺たちの間へ墨を飛ばす。


「二人とも、安心するのはまだ早いのら!」


 原文の流れが再び明るくなった。


 だが今度は、リゼを引く文字ではない。書き換えた『保護』が、国の中にあるすべての欠落名を探していた。


 一本、二本、十本。


 金の文字が枝分かれし、天井を貫いて王都の各所へ伸びていく。その大半は、同じ方向を示していた。


 光の枝が増えるたび、胸の奥が冷えていく。俺が書いた一語はリゼだけを守るための言葉ではなかった。原文が構成肢と呼ぶものを、一つ残らず拾い上げようとしている。


 表示欄へ数字が刻まれる。


『保護対象――百十三名』


 一名は、俺の隣に立つリゼ。


 残る百十二本は、全て王都治療所へ向かっていた。


(第90話へ続く)

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