百十二人の患者
獣の背に乗るのは、速い。
そして痛い。
リゼが石畳を蹴るたび、俺の尻と胃袋が交互に置き去りになる。雨を含んだ黒銀の毛は冷たく、その奥から獣の熱と血の匂いが立ち上っていた。しがみつく指先はとうに痺れ、歯の根まで石畳の継ぎ目を数えている。
「舌を噛むな」
「先に言ってくれ!」
「今言った」
騎士としては正しい。乗り物としては不親切だった。たぶん鞍と手綱を要求すれば、もっと不親切な返事が爪つきで返ってくる。
俺の襟元に潜り込んでいたピピが、上下に跳ねながら抗議する。
「ピピのおなかも迷子なのら!」
「見つけたら俺のも拾ってくれ!」
治療所が見えた。
白い石壁の建物を、地面から生えた鉄鎖が幾重にも取り囲んでいる。扉だけではない。窓、通気口、薬品搬入口に至るまで、黒い鎖が食い込み、雨に濡れた壁を締め上げていた。
鎖の表面には赤い文字が走っている。
『第一号令状、執行中』
『対象者、百十二名』
『退出を禁ず』
中から扉を叩く音がした。拳だけでなく、何か硬い器具まで使っているらしい。鈍い音に、かすかな悲鳴が重なる。
「開けてくれ!」
「患者がいるんだ! 熱が下がらない!」
「鎖が寝台まで来てる!」
百十二人は王墓の下から救い出されたばかりだ。立てない者も、まともに水を飲めない者もいる。そんな人間をまとめて収容するとは、実に効率がいい。
死なせるには、だが。
怒りは腹の底で冷えた。熱くなれるほど、こちらには余裕がない。俺にあるのは朱墨の筆一本と、役に立つ場面がひどく限定された読み書きだけだ。
リゼが止まりきる前に俺は背から飛び降りた。着地には失敗し、膝と両手を石畳についた。水たまりの泥が袖へ跳ねる。格好より骨が折れていないことを優先する。俺は十九歳にして、見栄より実益を学びつつあった。
「令状はどこだ」
正面扉の脇に、真鍮の命令筒がある。蓋には王立写本局の局長印が押され、隙間から羊皮紙の端が見えていた。
だが、その周囲を鉄鎖が守っている。命令筒へ近づくものを敵と見なしているらしく、鎖の輪が蛇の鎌首のように持ち上がった。
リゼが前脚で一本を払った。鎖は石壁へ叩きつけられたが、甲高い音を上げて跳ね返り、彼女の脚へ巻きつこうとする。
「硬いな」
「感想が熊寄りになってるぞ」
「熊よりは上品に壊す」
爪が振り下ろされ、鎖の留め具が三つまとめて弾け飛んだ。石壁の欠片まで飛んできた。十分に熊だった。
しかし切れた鎖の断面から、赤い文字が糸のように伸び、新しい輪を作る。床を擦る音とともに、元と同じ太さの鎖へ編み直された。
命令が生きている限り、金属だけ壊しても戻る。
俺は扉の文字を読んだ。
治療所にもともと刻まれていたのは、感染症の患者を一時的に隔離し、内外の出入りを管理する術式だ。医師と治療係の判断を助け、患者を守るための、古くてもまっとうな仕組みだった。
そこへ令状が割り込み、百十二人を『罪人』として登録している。
医者のための仕組みを牢獄に変えたのだ。
道具は悪くない。使い方が悪い。
人間の悪意は、いつだって設備より応用力が高い。教本に載せるなら、きっと試験に出る。
「外側の文字を直しても、令状から戻されるのら」
ピピが鎖へ鼻を近づけ、盛大にくしゃみをした。小さな文字が三粒ほど飛び散り、慌てて自分の頬へ戻っていく。
「何秒だ」
「八つ数えるくらいなのら」
「十分だ」
「何をする」
リゼが身を低くした。獣の肩から雨粒が落ちる。
「扉の上まで投げてくれ」
「頭からか、足からか」
「そこに選択肢があるのが怖いんだが」
答える前に襟首を咥えられた。
次の瞬間、俺の体は宙に浮いた。
胃袋だけは先ほど落としたままだったらしく、悲鳴は喉でひっくり返った。
正面扉の上を赤い文字が巡っている。発動中の術式は、こうして命令の意味を表面へ露出させる。俺にできるのは、その瞬間に触れ、一語だけ別の意味へ押し込むことだけだ。
魔力はない。光る杖も、炎の球も出ない。
代わりに筆はある。
空中で朱墨の筆を抜き、赤い古代語へ押し当てた。狙いが指一本ぶんずれれば、俺はただ扉へ顔から突っ込む。
『罪人』
その一語へ、別の語を重ねる。
『患者』
着地はリゼが受け止めてくれた。爪のある腕に抱えられると、助かった安心と食われる不安が同時に来る。雨に濡れた毛は冷たいのに、その下の体温は火傷しそうなほど高かった。
扉の赤い文字が揺らいだ。
『登録患者、百十二名』
『診療を妨げる障害を除去せよ』
鉄鎖が一斉に止まった。
「今だ!」
リゼが扉へ突進する。鎖は患者の診療を妨げる障害と判定され、自分から錠を外し始めた。金属の輪が次々に床へ落ち、石を打つ。
八つ数える間だけだ。
一。
リゼの肩が扉を押し開ける。消毒薬と汗と血の匂いが、湿った空気と一緒に噴き出した。
二。
俺たちは中へ滑り込む。
三。
廊下に横たわる人々の足首から鎖が離れる。痩せた足に赤黒い跡が残った。
四。
治療係たちが寝台を奥へ運ぶ。泣いている暇もなく、互いに短い指示を飛ばしている。
五。
ピピが「こっちなのら!」と命令筒から伸びる文字の流れを追う。
六。
俺は受付台を飛び越えた。行儀は悪いが、受付係は鎖から解放されたばかりで、苦情を言う余裕がなかった。あとで請求書が来ないことを祈る。
七。
壁際の薬品棚をリゼが引き倒す。瓶がぶつかり合い、苦い薬草の香りが濃くなる。その裏に、令状を収めた鉄箱があった。
八。
赤い文字が戻った。
『罪人、百十二名』
外れかけた鎖が跳ね上がる。
一本が俺の右手首へ巻きついた。熱傷の上から締め上げられ、痛みが骨まで噛みつく。息が詰まり、視界が白くなった。
「ノエル!」
「箱を!」
リゼが鉄箱の蓋へ爪を食い込ませる。留め金が軋んだが、局長印の術式が蓋を固定している。黒い封蝋の上で、赤い文字が何重にも絡み合っていた。
俺は鎖に引かれながら、左手で筆を握った。利き手でなくても字は書ける。美しさは期待するな。写本係を辞めた男の字に、今さら品評会は必要ない。
蓋の文字を書き換えることはできる。だが、外側の命令と同じで、元の令状が中にある限り戻される。
必要なのは羊皮紙へ直接触れることだ。
「開けられるか!」
「上品には無理だ」
「今日は熊でいい!」
リゼの全身に黒銀の獣毛が広がった。骨が軋む音がし、床板が爪の下で割れる。獣化のたびに彼女が払う痛みを、俺は知っている。だから軽々しく頼みたくはなかった。
それでも今は、百十二人の命が向こう側にある。
リゼは両腕で鉄箱を挟み、そのまま左右へ引き裂いた。
金属板が悲鳴を上げ、局長印ごと蓋が割れた。破片が床へ突き刺さり、焦げた封蝋の臭いが鼻を刺す。
中に一枚目の令状があった。
百十二人の名が、罪状の下に細かく並んでいる。一人ずつ生きている人間を、紙の上では同じ大きさの文字へ揃えていた。
鎖が俺を引き倒した。頬が床へ当たり、口の中に血の味が広がる。羊皮紙まで指一本ぶん届かない。
届かない距離は、俺にとって世界の果てと同じだ。
俺は文字を読める。
だが触れられなければ、ただ事情に詳しい無力な男でしかない。そんな男は役所にいくらでもいる。俺まで仲間入りする必要はなかった。
「ピピ!」
「はいなのら!」
ピピが文字の粒になり、床を走った。黒い点と線が隙間を抜け、羊皮紙の端へ潜り込む。そこで小さな体を元へ戻すと、紙がかすかに持ち上がった。
指一本ぶんが、半分になる。
俺は肩が抜けるほど腕を伸ばした。鎖が熱傷へ食い込み、筆を握る左手まで震える。
筆先が、令状の命令文へ触れた。
『記載された者を罪人として収容せよ』
罪状そのものは消せない。
書かれた嘘も、押された印も、最初からなかったことにはできない。俺の力は便利な奇跡ではない。一語を変えれば、残りの文章はすべてそのまま残る。
なら、せめてこの建物が彼らを何として扱うかを変える。
俺は『罪人』へ朱を重ねた。
『患者』
羊皮紙が大きく波打った。
手首の鎖がほどける。
廊下の奥から、百を超える金属音が続いた。寝台を縛っていた鎖が床へ落ち、窓を塞いでいた鉄格子が上がる。差し込んだ灰色の光の中を埃が舞った。
薬草と汗と血のこもった空気が、開いた窓から雨の匂いへ押し流された。
『患者、百十二名』
『治療を継続せよ』
今度の文字は戻らなかった。
俺は床へ仰向けになった。右手は痛みで震え、リゼに引き裂かれた鉄箱の破片がすぐ横へ刺さっている。あと少し位置が違えば、治療所の患者が百十三人になるところだった。
「上品だったな」
「次はおまえを箱に入れて同じことをする」
「褒めたのに」
リゼは獣の腕で俺を起こした。濡れた毛、鉄、薬草、それに少し焦げた朱墨の匂いがした。決して快適ではない。だが、生きている者たちの匂いだった。
治療係が人数を数え始めた。
百九。
百十。
百十一。
最後の一人は、廊下の隅でほかの患者へ自分の毛布をかけていた。自分も壁に手をつかなければ立っていられないのに、先に他人の肩を包んでいた。
「百十二」
報告を聞いて、俺はようやく息を吐いた。肺の奥に溜まっていた冷たいものが、少しだけ抜けていく。
全員いる。
全員、生きている。
「俺たちは、まだ罪人なのか」
寝台の一人が訊いた。乾いた声だった。希望を口にして、それをまた奪われるのを恐れている声でもあった。
大丈夫だと即答できれば格好がついた。だが、紙にある罪状は残っている。都合のいい慰めで、それまで嘘にしてはいけない。弱っている相手ほど、耳当たりのいい嘘を渡すのは簡単だ。
「令状の罪状は残っています」
周囲の顔が強張る。毛布を握る指に力が入った。
「でも、あれは証拠も本人の同意もないまま刷られた文書です。俺は読んだ。複製盤も止めた。原本も補修記録も封印してあります。あなたたちが罪人だという意味にはならない」
「じゃあ、俺たちは何だ」
「患者です」
俺は朱の残る令状を持ち上げた。震える右手ではなく、左手で支える。
「少なくとも、治療所にいる間は。病人の仕事は治ることです。書類と喧嘩するのは、元写本係に任せてください。俺は人間より紙を相手にするほうが、少しだけ得意なので」
誰かが小さく笑った。
笑うだけで咳き込み、隣の人間に背をさすられていた。それでも、さっきまで鎖の音しかなかった場所に、人の声が戻った。泣く声も、治療係を呼ぶ声も、水を求める声もある。
どれも鎖よりずっとましだった。
一つは直った。
百十二人を閉じ込めた命令は、百十二人を治療する命令になった。
そのとき、俺の袖を弱い力が引いた。
毛布を配っていた最後の一人だった。震える手に、黒い封蝋の欠片を握っている。雨靴で踏まれたのか、縁が欠けて泥がついていた。
「これを……令状を入れた男が落とした」
封蝋にはオズワルド・ケインの局長印がある。裏側には、別の許可文が刻まれていた。
『王宮地下、建国文書焼却許可』
喉の奥に残っていた血の味が、急に濃くなった。
建国文書は、この国の法と契約が何を根にしているかを示す原文だ。そこが焼かれれば、あとに残るのはオズワルドが刷った複製と、彼に都合よく直された言葉だけになる。
血の気が引いた。
「オズワルドはどこへ?」
「あの男は、鎖が閉じるのを見てすぐ出ていった。こう言ってた」
患者は胸を押さえて息を整え、聞いた言葉をそのまま返した。
「『読み手は百十二人を選ぶ。だからその間に、国の原文を燃やす』って」
(第87話へ続く)




