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百十一枚の罪

 リゼは走りながら、三度進路を変えた。


「人の匂いじゃないのか?」


「熱した鉄、機械油、古い羊皮紙。それと局長室で使っていた黒塗料だ」


 雨に濡れた獣毛の匂いを残し、彼女は地下通路を駆けていく。湿った空気の中でも、それぞれの匂いを嗅ぎ分けているらしい。


 俺の鼻にわかるのは、黴と埃、それから自分の汗くらいだった。どれも追跡には役立たない。写本係の身体は、こういうとき驚くほど専門性が低い。


 俺はその後ろを必死で追った。


 騎士と写本係を同じ速度で走らせるのは、羊皮紙に馬車を追わせるようなものだ。しかも羊皮紙のほうには、つい先ほどまで鉄枷がついていた。足首は一歩ごとに鈍く痛み、肺は早くも辞職を申し出ている。


「ノエル、遅いのら!」


「足が二本しかないんだ!」


「リゼも二本なのら!」


「性能の話をしている!」


 肩の上でピピが身を乗り出し、角を指した。文字でできた小さな身体が、走るたびに耳元で紙片のような音を立てる。


 通路の先から、鎖の回る音がする。


 規則正しく、重い。急ぐ者の足音ではなく、人間の都合など知らない機械の音だ。


 壁を貫く搬送溝の中を、鉄の台車が上へ引き上げられていた。その荷台に、切り取られた複製盤が載っている。赤熱した切断面から細い煙が尾を引き、焦げた塗料の臭いが喉へ刺さった。


「誰かが運んでいるんじゃない」


 追いついた祖父さんが、息を切らしながら言った。骨だけになった右腕を庇い、左肩を壁へぶつけるようにして走っている。


「局内の文書搬送機だ。地下の保管物を、正門の受け渡し台まで直接送れる」


「止め方は?」


「十五年前なら、局長印を外せば止まった」


「今は?」


「その局長印で動いている」


 最悪の答えだけは、息を整えなくてもはっきり聞こえる。


 役に立つ仕組みほど、悪用されたときもよく働く。写本局で俺が学んだ数少ない真理だった。もう一つは、上役の失敗ほど下の人間が丁寧に清書させられる、である。


 リゼが搬送溝へ腕を突っ込んだ。指先から黒銀の毛が伸び、湾曲した爪が鎖を弾く。


 火花が散った。弾かれた鎖が溝の内壁を打ち、鐘のような音を地下へ響かせる。それでも台車は速度を落とさない。


「止められるか?」


「壊すなら」


「版まで落ちる」


「では先回りする」


 リゼは振り返るなり、俺の襟を掴んだ。


「待て。その持ち方は人間用じゃ――」


 最後まで言う前に、身体が浮いた。


 彼女は俺を小麦袋のように肩へ担ぎ、階段を三段ずつ跳んだ。俺の腹に硬い肩当てが食い込み、十五年前の真相と今朝の食事が同時に口から出そうになる。


「丁寧に運べ!」


「急ぐのだろう」


「急ぐ荷物にも尊厳はある!」


「暴れると落ちるぞ」


 尊厳は黙った。命より重い尊厳は立派だが、俺のものはそこまで鍛えられていない。


 祖父さんは別の階段へ向かった。骨の右腕では全力で走れない。それでも左手で壁を掴み、息を絞り出して近道を示す。


「正門で会おう!」


 俺は逆さに揺られながら頷いた。たぶん頷いた。景色のほうが上下していたので、自信はない。


 地上階へ飛び出した瞬間、紙を叩く音が聞こえた。


 乾いた、容赦のない音だった。


 正門脇の受け渡し台に、複製盤はもう据えられていた。


 鉄の腕が版へ墨を塗り、羊皮紙を押しつけ、剥がしては次の紙を送る。歯車が噛み合うたびに台全体が震え、刷り上がった令状が床の籠へ次々と落ちていた。黒々とした文字は、乾く前から命令として形を持っている。


 印刷台の前には、若い局員が一人立っている。顔から血の気が引き、震える両手で作動桿を握っていた。爪が白くなるほど力を込めているのに、腕だけは機械の律動に合わせて正確に動いている。


「桿から手を離せ!」


「で、できません!」


 局員の手首には、黒い文字の輪が巻きついていた。皮膚へ食い込んではいない。それなのに、引き剥がそうとするたび指まで痙攣して桿へ戻される。


『命令受領者は、複製完了まで持ち場を離れない』


 局長命令を受けた者まで、機械の部品にする術式だ。


「私が申請したんじゃありません! 局長印の搬出命令が来て、台に版を載せたら、勝手に……!」


 言葉が震え、歯の鳴る音が混じった。彼は俺より若く見えた。命令に従っただけで、いま百十二人を連行する片棒を担がされている。


「わかってる。あなたを責めに来たんじゃない」


 強要された手が動かしたからといって、その人間が望んだことにはならない。


 ついさっき、十五年かけて読み直したばかりだ。


 だから、ここだけは間違えない。


「手は俺たちが外す。だから、今は力を抜け」


 局員の指が、わずかに桿から緩んだ。怯えた目がこちらを向き、縋るように一度だけ頷く。


 だが印刷台は止まらない。


 籠にはすでに十六枚の令状があった。上端の対象欄へ、治療所へ移された百十二人の名が隙間なく並んでいる。年齢も、衰弱の程度も関係ない。版の上では、人間は同じ大きさの文字になる。


 罪状は王墓不法侵入、王家財産の窃取、建国術式への破壊行為。


 死者として埋められていた人々を、今度は犯罪者として地上から消すつもりらしい。


「局長はどこだ」


 リゼが問う。低い声に、獣の唸りがわずかに重なった。


「最初の一枚を受け取って、正門から出ました。証拠保全のため、治療所へ先に執行すると……」


 籠の横に、赤い数字が浮かんでいる。


『予定複製数――百十二』


『完了数――十七』


 十六枚しか残っていない。


 一枚目は、もうオズワルドが持ち出した。


「残りを止める」


 俺は版へ近づいた。


 鉄の腕が振り下ろされ、目の前で紙を押し潰す。圧迫された空気が頬を打ち、墨の臭いが鼻を満たした。術式の文字が露出するのは、墨を塗られてから紙に触れるまでの一瞬だけだ。


 遠くから読めても、遠くから直せはしない。


 世界で唯一意味がわかる男の仕事場は、だいたい世界で一番指を挟まれやすい場所にある。待遇改善を訴える相手は、たぶん歯車の奥だ。


「右から二本目の腕を止めろ!」


 リゼが踏み込む。


 獣化した右腕で印刷台の支柱を掴み、振り下ろされた鉄腕を肩で受けた。肉と鉄がぶつかる鈍い衝撃に床板が割れ、黒銀の毛の間から赤い筋が滲む。


「長くはもたない!」


「十分だ!」


「お前の十分は信用していない!」


「俺もだ!」


 自信のない者同士で作戦を進めるのは危険だが、自信が生えるまで待てる状況でもない。


 ピピが俺の肩を蹴り、版の上へ飛び降りた。


「くしゅんっ、のら!」


 小さなくしゃみとともに文字の粒が散り、墨の下に隠れていた古代語の命令文が青白く浮かぶ。歯車の震動を受け、ピピの細い輪郭まで揺れていた。


『記載された者を指定地へ収容せよ』


 対象名は毎回変わる。罪状も書き足せる。だが命令の核は、十五年前から一語も変わっていない。


 人を連れていき、閉じ込める。


 それだけのために保存された文だ。誰が泣くかも、誰が戻らないかも、命令文は考えない。考えなくて済むように作られている。


 俺は局員の腰にあった朱墨筆を抜き取った。


「借りるぞ」


「は、はい!」


 断る余裕のない相手にも一応断る。それくらいしか、今の俺にできる礼儀はない。


 俺には魔力がない。一滴もない。だから、新しい命令を作ることも、版を力ずくで黙らせることもできない。


 できるのは、今まさに動いている言葉へ触れ、一語だけ別の意味を押し込むことだけだ。


 版が回転する。


 鉄腕の隙間へ身体を入れ、左手で縁を掴む。熱い。赤熱した切断面の熱が鉄を伝い、掌の皮を刺した。反射的に手を離しそうになるのを、歯を食いしばって耐える。


「ノエル!」


 次の鉄腕が迫る。


 リゼの尾が腰へ巻きつき、俺の身体を版へ固定した。本人は尾を見て一瞬嫌そうな顔をしたが、今は文句を言わなかった。俺も言わない。命を預ける相手の身体のどこに掴まっているかは、助かった後で考えるべき問題だ。


 露出した命令語へ筆先を押し当てる。


『収容』


 その二文字を削るのではない。


 元の言葉を壊せば、術式そのものが暴れるかもしれない。俺にできるのは、意味の流れを読み、その流れが受け入れられる別の一語を重ねることだけ。


 朱墨で意味を重ねる。


『照会』


 筆先から魔力の光は出ない。ただ朱色の線が古代語の溝へ沈み、俺が読んだ意味だけが版の奥へ届いていく。


 複製盤が震えた。


 振り下ろされた鉄腕が俺の鼻先で止まり、墨の雫が頬へ飛んだ。近すぎて、鉄の表面に映った自分の間抜けな顔まで見えた。


 局員の手首を縛っていた文字が、一文字ずつほどける。彼は桿から手を離し、その場へ座り込んだ。自由になった両手を胸元へ抱え、何度も指を握り直している。


 印刷台はもう一枚だけ紙を吐き出した。


『記載された者を指定地へ照会せよ』


 拘束命令ではない。名前と所在を確かめ、結果を記録するだけの文だ。


 籠の中の十六枚も、版とつながっていた朱の細線が光り、命令部分を書き換えていく。まだ裁断前だった紙は、親である版の修正を受け取った。黒い『収容』の上へ朱色の『照会』が浮かび、紙を縛っていた重苦しい気配が薄れる。


 だが、一枚目へ伸びていた線だけは、正門の外で切れていた。


「持ち出された一枚には届かないのら」


 ピピが版の上で膝をつく。輪郭が少し薄くなり、指先からこぼれた文字の粒が墨へ溶けていく。


「ああ」


 俺は熱で赤くなった手を握った。痛みがある。つまり、まだ動かせる。


 複製盤は止めた。残った令状も人を縛れない。若い局員の手首にも傷はなく、祖父さんが裏口から回って正門の閂を下ろした。


 これで、百十一枚の罪は刷られずに済んだ。


 だが最初の一枚だけは、すでに罪として歩き始めている。


 正門の表示板が赤く点灯した。


『第一号令状――対象地到着』


『治療所外扉――封鎖』


『収容命令――執行開始』


 赤い文字を読む間にも、遠くで鉄鎖が一斉に地面を打つ音がした。腹の底へ響く、巨大な檻が閉じる音だった。


 リゼが四つん這いになり、黒銀の獣毛を全身へ広げる。濡れた毛と血と鉄の匂いが混じる。俺はためらわず、その背へ飛び乗った。


「治療所へ走れ。今度は、百十二人全員を連れ戻す番だ」


(第86話へ続く)

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