十五年前の令状
地下記録庫へ向かう階段は、俺が勤めていた頃から人間を歓迎していなかった。
狭い。暗い。湿っている。おまけに一段だけ高さが違う。
壁には水が細い筋を作り、足を下ろすたび、靴底と石の間で嫌な音が鳴る。王立写本局が管理する文書は千年先まで残すくせに、職員の足首は今日壊れても構わないらしい。
「足元に気をつけろ」
後ろからリゼに言われた直後、その一段につまずいた。
腕を掴まれ、辛うじて顔面と石床の熱烈な再会は避けられた。革手袋越しでも分かるほど強い指だった。騎士に支えられる場面としては、もう少し格好のつく状況を選びたかった。
「知っていた」
「転ぶことをか」
「段差をだ」
「では、なぜ転んだ」
「知識と実践が仲良しなら、写本局に誤字はない」
我ながら説得力のある言い訳だった。リゼは呆れた息を鼻から漏らし、それでも俺の腕を離さなかった。
先頭では、局長室で俺の枷を外した男が鍵束を持っている。金属の触れ合う音だけが、地下へ向かって何度も反響した。その後ろに祖父さんが続く。骨の筆となった右腕を外套の内側へ隠しているが、階段を下りる足取りは俺より確かだった。
十五年も囚われていた老人より頼りない足腰。それが十九歳の俺の偽らざる現状である。
手のひらほどのピピが、俺の肩で鼻をひくつかせた。
「古いインクの匂いがするのら」
「お前にはご馳走か」
「湿気たインクは、おなかに字が残るのら」
「食べたことがある言い方だな」
ピピは返事をしなかった。顔を形作る文字が、わずかに横へ流れる。残響にも触れられたくない過去はあるらしい。
階段の底には、鉄板を張った扉があった。
鍵穴が三つ。封蝋が二つ。中央には『記録なき者の入室を禁ず』と古代語で刻まれている。湿った壁とは違い、扉だけは冷たく乾き、近づく者を値踏みするような青い光を帯びていた。
「職員証を」と男が言った。
「追放された日に返しました」
「では入れない」
わざわざ地下まで来てから教えてくれるあたり、役所の手続きは親切である。親切すぎて泣けてくる。主に時間の無駄に。
男が困ったように扉と俺を見比べた。リゼの手が腰の剣へ動く。
「斬ってよいか」
「扉を?」
「手続きを」
「形のないものは斬れない」
「残念だ」
本当に残念そうだった。役所勤めの人間としては、手続きを斬れる剣が発明されたら真っ先に購入したい。
俺は中央の文へ指を当てた。
文字はまだ生きている。指先から魔力を流すことはできない。俺には一滴もないからだ。それでも、古代語が何を命じているかは読める。
記録庫そのものが保管者を照合し、扉を開閉する術式だ。現代語の注意書きに見せかけているが、意味は少し違う。
『記録に含まれぬ者を拒め』
俺は職員ではない。
だが、今から探す令状には俺の家名が関わっている。そして、つい先ほどまで拘束令状の対象だった。人生の汚点が入館資格になるとは、長く生きてみるものである。まだ十九年だが。
「記録なら、ある」
手のひらを扉へ押しつける。
鉄板の奥で何かが擦れた。三つの鍵穴が順に青く光り、中央の文字列から細い線が伸びて俺の手首を一周する。冷たい輪が、外されたばかりの枷の痕をなぞった。
『拘束記録――ノエル・アルクム』
認められても嬉しくない身分証だった。
錠が外れ、扉が重い息を吐くように内側へ開く。閉じ込められていた紙と埃と湿気の匂いが、ひとかたまりになって流れ出した。
「追放者で容疑者という経歴も、たまには役に立つ」
「二度と役立てるな」
リゼの注文は難しかった。
記録庫には、天井まで届く石棚が並んでいた。灯りの届かない上段は闇へ溶け、棚の列は墓標のように奥まで続いている。紙を湿気から守る保温術式は半分ほど止まり、床には一定の間隔で水滴が落ちていた。棚の間を走る搬送溝も動いていない。
男が壁の索引盤へ十五年前の整理番号を入力した。
何も起きなかった。
もう一度入れる。
やはり沈黙である。沈黙だけは非常に正確に返ってきた。
「故障か」
「違う。働く気がないだけです。写本局ではよくある」
俺は索引盤を読んだ。
『指定記録を最短経路で運べ』
搬送路が止まっているのに、最短経路へ固執している。道が使えなければ諦める。融通の利かない術式は、規則を盾にする役人とよく似ていた。
もっとも、術式のほうは一語で反省させられる。
「祖父さん、一滴くれ」
祖父さんが外套の内側から骨の右腕を出した。索引盤の前で筆先が傾き、黒い血墨が一滴だけ滲む。俺は左の人差し指でそれを受けた。まだ温かい。
頭の中で字形をほどき、命令の意味を壊さない一語へ組み直す。書き換えられるのは一語だけだ。だからこそ、選び間違えれば術式は動かない。
『最短』の二文字へ指を当て、輪郭を削らずに上から書き換える。
『指定記録を迂回経路で運べ』
青白い光が索引盤から床へ走った。
奥で歯車が咳き込むように噛み合う。左側の棚が震え、十五年分か、それ以上か分からない埃を豪快に吐き出した。
「ぶえっくしょん、のら!」
ピピがくしゃみをした途端、顔を作っていた文字が三つほど飛んだ。俺が空中で拾い、額へ戻す。一文字は逆さだったので、ついでに直した。
「目が二つになったのら?」
「一瞬、鼻が三つだった」
「強そうなのら」
「鼻の数で強さは決まらない」
遠い棚から、一つの箱が搬送溝へ落ちた。
止まった溝の代わりに、床から浮かんだ文字列が箱を持ち上げる。棚の角を大回りし、水滴を避け、ときには棚と棚の間を斜めに抜け、俺たちの前まで運んできた。
最短ではない。
だが、届いた。
人も文書も、正しい道を外れたくらいで終わりにされては困る。俺など正しい道を追い出されてからのほうが、歩いた距離は長い。
男が箱の封を調べた。蝋の縁を指でなぞり、記録番号と照らし合わせる。
「開封記録なし。十五年前に収められてから、一度も閲覧されていない」
「再写した者は?」
「原本を出さず、複製盤から写したのでしょう。局長権限があれば可能です」
つまりオズワルドは、十五年前の命令が誰を捕らえ、何を起こしたか確かめず、俺の名だけを新しい紙へ載せた。
知らなかったでは済まない。
知ろうとしなかったのだ。紙の向こうに人間がいると考えない者にとって、名前はただのインクの染みにすぎない。
封蝋を割る。乾いた音が、妙に大きく記録庫へ響いた。
箱の中には、黄ばんだ羊皮紙が一枚入っていた。
今の令状と同じく、新旧二枚を貼り合わせてある。表には王権簒奪未遂の罪状。裏には生活術式へ命令を渡す子文。古い糊は茶色く変色し、端には十五年前の指の跡まで残っていた。
そして、拘束対象者の欄。
俺はそこに書かれた名を読んだ。
『アデル・アルクム』
記録庫で落ち続ける水滴の音が、急に大きくなった。一滴。もう一滴。自分の鼓動まで、濡れた石に落ちているようだった。
祖父さんは羊皮紙を見ていた。顔には驚きよりも、長い間形を持たなかった疑いが、ようやく名前を得た者の疲れがあった。
「やはり、私だったか」
「知っていたのか」
「令状は見せられなかった」
祖父さんの声は静かだった。
「写本局から修理の依頼が来た。王都の術式に大きな欠落が見つかったとな。ここへ着くと、枷をはめられた。お前に知らせを送る暇もなかった」
俺が四歳のとき、祖父さんは消えた。
帰らない理由を、俺はずっと考えていた。
仕事を選んだのか。俺を重荷だと思ったのか。それとも、最後に交わした約束そのものが、子供を黙らせるための嘘だったのか。
待つのをやめれば楽になると思った日もある。それでも扉の音がするたび、顔を上げる癖だけは消えなかった。
どれも外れだった。
正解は、紙に書かれた罪が一人の人間を地下へ運び、骨の筆へ変えたから。
最悪の答えだった。
それでも、祖父さんが俺を捨てたという答えよりは、ずっとましだった。喜ぶには痛すぎて、憎むには救いがありすぎる。感情というものは、索引盤よりよほど融通が利かない。
「すまなかった」
祖父さんが言った。
「帰ると約束したのに、十五年も――」
「遅刻だな」
俺は令状から目を離さずに答えた。顔を見れば、たぶん声までまともに保てなかった。
「かなり長い」
「ああ」
「だから、帰ってきた人間が謝ることじゃない」
祖父さんの左手が強く握られた。骨の右腕は動かなかったが、外套の布だけがかすかに震えていた。
「約束を破ったのは祖父さんじゃない。約束を破らせた奴だ。順番を間違えるな。俺は誤字にはうるさい」
十五年間、聞けなかった答えは、たった数行の記録に残っていた。
紙は人を陥れる。
だが同じ紙が、奪われた言葉を返すこともある。
リゼが何も言わず、俺の背に手を置いた。獣化の呪いを宿す手は人より熱く、慰めるには少し強く、立たせておくにはちょうどいい力だった。
ピピが祖父さんの骨の右腕へ飛び移る。文字の小さな足が、白い骨の上で淡く揺れた。
「帰ったら、みんなでごはんなのら」
「そうだな」
「ハンナのごはんは、十五年ぶん出るのら」
「それは死ぬかもしれん」
「残したらピピが食べるのら」
祖父さんが初めて、短く笑った。十五年という時間を埋めるには小さな笑いだったが、最初の一文字としては悪くなかった。
これで一つは直った。
十五年前、突然途切れた約束。その欠落に、ようやく本当の理由が入った。
俺は令状を証拠箱へ戻そうとした。
そのとき、二枚の羊皮紙の間に細い空気の層があることに気づいた。貼り合わせたにしては、中央だけがわずかに浮いている。
「待て」
端へ爪を入れる。古い糊が糸を引き、乾いた皮が低く軋んだ。
糊を剥がすと、内側から折り畳まれた小さな紙片が落ちた。
記されていたのは、拘束が失敗した場合の予備対象者だった。
年齢、四歳。
続柄、アデル・アルクムの孫。
名前は――ノエル・アルクム。
喉が閉じた。四歳の俺は、この紙の存在も、差し出された命も知らず、帰らない人をただ待っていた。
その下に、祖父さんの血判と一行の承諾文がある。褐色に変わった指の跡だけが、今も拒絶の形を残していた。
『第二対象への移行を拒む。代わりに、第一対象は永久補筆への使用を受諾する』
祖父さんが筆にされた理由を、俺は読んだ。
俺の代わりだった。
直後、紙片の文字が赤く発光した。
『第一対象の返却を確認』
記録庫の扉が轟音とともに閉まり、風圧で棚の埃が舞い上がる。リゼが俺の肩を掴んだのと、床の搬送溝が足元で開いたのは同時だった。
赤い文字は、十五年間待ち続けていた次の命令を最後まで書き上げた。
『未執行の第二拘束を開始する』
(第84話へ続く)




