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建国原文

 飛び乗ってから、考える。


 これは勇気ではない。順番を間違えただけだ。


 足場にした棚は鎖に吊られ、暗い縦穴へ降りていく。焦げた建国文書を左腕で抱えたまま、俺は床に腹這いになった。右手は焼けていて、棚の縁を握っているのかどうかさえ分からない。


 錆びた鎖が軋むたび、腹の下の板が薄く震える。下を覗いても、闇がこちらを見返すばかりだった。底が見えないというのは便利だ。落ちたあとを想像する材料が少なくて済む。


「ノエル!」


 頭上からリゼの声が落ちてきた。


 続いて、本人も落ちてきた。


「人間は声より先に来られないのか」


「次は努力する」


 黒銀の毛を広げたリゼが鎖を蹴り、棚へ着地する。重みで板が大きく傾き、俺は危うく最深層まで近道するところだった。左腕の文書だけは離さない。俺の命より高価だからではない。たぶん実際に高価だが、今それを認めると少し悲しい。


 彼女の肩にはピピがしがみついている。局長印を椅子にすると宣言していたわりに、持ってきてはいない。


「権力は捨ててきたのか」


「重かったのら」


 非常に健全な判断だった。権力は持ち運べるうちは便利だが、落下中にはただの重石になる。


 割れた床の上では、祖父さんがオズワルドの腕をねじ上げている。さすがに十五年ぶんの恨みがあると、老人の関節もよく動く。オズワルドの呻きが縦穴を追ってきたが、同情するにはこちらの手持ちが足りなかった。


「祖父さん、そいつを頼む!」


「頼まれなくても離さん! おまえは紙だけ見ていろ!」


「努力する!」


 俺もリゼの真似をして答えた。できる気はしない。紙だけを見ていれば安全だった人生など、俺は知らなかった。


 棚は降下を続ける。


 壁には古代語が刻まれていた。一定の間隔で光り、俺たちの通過を記録している。光が目の高さを横切るたび、古い金属と乾いた紙を混ぜたような匂いが濃くなった。


『返却文書、一冊』


『損傷あり』


『校正者、一名』


『護衛、一名』


『残響、一体』


 ピピが胸を張る。


「一体なのら」


「そこを誇るのか」


「一名に直してほしいのら」


「動いている文字には触れないと直せない。しかも今は右手が役立たずだ」


「左手があるのら」


「便利な予備みたいに言うな」


 左手は焦げた本を抱えている。筆も朱墨も腰の革袋に残っているが、この揺れの中で取り出せば、俺より先に筆が最深層へ着くだろう。筆だけ無事に到着しても、校正はしてくれない。道具というものは肝心なときほど持ち主を必要とする。


 リゼが俺の右腕を取った。爪を立てないよう、毛に覆われた指で慎重に手首を支える。


「指は?」


「ある」


「感覚は」


「ない」


「痛みは」


「腕の奥に少し」


「少し、か」


 彼女の鼻が動く。濡れた獣毛と血、それに焼けた革の匂いが混じっていた。俺の掌の具合は、俺より彼女のほうがよく分かっているらしい。


 感覚がないのは、痛くないという意味ではない。痛みが戻ってくる予定を、腕が黙って抱え込んでいるだけだ。そう説明すれば彼女の眉間の皺が増えるので、黙っておいた。


「戻ったら治療所だ」


「百十二人で満床じゃないか?」


「床なら空いている」


「騎士団長代理が勧める治療環境ではないな」


「患者の仕事は治ることだと、さっき誰かが言っていた」


 自分の言葉は、他人の口から戻ってくると妙に逃げ道を塞ぐ。古代語より質が悪い。こちらは一語だけ書き換えるわけにもいかなかった。


 棚が止まった。


 底ではなかった。


 縦穴の途中に、巨大な空洞が開いていた。棚が横へ滑り、暗闇の中へ運ばれていく。鎖の音が遠ざかり、代わりに空洞全体が呼吸するような低い震えが足裏へ伝わった。


 最初に聞こえたのは、水の音だった。


 いや、水ではない。


 無数の紙を、誰かが絶えずめくっている音だ。


 灯りはない。それでも空洞の全体が淡い金色に明滅していた。天井から床まで、幾重もの古代語が走っている。石に刻まれた文字ではない。光る文字列そのものが束になり、太い根のように壁を貫いていた。


 法、税、城壁、街路、水路、墓所、救済。


 焼却室で見た建国文書の項目が、ここでは互いに絡まりながら脈打っている。一つが光るたび、遠くのどこかへ命令が送り出される。


 井戸から水を汲む人間も、門の内側で眠る子供も、自分の足元をこんな文が走っているとは知らないだろう。知らずに暮らせるなら、そのほうがいい。仕組みの恐ろしさは、それを知らない者の落ち度にはならない。


 王都は石の上に建っているのではない。


 文の上に建っている。


「これが、原文……」


 リゼの声が低くなる。剣を向けるべき敵なら迷わない彼女も、相手が国そのものでは間合いを測れないらしい。


「違う」


 俺は首を振った。


 正面に浮かぶ一文を読んだ。


『建国原文は保管されない』


 その下へ、次の行が灯る。


『建国原文は、実行され続ける』


 焼却室の本は、原文を人の目で確認するために写したものだった。法や契約の根ではある。だが根そのものではない。


 ここで巡っている文字が止まれば、城壁も水路も王墓も、何をするべきか分からなくなる。石は石に戻り、水は与えられた道を忘れる。その先で最初に困るのは、権力者ではなく、逃げる馬車すら持たない人たちだ。


 表示板の『生存中』は比喩ではなかった。


 この文は、今も働いている。


「くしゅっ!」


 ピピが盛大にくしゃみをした。小さな体から文字の粒が散り、金色の明滅に紛れて消える。


「汚染なのら! 近いのら!」


「全部近い」


 四方八方が術式だ。汚染された池に落ちて、どの水滴が濡れているか聞かれているようなものだった。


 そのとき、俺の左腕の中で、焦げた本が震えた。


 表紙から細い文字の糸が伸び、床を走る光の束へつながる。腕を引いても糸は切れない。むしろ本が原文へ帰りたがるように、肘から先を強く引かれた。


『返却文書を受領』


『差異を検出』


『原文への採用を開始』


「待て」


 焦げた頁が勝手に開いた。


 焼け落ちた端から黒い文字があふれ、床へ沈んでいく。本にない部分を、原文の側でも欠落として扱うつもりだ。紙の炭化した匂いが急に濃くなり、喉の奥に苦みが貼りついた。


 焼却は止めた。


 だが、焦げた本をここへ運んだのは俺だ。


 国の原文を守ったつもりで、傷を直接届けてしまった。善意の結果が必ず善いなら、校正者など必要ない。誤りはたいてい、正しい顔をして文の中へ入ってくる。


「相変わらず、最後の一歩で罠を踏む才能だけはあるな」


 俺が言うと、リゼは剣を抜いた。


「落ち込むのはあとにしろ。どこを斬る?」


「斬るな。国が二つに分かれるかもしれない」


「面倒な紙だな」


「紙相手の仕事は任せろと言った手前、否定しづらい」


 床の文字が本の焦げを吸い上げていく。


 城壁の列から一語が消えた。続いて、水路の列が暗くなる。空洞が大きく揺れ、天井から石片が落ちた。


 リゼが俺を抱えて跳ぶ。さっきまで俺の頭があった場所へ、拳ほどの石が突き刺さった。砕けた破片が頬を打ち、遅れて冷たい汗が背を流れる。


「八つ数える間か?」


「いや、これは巡回文じゃない。採用されたら戻らない!」


「なら、何を変える!」


 命令文は床の中央を流れている。


『差異を原文へ採用する』


 変えるべきは『差異』でも『原文』でもない。焦げた部分だけを無視させれば、焼却室で本当に修正された箇所まで確かめられなくなる。


 差があることは残すべきだ。


 ただし、正しさとして受け入れさせてはいけない。


 消すのではなく、残す。傷をなかったことにすれば、同じ手がまた火をつける。文は人より長く生きるのだから、人の悪意まで忘れさせてはいけない。


「『採用』を『記録』へ変える」


 俺は左手で筆を抜いた。革袋の留め具が指に引っかかり、朱墨が一滴だけ床へ落ちる。雫は光る文字に弾かれ、血のように赤く転がった。


「触れればいいんだな」


 リゼが俺の腰を抱える。


「もう少し騎士らしい運び方はないのか」


「荷物は黙れ」


 彼女は走った。


 爪が床を蹴るたび、黒銀の毛から水滴と血が散る。流れる文字列が床から弧を描いて立ち上がる。触れられる高さにあるのは一瞬だけだ。


 ピピがリゼの肩から跳び、筆の柄へしがみついた。


「左なのら! 二つ先なのら!」


「見えてる!」


「強がりなのら!」


「それも見えてる!」


 文字列の手前で、リゼが俺を放り投げた。


 やはり荷物の扱いだった。


 腹が浮き、暗闇と金色の文字が視界の中で入れ替わる。右手は使えない。魔力もない。あるのは左手の筆と、読める一語だけだ。それで足りる仕事にするしかない。


 俺は左腕を伸ばす。筆先が『採用』の溝へ触れた。朱墨を重ね、一語だけを別の意味へ押し込む。


『記録』


 魔力の光は出ない。


 ただ朱色の線が古代語へ沈み、意味が変わる。


『差異を原文へ記録する』


 焦げた本から流れ出していた黒い文字が止まった。


 消えた城壁の一語が戻る。水路の列に光が走り、空洞の揺れが弱くなっていく。無数の頁をめくる音も、荒れた息を整えるようにゆっくりと静まった。


 原文は焦げを傷として受け入れず、起きた損傷として記録した。


 床へ落ちる寸前、リゼが俺の襟をつかんだ。首が締まり、助かった喜びより先に咳が出た。


「今のは見事だった」


「投げた本人が言うと、曲芸の感想に聞こえる」


 それでも、止められた。


 焼却室の本も、ここにある文も残った。焦げは消えない。だが、焦げたこと自体が記録になる。誰が焼こうとしたのかも、あとから証拠としてつなげられる。


 完全に元どおりにはならない。それでいい。傷のない記録より、傷の理由が読める記録のほうが、次に傷つけられる誰かを守れる。


 一つの事件には、ひとまず区切りがついた。


 そう思った直後だった。


 ピピがまたくしゃみをした。


「まだ汚染があるのら!」


 床の文字が一本だけ逆流する。


 城壁でも、水路でも、法でもない。


 それはリゼの足元へ集まり、黒銀の毛を這い上がった。彼女が剣で払おうとしても、文字は刃をすり抜ける。金色だった光は、毛の上で墨を流したような黒へ変わった。


 俺は流れてきた項目を読んだ。


『建国原文、欠落部を検出』


 続く欄に、一人の名が刻まれる。


『欠落名――リゼ・フォグレス』


 文字の束が彼女の両脚へ巻きつき、床の中へ引き込み始めた。


 リゼの爪が石を削る。俺は反射的に左手を伸ばしたが、つかめたのは濡れた黒銀の毛だけだった。


 原文はリゼを侵入者とは判定していない。


 この国から失われた、自分の一部として回収しようとしていた。


(第89話へ続く)

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