↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

86/97

百十二人の患者

 獣の背に乗るのは、速い。


 そして痛い。


 リゼが石畳を蹴るたび、俺の尻と胃袋が交互に置き去りになる。雨を含んだ黒銀の毛は冷たく、その奥から獣の熱と血の匂いが立ち上っていた。しがみつく指先はとうに痺れ、歯の根まで石畳の継ぎ目を数えている。


「舌を噛むな」


「先に言ってくれ!」


「今言った」


 騎士としては正しい。乗り物としては不親切だった。たぶん鞍と手綱を要求すれば、もっと不親切な返事が爪つきで返ってくる。


 俺の襟元に潜り込んでいたピピが、上下に跳ねながら抗議する。


「ピピのおなかも迷子なのら!」


「見つけたら俺のも拾ってくれ!」


 治療所が見えた。


 白い石壁の建物を、地面から生えた鉄鎖が幾重にも取り囲んでいる。扉だけではない。窓、通気口、薬品搬入口に至るまで、黒い鎖が食い込み、雨に濡れた壁を締め上げていた。


 鎖の表面には赤い文字が走っている。


『第一号令状、執行中』


『対象者、百十二名』


『退出を禁ず』


 中から扉を叩く音がした。拳だけでなく、何か硬い器具まで使っているらしい。鈍い音に、かすかな悲鳴が重なる。


「開けてくれ!」


「患者がいるんだ! 熱が下がらない!」


「鎖が寝台まで来てる!」


 百十二人は王墓の下から救い出されたばかりだ。立てない者も、まともに水を飲めない者もいる。そんな人間をまとめて収容するとは、実に効率がいい。


 死なせるには、だが。


 怒りは腹の底で冷えた。熱くなれるほど、こちらには余裕がない。俺にあるのは朱墨の筆一本と、役に立つ場面がひどく限定された読み書きだけだ。


 リゼが止まりきる前に俺は背から飛び降りた。着地には失敗し、膝と両手を石畳についた。水たまりの泥が袖へ跳ねる。格好より骨が折れていないことを優先する。俺は十九歳にして、見栄より実益を学びつつあった。


「令状はどこだ」


 正面扉の脇に、真鍮の命令筒がある。蓋には王立写本局の局長印が押され、隙間から羊皮紙の端が見えていた。


 だが、その周囲を鉄鎖が守っている。命令筒へ近づくものを敵と見なしているらしく、鎖の輪が蛇の鎌首のように持ち上がった。


 リゼが前脚で一本を払った。鎖は石壁へ叩きつけられたが、甲高い音を上げて跳ね返り、彼女の脚へ巻きつこうとする。


「硬いな」


「感想が熊寄りになってるぞ」


「熊よりは上品に壊す」


 爪が振り下ろされ、鎖の留め具が三つまとめて弾け飛んだ。石壁の欠片まで飛んできた。十分に熊だった。


 しかし切れた鎖の断面から、赤い文字が糸のように伸び、新しい輪を作る。床を擦る音とともに、元と同じ太さの鎖へ編み直された。


 命令が生きている限り、金属だけ壊しても戻る。


 俺は扉の文字を読んだ。


 治療所にもともと刻まれていたのは、感染症の患者を一時的に隔離し、内外の出入りを管理する術式だ。医師と治療係の判断を助け、患者を守るための、古くてもまっとうな仕組みだった。


 そこへ令状が割り込み、百十二人を『罪人』として登録している。


 医者のための仕組みを牢獄に変えたのだ。


 道具は悪くない。使い方が悪い。


 人間の悪意は、いつだって設備より応用力が高い。教本に載せるなら、きっと試験に出る。


「外側の文字を直しても、令状から戻されるのら」


 ピピが鎖へ鼻を近づけ、盛大にくしゃみをした。小さな文字が三粒ほど飛び散り、慌てて自分の頬へ戻っていく。


「何秒だ」


「八つ数えるくらいなのら」


「十分だ」


「何をする」


 リゼが身を低くした。獣の肩から雨粒が落ちる。


「扉の上まで投げてくれ」


「頭からか、足からか」


「そこに選択肢があるのが怖いんだが」


 答える前に襟首を咥えられた。


 次の瞬間、俺の体は宙に浮いた。


 胃袋だけは先ほど落としたままだったらしく、悲鳴は喉でひっくり返った。


 正面扉の上を赤い文字が巡っている。発動中の術式は、こうして命令の意味を表面へ露出させる。俺にできるのは、その瞬間に触れ、一語だけ別の意味へ押し込むことだけだ。


 魔力はない。光る杖も、炎の球も出ない。


 代わりに筆はある。


 空中で朱墨の筆を抜き、赤い古代語へ押し当てた。狙いが指一本ぶんずれれば、俺はただ扉へ顔から突っ込む。


『罪人』


 その一語へ、別の語を重ねる。


『患者』


 着地はリゼが受け止めてくれた。爪のある腕に抱えられると、助かった安心と食われる不安が同時に来る。雨に濡れた毛は冷たいのに、その下の体温は火傷しそうなほど高かった。


 扉の赤い文字が揺らいだ。


『登録患者、百十二名』


『診療を妨げる障害を除去せよ』


 鉄鎖が一斉に止まった。


「今だ!」


 リゼが扉へ突進する。鎖は患者の診療を妨げる障害と判定され、自分から錠を外し始めた。金属の輪が次々に床へ落ち、石を打つ。


 八つ数える間だけだ。


 一。


 リゼの肩が扉を押し開ける。消毒薬と汗と血の匂いが、湿った空気と一緒に噴き出した。


 二。


 俺たちは中へ滑り込む。


 三。


 廊下に横たわる人々の足首から鎖が離れる。痩せた足に赤黒い跡が残った。


 四。


 治療係たちが寝台を奥へ運ぶ。泣いている暇もなく、互いに短い指示を飛ばしている。


 五。


 ピピが「こっちなのら!」と命令筒から伸びる文字の流れを追う。


 六。


 俺は受付台を飛び越えた。行儀は悪いが、受付係は鎖から解放されたばかりで、苦情を言う余裕がなかった。あとで請求書が来ないことを祈る。


 七。


 壁際の薬品棚をリゼが引き倒す。瓶がぶつかり合い、苦い薬草の香りが濃くなる。その裏に、令状を収めた鉄箱があった。


 八。


 赤い文字が戻った。


『罪人、百十二名』


 外れかけた鎖が跳ね上がる。


 一本が俺の右手首へ巻きついた。熱傷の上から締め上げられ、痛みが骨まで噛みつく。息が詰まり、視界が白くなった。


「ノエル!」


「箱を!」


 リゼが鉄箱の蓋へ爪を食い込ませる。留め金が軋んだが、局長印の術式が蓋を固定している。黒い封蝋の上で、赤い文字が何重にも絡み合っていた。


 俺は鎖に引かれながら、左手で筆を握った。利き手でなくても字は書ける。美しさは期待するな。写本係を辞めた男の字に、今さら品評会は必要ない。


 蓋の文字を書き換えることはできる。だが、外側の命令と同じで、元の令状が中にある限り戻される。


 必要なのは羊皮紙へ直接触れることだ。


「開けられるか!」


「上品には無理だ」


「今日は熊でいい!」


 リゼの全身に黒銀の獣毛が広がった。骨が軋む音がし、床板が爪の下で割れる。獣化のたびに彼女が払う痛みを、俺は知っている。だから軽々しく頼みたくはなかった。


 それでも今は、百十二人の命が向こう側にある。


 リゼは両腕で鉄箱を挟み、そのまま左右へ引き裂いた。


 金属板が悲鳴を上げ、局長印ごと蓋が割れた。破片が床へ突き刺さり、焦げた封蝋の臭いが鼻を刺す。


 中に一枚目の令状があった。


 百十二人の名が、罪状の下に細かく並んでいる。一人ずつ生きている人間を、紙の上では同じ大きさの文字へ揃えていた。


 鎖が俺を引き倒した。頬が床へ当たり、口の中に血の味が広がる。羊皮紙まで指一本ぶん届かない。


 届かない距離は、俺にとって世界の果てと同じだ。


 俺は文字を読める。


 だが触れられなければ、ただ事情に詳しい無力な男でしかない。そんな男は役所にいくらでもいる。俺まで仲間入りする必要はなかった。


「ピピ!」


「はいなのら!」


 ピピが文字の粒になり、床を走った。黒い点と線が隙間を抜け、羊皮紙の端へ潜り込む。そこで小さな体を元へ戻すと、紙がかすかに持ち上がった。


 指一本ぶんが、半分になる。


 俺は肩が抜けるほど腕を伸ばした。鎖が熱傷へ食い込み、筆を握る左手まで震える。


 筆先が、令状の命令文へ触れた。


『記載された者を罪人として収容せよ』


 罪状そのものは消せない。


 書かれた嘘も、押された印も、最初からなかったことにはできない。俺の力は便利な奇跡ではない。一語を変えれば、残りの文章はすべてそのまま残る。


 なら、せめてこの建物が彼らを何として扱うかを変える。


 俺は『罪人』へ朱を重ねた。


『患者』


 羊皮紙が大きく波打った。


 手首の鎖がほどける。


 廊下の奥から、百を超える金属音が続いた。寝台を縛っていた鎖が床へ落ち、窓を塞いでいた鉄格子が上がる。差し込んだ灰色の光の中を埃が舞った。


 薬草と汗と血のこもった空気が、開いた窓から雨の匂いへ押し流された。


『患者、百十二名』


『治療を継続せよ』


 今度の文字は戻らなかった。


 俺は床へ仰向けになった。右手は痛みで震え、リゼに引き裂かれた鉄箱の破片がすぐ横へ刺さっている。あと少し位置が違えば、治療所の患者が百十三人になるところだった。


「上品だったな」


「次はおまえを箱に入れて同じことをする」


「褒めたのに」


 リゼは獣の腕で俺を起こした。濡れた毛、鉄、薬草、それに少し焦げた朱墨の匂いがした。決して快適ではない。だが、生きている者たちの匂いだった。


 治療係が人数を数え始めた。


 百九。


 百十。


 百十一。


 最後の一人は、廊下の隅でほかの患者へ自分の毛布をかけていた。自分も壁に手をつかなければ立っていられないのに、先に他人の肩を包んでいた。


「百十二」


 報告を聞いて、俺はようやく息を吐いた。肺の奥に溜まっていた冷たいものが、少しだけ抜けていく。


 全員いる。


 全員、生きている。


「俺たちは、まだ罪人なのか」


 寝台の一人が訊いた。乾いた声だった。希望を口にして、それをまた奪われるのを恐れている声でもあった。


 大丈夫だと即答できれば格好がついた。だが、紙にある罪状は残っている。都合のいい慰めで、それまで嘘にしてはいけない。弱っている相手ほど、耳当たりのいい嘘を渡すのは簡単だ。


「令状の罪状は残っています」


 周囲の顔が強張る。毛布を握る指に力が入った。


「でも、あれは証拠も本人の同意もないまま刷られた文書です。俺は読んだ。複製盤も止めた。原本も補修記録も封印してあります。あなたたちが罪人だという意味にはならない」


「じゃあ、俺たちは何だ」


「患者です」


 俺は朱の残る令状を持ち上げた。震える右手ではなく、左手で支える。


「少なくとも、治療所にいる間は。病人の仕事は治ることです。書類と喧嘩するのは、元写本係に任せてください。俺は人間より紙を相手にするほうが、少しだけ得意なので」


 誰かが小さく笑った。


 笑うだけで咳き込み、隣の人間に背をさすられていた。それでも、さっきまで鎖の音しかなかった場所に、人の声が戻った。泣く声も、治療係を呼ぶ声も、水を求める声もある。


 どれも鎖よりずっとましだった。


 一つは直った。


 百十二人を閉じ込めた命令は、百十二人を治療する命令になった。


 そのとき、俺の袖を弱い力が引いた。


 毛布を配っていた最後の一人だった。震える手に、黒い封蝋の欠片を握っている。雨靴で踏まれたのか、縁が欠けて泥がついていた。


「これを……令状を入れた男が落とした」


 封蝋にはオズワルド・ケインの局長印がある。裏側には、別の許可文が刻まれていた。


『王宮地下、建国文書焼却許可』


 喉の奥に残っていた血の味が、急に濃くなった。


 建国文書は、この国の法と契約が何を根にしているかを示す原文だ。そこが焼かれれば、あとに残るのはオズワルドが刷った複製と、彼に都合よく直された言葉だけになる。


 血の気が引いた。


「オズワルドはどこへ?」


「あの男は、鎖が閉じるのを見てすぐ出ていった。こう言ってた」


 患者は胸を押さえて息を整え、聞いた言葉をそのまま返した。


「『読み手は百十二人を選ぶ。だからその間に、国の原文を燃やす』って」


(第87話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。