↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

84/95

第二対象は証言する

 床の搬送溝から、子供用の鉄枷が飛び出した。


 金属が石を打つ甲高い音が、狭い記録庫を一周して耳の奥へ刺さる。錆びているくせに蝶番の動きだけは滑らかで、獲物の手首を待つ輪がぱくりと開いた。


 腹立たしいほど正確な大きさだった。


 十五年前、四歳だった俺の手首に合わせて作られている。


 指を揃えれば、今では拳すら通らない。だが小さかった頃の俺なら、骨まできれいに収まっただろう。成長を祝う気にはなれなかった。昔の拘束具に寸法の違いを教えられるほど、ろくでもない成人祝いもない。


「趣味が悪いな」


 感想を述べている間に、鉄枷から伸びた鎖が足首へ巻きついた。冷たい輪が靴の上から骨を締める。床が傾き、開いた溝の奥で歯車が回り始めた。


 油の切れた歯車が、ぎり、ぎり、と十五年分の空腹を訴えている。


 俺の身体が引かれるより先に、リゼの腕が胴へ回った。


「離すな!」


「誰に言っている」


 低い声とともに、リゼの爪が石床へ食い込む。腕から銀の毛が広がり、雨に濡れた獣毛と鉄に似た匂いが狭い記録庫へ満ちた。爪の立った箇所から白い石粉が噴き、彼女の肩が鎧の下で大きく盛り上がる。


 美しい騎士に抱き止められる場面だけ抜き出せば、悪くない。肋骨が軋むほど締め上げられず、足元で子供用の拘束具が口を開けていなければ、なおよかった。


『第二対象を搬送する』


 赤い文字が床を這った。


 行き先も浮かぶ。


『永久補筆準備室』


 文字を読んだ途端、足首より先に腹の底が冷えた。意味を理解できることが、ありがたいとは限らない。読めなければ何もできないが、読めればこれから何をされるかだけは正確に分かる。


 祖父さんの右腕が、わずかに動いた。


 骨の筆に変えられた腕だった。指の代わりに細い筆先が束ねられ、関節だった部分には黒ずんだ留め金が食い込んでいる。その先が床の赤い文字へ向いたのを、俺は見逃さなかった。


 十五年前、祖父さんは俺をそこへ送らないため、自分が永久補筆へ使われることを受け入れた。


 そして今、第一対象が返却されたことで、約束の続きを実行しようとしている。


 役所の文書は律儀だ。人の十五年は平気で奪うくせに、未処理の欄だけは決して忘れない。良心は紛失しても、受付番号だけは保存する。それが立派な仕事だと思っているらしい。


「ノエル!」


 祖父さんが床へ膝をついた。


「私を溝へ入れろ。第一対象を再使用できれば、第二拘束は止まるかもしれん」


「却下」


 考えるより先に声が出た。祖父さんの顔に浮かんだ覚悟が、十五年前から一歩も動いていなかったからだ。


「だが――」


「十五年前に一度使った手だ。二度目まで通したら、手続きとして定着する」


 冗談めかして言ったが、喉はひどく乾いていた。舌が上顎へ貼りつき、息をするたび古紙と機械油の味がする。


 祖父さんはまた俺の代わりになろうとしている。


 それは優しさではある。


 だが、優しさを刃物に加工して本人へ突きつけるのが、この文書のやり方だった。誰かを守りたいという気持ちを拾い上げ、署名欄と引き換えに逃げ道を塞ぐ。


「もう俺のために筆になるな」


「お前が運ばれるのを見ていろと言うのか」


「一緒に直せと言ってる」


 祖父さんが唇を噛む。言い返さなかったのは納得したからではなく、俺が譲らない顔をしていたからだろう。こういうところだけは血筋がよく働く。


 鎖が強く引かれた。


 リゼの靴底が石を削り、俺たちは半歩ずつ溝へ近づく。俺の上着が彼女の腕と鎧の間で絞られ、息を吐くたび身体だけが鎖の方へずれた。


 命令を書き換えるには、文字へ触れなければならない。


 問題の紙片は床に落ちたままではなかった。赤く発光しながら浮き上がり、搬送溝の向こう側へ吸い込まれようとしている。まるで自分が狙われていると知っているような逃げ方だった。紙のくせに危機管理だけは俺より優秀である。


「ピピ、紙を止められるか!」


「やるのら!」


 ピピが文字の粒へほどけた。


 細い光の列になって紙片へ絡みつく。小さな身体が戻りかけた紙を引いたが、輪郭は急速に薄くなっていく。紙から滲む赤い文字がピピの白い粒へ移り、火傷のような斑点を作った。


「ふ、ふえっ……古い命令は鼻にくるのら……へくちっ!」


 くしゃみで三文字ほど散った。散った文字は床を跳ね、慌てたようにピピの背中へ戻る。


「無理をするな!」


「ごはんの前にノエルが筆になったら困るのら!」


 心配の基準が食卓でも、心配は心配である。少なくとも永久補筆局よりは、俺を人間として数えてくれている。


 俺は赤い文を読む。


『第一対象の返却を確認。未執行の第二拘束を開始する』


 開始を終了へ変える手は使える。


 だが、それでは命令だけが止まり、十五年前の承諾文は残る。何かの拍子に別の子文が繋がれば、また俺か祖父さんを材料として扱うだろう。命令を眠らせるだけでは駄目だ。根にある扱いそのものを変えなければ、文書は次の機会を待つ。


 直すべきは動作ではない。


 俺たちの立場だ。


「リゼ、三つ数えたら鎖を緩めてくれ」


「緩めれば、お前が溝へ落ちる」


「紙まで届く」


「落ちた後は?」


「できれば拾ってほしい」


「できなければ?」


「永久就職だな。福利厚生は期待できない」


 リゼの腕に力がこもった。鎧越しにも、彼女の呼吸が一度止まったのが分かる。


「一度だけだ」


「ああ」


「失敗したら、今度は私のやり方で助ける」


 そのやり方の詳細は聞かなかった。たぶん扉も機械もまとめて壊す。頼もしいが、俺まで部品として数えられそうなので、成功する理由が一つ増えた。


「一、二――三!」


 身体が宙へ投げ出された。


 鎖に引かれ、俺は開いた溝の上を滑る。胃が遅れて喉まで持ち上がった。奥には何本もの骨の筆を固定する金具が並び、赤い光を受けて濡れた歯のように光っている。


 使われなくなった準備室ではない。次の材料を待ち続けていた部屋だ。


 ピピが押さえる紙片へ手を伸ばす。


 あと指一本。


 届かない。


 鎖が足首へ食い込み、視界の半分が暗い溝に呑まれる。顔のすぐ下で金具が一斉に開いた。歓迎の拍手なら、ずいぶん骨ばっている。


 背後でリゼが吠え、さらに腕を伸ばした。獣化した爪が俺の上着を裂き、布越しに背を掠め、身体を前へ押し出す。


 指先が紙へ触れた。


 ざらついた紙面から、氷のような冷たさが腕を駆け上がる。


 俺は鉄枷で擦れた手首の血を親指につけた。


 魔法は撃てない。光の槍も炎の壁も出せない。


 できるのは、いつも一語だけだ。


 一語しかないから、間違えられない。何を止めるかではなく、何として扱わせるか。それを選ぶ。


『拘束』


 その赤い語を、血でなぞり直す。


『証言』


 最後の一画を引いた瞬間、親指の傷が熱を持った。


 紙片が脈打った。


『未執行の第二証言を開始する』


 鎖が止まる。


 俺の顔は溝の縁から半分ほど落ちていた。眼下では骨の筆を締める金具が、獲物を失って空しく開閉している。止まった鎖が小さく震えるたび、俺の足も情けなく揺れた。


「戻すぞ!」


 リゼが俺を引き上げた。


 床へ転がった俺の胸に、文字へ戻ったピピが落ちてくる。軽いはずなのに、胸の真ん中へ落ちたせいで残っていた息が全部出た。


「成功なのら?」


「たぶん」


「たぶんは嫌いなのら」


「俺もだ。写本局で覚えた言葉の中では、局長命令の次に嫌いだよ」


 赤かった文字が白へ変わった。


『第一証言者、アデル・アルクム』


 祖父さんの前に、細い光の欄が開く。赤い命令の光より弱いのに、目を逸らせないほどまっすぐだった。


『永久補筆への使用を、自ら望んだか』


 祖父さんは骨の右腕を見下ろした。筆先がかすかに震え、床を擦る。


「望んでいない」


 短い答えだった。十五年かけて、ようやく記録された拒絶でもあった。


 光が一行を書き留める。


『受諾の条件を述べよ』


「孫への拘束を取り下げること。それを条件に、私へ永久補筆の受諾を迫った」


『第二証言者、ノエル・アルクム』


 今度は俺の前に欄が開いた。


『第一対象の受諾について、説明を受けたか』


「受けていない。俺は祖父が帰ると信じて待っていた」


 口にすると、十五年前の待ち時間だけが胸の中で形を取り戻した。扉の音がするたび顔を上げ、違う足音だと知る。その繰り返しまで文書は記録してくれなかった。


『第二対象としての使用に同意したか』


「していない」


 少し考え、付け加える。


「四歳の子供に、祖父か自分かを選ばせること自体が同意じゃない」


 紙片の血判が震えた。


 祖父さんの拒絶を覆っていた承諾文に、白い線が走る。乾いた紙の裂けるような音が、記録庫の壁から壁へ渡った。


『第一対象の受諾――強要により無効』


『第二対象の拘束――根拠消失』


 子供用の鉄枷が外れた。


 鎖は力を失って石床を滑り、溝へ戻る。永久補筆準備室の金具も動きを止めた。最後に扉の錠が上がり、記録庫へ冷たい空気が流れ込んだ。古紙と油の臭いが薄れ、代わりに外の湿った石壁の匂いが入ってくる。


 十五年前の取引は消せない。


 祖父さんの右腕も、人の腕には戻らない。


 それでも、犠牲を正しい承諾として残さずに済んだ。奪われたものを取り返せなくても、奪った側の言い分まで正しくしてやる必要はない。


「祖父さん」


 俺は立ち上がり、祖父さんの左手を掴んだ。


「助けてくれてありがとう、とは言わない」


 祖父さんの顔が強張る。


「そんな選び方をしてほしくなかった。十五年も自分を使わせてほしくなかった。俺は、それに腹を立ててる」


「ああ」


「でも、俺を生かそうとしてくれたことは忘れない」


 左手が握り返してきた。節の太い指が、確かめるように俺の手を包む。


 骨の右腕は冷たいままだったが、残った手は温かかった。


「次からは相談しろ」


「次があるのか」


「ないようにする相談だ」


 祖父さんが息を漏らす。笑いなのか泣きかけたのかは、俺にも判別できなかった。俺もたぶん似たような顔をしていたので、互いに指摘しないのが家族としての礼儀だろう。


 家族の会話は古代語より難しい。辞書がなく、一語で直せず、間違えた箇所がいつまでも残る。


 だから、残ったまま話すしかない。


 白い紙片が二つに折れ、証言記録として証拠箱へ収まった。蓋が閉じる音は小さかったが、今まで聞いたどの命令音より確かに聞こえた。


 その直後、棚の奥から金属を引きずる音がした。


 細長い鉄枠が搬送口から吐き出され、床を滑って俺の靴へぶつかる。せっかく戻った安堵が、靴先から逃げていった。


 枠には札がついていた。


『拘束令状複製盤』


 肝心の複製盤だけが、刃物で切り取られている。切断面は新しく、触れるとまだ温かかった。焦げた金属の臭いが指に残る。


 搬出記録に刻まれた時刻は、つい今しがた。


 行き先は王立写本局正門。


「リゼ」


「匂いが残っている。まだ外へは出ていない」


 彼女は鼻先を上げ、雨に濡れた獣毛を震わせた。俺を抱えていた腕を放し、そのまま扉へ駆ける。


 俺も証言記録を掴んで追う。足首には鉄枷の冷たさがまだ輪の形で残っていた。


 十五年前の罪を何枚でも作れる版が、地上へ持ち出された。


(第85話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。