第二対象は証言する
床の搬送溝から、子供用の鉄枷が飛び出した。
金属が石を打つ甲高い音が、狭い記録庫を一周して耳の奥へ刺さる。錆びているくせに蝶番の動きだけは滑らかで、獲物の手首を待つ輪がぱくりと開いた。
腹立たしいほど正確な大きさだった。
十五年前、四歳だった俺の手首に合わせて作られている。
指を揃えれば、今では拳すら通らない。だが小さかった頃の俺なら、骨まできれいに収まっただろう。成長を祝う気にはなれなかった。昔の拘束具に寸法の違いを教えられるほど、ろくでもない成人祝いもない。
「趣味が悪いな」
感想を述べている間に、鉄枷から伸びた鎖が足首へ巻きついた。冷たい輪が靴の上から骨を締める。床が傾き、開いた溝の奥で歯車が回り始めた。
油の切れた歯車が、ぎり、ぎり、と十五年分の空腹を訴えている。
俺の身体が引かれるより先に、リゼの腕が胴へ回った。
「離すな!」
「誰に言っている」
低い声とともに、リゼの爪が石床へ食い込む。腕から銀の毛が広がり、雨に濡れた獣毛と鉄に似た匂いが狭い記録庫へ満ちた。爪の立った箇所から白い石粉が噴き、彼女の肩が鎧の下で大きく盛り上がる。
美しい騎士に抱き止められる場面だけ抜き出せば、悪くない。肋骨が軋むほど締め上げられず、足元で子供用の拘束具が口を開けていなければ、なおよかった。
『第二対象を搬送する』
赤い文字が床を這った。
行き先も浮かぶ。
『永久補筆準備室』
文字を読んだ途端、足首より先に腹の底が冷えた。意味を理解できることが、ありがたいとは限らない。読めなければ何もできないが、読めればこれから何をされるかだけは正確に分かる。
祖父さんの右腕が、わずかに動いた。
骨の筆に変えられた腕だった。指の代わりに細い筆先が束ねられ、関節だった部分には黒ずんだ留め金が食い込んでいる。その先が床の赤い文字へ向いたのを、俺は見逃さなかった。
十五年前、祖父さんは俺をそこへ送らないため、自分が永久補筆へ使われることを受け入れた。
そして今、第一対象が返却されたことで、約束の続きを実行しようとしている。
役所の文書は律儀だ。人の十五年は平気で奪うくせに、未処理の欄だけは決して忘れない。良心は紛失しても、受付番号だけは保存する。それが立派な仕事だと思っているらしい。
「ノエル!」
祖父さんが床へ膝をついた。
「私を溝へ入れろ。第一対象を再使用できれば、第二拘束は止まるかもしれん」
「却下」
考えるより先に声が出た。祖父さんの顔に浮かんだ覚悟が、十五年前から一歩も動いていなかったからだ。
「だが――」
「十五年前に一度使った手だ。二度目まで通したら、手続きとして定着する」
冗談めかして言ったが、喉はひどく乾いていた。舌が上顎へ貼りつき、息をするたび古紙と機械油の味がする。
祖父さんはまた俺の代わりになろうとしている。
それは優しさではある。
だが、優しさを刃物に加工して本人へ突きつけるのが、この文書のやり方だった。誰かを守りたいという気持ちを拾い上げ、署名欄と引き換えに逃げ道を塞ぐ。
「もう俺のために筆になるな」
「お前が運ばれるのを見ていろと言うのか」
「一緒に直せと言ってる」
祖父さんが唇を噛む。言い返さなかったのは納得したからではなく、俺が譲らない顔をしていたからだろう。こういうところだけは血筋がよく働く。
鎖が強く引かれた。
リゼの靴底が石を削り、俺たちは半歩ずつ溝へ近づく。俺の上着が彼女の腕と鎧の間で絞られ、息を吐くたび身体だけが鎖の方へずれた。
命令を書き換えるには、文字へ触れなければならない。
問題の紙片は床に落ちたままではなかった。赤く発光しながら浮き上がり、搬送溝の向こう側へ吸い込まれようとしている。まるで自分が狙われていると知っているような逃げ方だった。紙のくせに危機管理だけは俺より優秀である。
「ピピ、紙を止められるか!」
「やるのら!」
ピピが文字の粒へほどけた。
細い光の列になって紙片へ絡みつく。小さな身体が戻りかけた紙を引いたが、輪郭は急速に薄くなっていく。紙から滲む赤い文字がピピの白い粒へ移り、火傷のような斑点を作った。
「ふ、ふえっ……古い命令は鼻にくるのら……へくちっ!」
くしゃみで三文字ほど散った。散った文字は床を跳ね、慌てたようにピピの背中へ戻る。
「無理をするな!」
「ごはんの前にノエルが筆になったら困るのら!」
心配の基準が食卓でも、心配は心配である。少なくとも永久補筆局よりは、俺を人間として数えてくれている。
俺は赤い文を読む。
『第一対象の返却を確認。未執行の第二拘束を開始する』
開始を終了へ変える手は使える。
だが、それでは命令だけが止まり、十五年前の承諾文は残る。何かの拍子に別の子文が繋がれば、また俺か祖父さんを材料として扱うだろう。命令を眠らせるだけでは駄目だ。根にある扱いそのものを変えなければ、文書は次の機会を待つ。
直すべきは動作ではない。
俺たちの立場だ。
「リゼ、三つ数えたら鎖を緩めてくれ」
「緩めれば、お前が溝へ落ちる」
「紙まで届く」
「落ちた後は?」
「できれば拾ってほしい」
「できなければ?」
「永久就職だな。福利厚生は期待できない」
リゼの腕に力がこもった。鎧越しにも、彼女の呼吸が一度止まったのが分かる。
「一度だけだ」
「ああ」
「失敗したら、今度は私のやり方で助ける」
そのやり方の詳細は聞かなかった。たぶん扉も機械もまとめて壊す。頼もしいが、俺まで部品として数えられそうなので、成功する理由が一つ増えた。
「一、二――三!」
身体が宙へ投げ出された。
鎖に引かれ、俺は開いた溝の上を滑る。胃が遅れて喉まで持ち上がった。奥には何本もの骨の筆を固定する金具が並び、赤い光を受けて濡れた歯のように光っている。
使われなくなった準備室ではない。次の材料を待ち続けていた部屋だ。
ピピが押さえる紙片へ手を伸ばす。
あと指一本。
届かない。
鎖が足首へ食い込み、視界の半分が暗い溝に呑まれる。顔のすぐ下で金具が一斉に開いた。歓迎の拍手なら、ずいぶん骨ばっている。
背後でリゼが吠え、さらに腕を伸ばした。獣化した爪が俺の上着を裂き、布越しに背を掠め、身体を前へ押し出す。
指先が紙へ触れた。
ざらついた紙面から、氷のような冷たさが腕を駆け上がる。
俺は鉄枷で擦れた手首の血を親指につけた。
魔法は撃てない。光の槍も炎の壁も出せない。
できるのは、いつも一語だけだ。
一語しかないから、間違えられない。何を止めるかではなく、何として扱わせるか。それを選ぶ。
『拘束』
その赤い語を、血でなぞり直す。
『証言』
最後の一画を引いた瞬間、親指の傷が熱を持った。
紙片が脈打った。
『未執行の第二証言を開始する』
鎖が止まる。
俺の顔は溝の縁から半分ほど落ちていた。眼下では骨の筆を締める金具が、獲物を失って空しく開閉している。止まった鎖が小さく震えるたび、俺の足も情けなく揺れた。
「戻すぞ!」
リゼが俺を引き上げた。
床へ転がった俺の胸に、文字へ戻ったピピが落ちてくる。軽いはずなのに、胸の真ん中へ落ちたせいで残っていた息が全部出た。
「成功なのら?」
「たぶん」
「たぶんは嫌いなのら」
「俺もだ。写本局で覚えた言葉の中では、局長命令の次に嫌いだよ」
赤かった文字が白へ変わった。
『第一証言者、アデル・アルクム』
祖父さんの前に、細い光の欄が開く。赤い命令の光より弱いのに、目を逸らせないほどまっすぐだった。
『永久補筆への使用を、自ら望んだか』
祖父さんは骨の右腕を見下ろした。筆先がかすかに震え、床を擦る。
「望んでいない」
短い答えだった。十五年かけて、ようやく記録された拒絶でもあった。
光が一行を書き留める。
『受諾の条件を述べよ』
「孫への拘束を取り下げること。それを条件に、私へ永久補筆の受諾を迫った」
『第二証言者、ノエル・アルクム』
今度は俺の前に欄が開いた。
『第一対象の受諾について、説明を受けたか』
「受けていない。俺は祖父が帰ると信じて待っていた」
口にすると、十五年前の待ち時間だけが胸の中で形を取り戻した。扉の音がするたび顔を上げ、違う足音だと知る。その繰り返しまで文書は記録してくれなかった。
『第二対象としての使用に同意したか』
「していない」
少し考え、付け加える。
「四歳の子供に、祖父か自分かを選ばせること自体が同意じゃない」
紙片の血判が震えた。
祖父さんの拒絶を覆っていた承諾文に、白い線が走る。乾いた紙の裂けるような音が、記録庫の壁から壁へ渡った。
『第一対象の受諾――強要により無効』
『第二対象の拘束――根拠消失』
子供用の鉄枷が外れた。
鎖は力を失って石床を滑り、溝へ戻る。永久補筆準備室の金具も動きを止めた。最後に扉の錠が上がり、記録庫へ冷たい空気が流れ込んだ。古紙と油の臭いが薄れ、代わりに外の湿った石壁の匂いが入ってくる。
十五年前の取引は消せない。
祖父さんの右腕も、人の腕には戻らない。
それでも、犠牲を正しい承諾として残さずに済んだ。奪われたものを取り返せなくても、奪った側の言い分まで正しくしてやる必要はない。
「祖父さん」
俺は立ち上がり、祖父さんの左手を掴んだ。
「助けてくれてありがとう、とは言わない」
祖父さんの顔が強張る。
「そんな選び方をしてほしくなかった。十五年も自分を使わせてほしくなかった。俺は、それに腹を立ててる」
「ああ」
「でも、俺を生かそうとしてくれたことは忘れない」
左手が握り返してきた。節の太い指が、確かめるように俺の手を包む。
骨の右腕は冷たいままだったが、残った手は温かかった。
「次からは相談しろ」
「次があるのか」
「ないようにする相談だ」
祖父さんが息を漏らす。笑いなのか泣きかけたのかは、俺にも判別できなかった。俺もたぶん似たような顔をしていたので、互いに指摘しないのが家族としての礼儀だろう。
家族の会話は古代語より難しい。辞書がなく、一語で直せず、間違えた箇所がいつまでも残る。
だから、残ったまま話すしかない。
白い紙片が二つに折れ、証言記録として証拠箱へ収まった。蓋が閉じる音は小さかったが、今まで聞いたどの命令音より確かに聞こえた。
その直後、棚の奥から金属を引きずる音がした。
細長い鉄枠が搬送口から吐き出され、床を滑って俺の靴へぶつかる。せっかく戻った安堵が、靴先から逃げていった。
枠には札がついていた。
『拘束令状複製盤』
肝心の複製盤だけが、刃物で切り取られている。切断面は新しく、触れるとまだ温かかった。焦げた金属の臭いが指に残る。
搬出記録に刻まれた時刻は、つい今しがた。
行き先は王立写本局正門。
「リゼ」
「匂いが残っている。まだ外へは出ていない」
彼女は鼻先を上げ、雨に濡れた獣毛を震わせた。俺を抱えていた腕を放し、そのまま扉へ駆ける。
俺も証言記録を掴んで追う。足首には鉄枷の冷たさがまだ輪の形で残っていた。
十五年前の罪を何枚でも作れる版が、地上へ持ち出された。
(第85話へ続く)




