国の原文を燃やす
国の原文を燃やす。
書類嫌いの人間なら一度は夢見る言葉だろう。俺も写本局にいた頃、誤字だらけの納品目録を暖炉へ放り込みたいと思ったことはある。三度直して三度とも別の箇所を間違えた書記官ごと、というのはさすがに口へ出さなかったが。
残念ながら、今回は笑えないほうの焼却だった。
「地下へ入る近道は?」
俺が訊くと、封蝋を拾った患者が震える指を南へ向けた。青ざめた額には脂汗が浮き、息をするたび毛布の下の胸が浅く上下している。
「治療用の薬を運ぶ通路が、王宮の地下搬入口とつながってる。だが、途中に鉄扉が二つある」
「十分です。あなたは休んでください」
「でも――」
「病人の仕事は治ることだと、さっき俺が言いました。言った本人が五分で撤回すると、書類より信用がなくなる」
患者は毛布を握り、悔しそうにうなずいた。その悔しさを預かるのも、無事な人間の仕事だ。今の俺が無事に見えるかどうかについては、鏡と議論したくない。
リゼが俺の前へ背を向ける。黒銀の獣毛は雨と汗に濡れ、血と鉄の匂いが混じっていた。無理を重ねた脚がわずかに震えている。本人は隠しているつもりらしいが、背中へ乗る側にはよく分かった。
「走れるか」
「誰に訊いている」
「二十一歳の負傷者」
「乗れ、十九歳の重傷者」
反論の余地がない。年上の負傷者は、年下の負傷者より口が強かった。俺は左腕で彼女の首へしがみついた。右手は熱傷で腫れ、指を曲げるだけで皮膚の奥まで痛む。
ピピが俺の襟へ潜り込む。
「ピピは無傷の美文字なのら」
「さっき輪郭が半分ほど透けていたぞ」
「繊細な美文字なのら」
そういうことにして、リゼは駆け出した。
治療所の裏庭を抜け、薬箱を積む石段を下る。揺れるたび、俺の右手に鈍い痛みが走った。地下通路には湿った薬草と獣毛、それから次第に濃くなる焦げた紙の臭いが満ちていた。
紙の焦げる臭いは、妙に甘い。
だから嫌いだ。取り返しのつかないものが失われているのに、鼻だけはそれを心地よいものと勘違いする。
一つ目の鉄扉は開いていた。
二つ目の前には、黒い文字が浮いている。
『焼却中につき、接近者を排除する』
扉の左右から鉄槍がせり出した。風を裂く音に、リゼが身を沈める。一本が頭上を通り、濡れた毛を数本刈った。切れた毛が俺の頬へ張りつく。
「止められるか!」
「俺に魔法を期待するな! 扉に説教するだけだ!」
説教には相手の胸ぐらが要る。この場合は、扉の文字だった。
リゼが二本目を爪で弾く。火花が散り、甲高い音が狭い通路を何度も往復した。その一瞬に俺を扉の前へ押し出す。着地に失敗して膝を打ったが、格好を気にする観客はいない。
ピピが襟から転がり落ち、文字列の端を小さな両腕で押さえた。黒い命令の流れに触れた輪郭が、紙を水へ浸したように揺らぐ。
「ここが命令の継ぎ目なのら!」
右手では筆を握れない。俺は左手で朱墨筆を抜き、『排除』の一語へ触れた。
消すことはできない。できるのは、流れの中へ別の意味を一語だけ差し込むことだ。一語で救える範囲は狭く、一語で壊せる範囲は腹立たしいほど広い。
『案内』
槍が止まり、鉄扉が内側へ開いた。
床に埋め込まれた青い導線が灯り、焼却室までの道を示す。侵入者を刺すはずだった設備は、急に親切な道案内になった。役所の態度も一語でこう変われば、窓口で半日待たされる人間が減るのだが。
「戻る前に行け!」
外側へ施した修正は長く保たない。背後で鉄槍がかすかに震え始める。元の命令が、異物を吐き出そうとしているのだ。
俺たちは青い線を追った。
王宮地下の焼却室は、写本局の記録庫より広かった。
円形の壁を埋める棚に、分厚い建国文書が収められている。法、税、城壁、水路、王位、領地。今の国を支える文書の親にあたるものばかりだ。革表紙は年月を吸って黒ずみ、金具には緑青が浮いている。それでも、記された命令だけは眠らずに生きていた。
その棚すべてへ、床の焼却炉から赤い文字列が伸びていた。
紙はまだ燃えていない。
だが、頁の縁は茶色く縮れ、文字の一部が熱で浮き上がっている。乾いた紙が身をよじる音が、無数の小さな歯ぎしりのように聞こえた。あと少し遅ければ、国の決まりがまとめて煙になっていた。
炉の前にオズワルド・ケインが立っていた。
濡れた局長服の裾には灰がつき、右手には黒い封蝋の押された許可文がある。治療所で拾われた欠片は、やはりあれから割れ落ちたものらしい。
「早かったな、ノエル」
「百十二人を檻へ入れておけば、もう少しかかる予定でしたか」
「彼らを選んだのはお前だ」
「ええ。だから間に合いました。あなたは人間を百十二人並べても、紙一枚ぶんの時間しか稼げなかった」
オズワルドの口元が歪んだ。怒ったというより、計算が合わない書類を見た顔だった。昔から彼は、人間を数字へ直すと安心する。
「原文は危険だ。読めもしない古代の規則が、今の王都を縛り続けている。複製を正しい文として残せば、管理できる」
「あなたが?」
「読める者が一人しかいない国を、その一人の気分に任せろというのか」
痛いところを選ぶ才能だけは、局長時代から衰えていない。
俺が間違えれば、多くの人間が巻き込まれる。俺が死ねば、読める者はいなくなる。その仕組みがまともだとは、俺も思っていない。眠れない夜には、自分の読み間違いで誰かの家が潰れる光景まで、頼んでもいないのに頭が作ってくれる。
だが。
「だから、読めない人間が燃やしていいことにはならない」
「お前が手放さないからだ!」
「手放す相手は選びます。少なくとも、罪を百十二枚刷ろうとした男には渡さない」
オズワルドが許可文を炉の受け台へ叩きつけた。
黒い封蝋が光り、赤い文字が棚へ駆け上がる。熱気が膨れ、肺の中まで乾いた。
『局長権限を確認』
『建国文書焼却――実行』
棚の最下段から炎が上がった。
リゼが床を蹴る。
壁から二本の鉄腕が突き出し、彼女へ振り下ろされた。リゼは一本を肩で受け、もう一本へ噛みつく。鈍い衝撃が床まで伝わり、金属が獣牙の間で軋んだ。
「ノエル、行け!」
俺は炉へ走った。
走ったつもりだった。実際には右足をもつれさせ、台へ腹から突っ込んだ。肺の空気が一度に抜ける。英雄の突撃としては採点不能だが、写本係は目的の文字へ届けばいい。
許可文は炎に包まれている。
その下を命令文が巡っていた。
『許可証を焼却対象より除外する』
命令を止める一語はない。『焼却』を別の語へ直しても、巡回する親文がすぐ戻す。棚の文書すべてを一冊ずつ修正する時間もない。
なら、命令しているものを命令の中へ入れる。
俺は燃える許可文へ右手を押しつけた。
皮膚が焼けた。
痛みは最初、針の束だった。次の瞬間には熱い鉄を骨へ流し込まれたようになり、喉から自分のものとは思えない声が漏れる。焦げた紙の臭いへ、焦げた肉の臭いが混じった。
左手だけでは、炎にめくれる紙を押さえられない。魔力ゼロの人間に残された切り札は、だいたい痛みを我慢することだ。実に貧乏くさい。
「八つ数える間だけ保て!」
「八十でも保つ!」
リゼが鉄腕を床へ組み伏せる。肩から血が散り、黒銀の獣毛を濡らした。強がりだと分かっている。だが、こちらも八つで終わらせるしかない。
一。二。痛みで三を忘れた。
俺は左手の筆を走らせた。
『除外』へ重ねる一語は――『指定』。
朱墨が古代語の溝へ沈んだ。
『許可証を焼却対象に指定する』
炎の向きが変わった。
棚へ伸びていた赤い文字が一斉に引き返し、俺の右手の下へ集まる。黒い封蝋が弾け、局長印が真っ赤に燃えた。
「やめろ!」
オズワルドが飛び込んでくる。
その襟を、黒銀の腕が横から掴んだ。
リゼは人に近い姿へ戻りながら、彼を床へ叩き伏せた。片頬には獣毛が残り、息は荒い。血と汗に濡れた髪が頬へ張りついている。それでも押さえる腕は揺れない。
許可文が燃え尽きた。
承認を失った焼却炉が沈黙する。棚の炎も消え、焦げた頁の端から細い煙だけが上がった。耳の奥にはまだ轟音が残っているのに、焼却室は急に、墓所のように静かになった。
俺は右手を離した。掌の皮膚は赤黒くなり、指先の感覚がない。痛くないのではない。痛みを伝える側が、仕事を放棄したらしい。
「紙一枚を守るために、その手を捨てるのか」
床へ押さえられたオズワルドが吐き捨てた。
「一枚じゃない」
俺は棚を見上げた。
「ここに名前を書かれた人間全員です。紙は燃えても悲鳴を上げない。だから、弱い人間の記録から先に燃やしたがる奴がいる」
焦げかけた頁を左手で開く。救済、徴収、居住、処罰。正しい文ばかりではない。人を材料として扱う古い命令も残っている。
守ることと、従うことは同じではない。残すことと、許すことも違う。
「間違った原文なら、読んで間違いだと残す。書き換えるべき一語を探す。燃やして最初からなかったことにはしない」
オズワルドは答えなかった。
リゼが彼の局長印を外し、炉から離れた石床へ投げる。硬い音を立てて転がった印へ、ピピが駆け寄る。印の上へ座り込み、両脚でしっかり挟んだ。
「局長捕獲なのら。これはピピの椅子にするのら」
「座り心地が悪そうだな」
「権力とはそういうものなのら」
十九年しか生きていない俺より、よほど達観している。
焼却は止まった。
百十二人は治療所に残り、建国文書も棚に残った。失われたものは戻らないが、今夜これ以上、誰かの存在を紙の都合で消させずに済んだ。
それだけで十分だと思いたかった。
俺は焦げた最初の一冊を閉じようとした。
そのとき、頁の奥で歯車が噛み合う音がした。
焼却の熱で溶けた黒塗料が、粘つく雫となって表紙を流れ落ちる。その下から、隠されていた古代語が現れた。
『これは原文ではない』
一瞬、意味を読み違えたのかと思った。だが文字は変わらず、こちらを嘲るように表紙へ残っている。
続く行を読んだ瞬間、足元の石床が左右へ割れた。
腹へ響く低い音とともに、棚そのものが鎖に吊られ、暗い縦穴へゆっくり降下を始める。底は見えない。冷たい風だけが下から吹き上がり、焼けた右手を容赦なく撫でた。
表示板に、移送先が一行だけ刻まれた。
『建国原文――王都最深層、生存中』
生存中。
文書に使うには、ひどく不穏な言葉だった。
俺は焦げた一冊を抱え、降りていく棚へ飛び乗った。
(第88話へ続く)




