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令状の裏側

 捕まったことが罪になるなら、牢屋は罪人を増やすための養殖場である。


 もっとも、王立写本局なら本気でそういう規則を書きかねない。紙に印があれば、井戸の水まで犯罪者にできる連中だ。


「後継筆の拘束完了を確認後……」


 俺は浮かび上がった文を、もう一度読んだ。


 原本の奥で続いている鼓動は、一定だった。机の上の大判原本から床へ。床から壁へ。壁から――俺の手首へ。


 鉄の枷が、鼓動に合わせてわずかに震えている。


「この枷が、拘束完了を知らせたのか」


 リゼの声が低くなる。


 爪はまだ出ていない。だが、彼女の外套には地下で濡れた獣の毛が張りつき、湿った革と焦げた毛の匂いがしていた。王立写本局の局長室には似合わない匂いだ。


 俺は嫌いではなかった。少なくとも、黒塗料と隠蔽の匂いよりは正直である。


「枷だけじゃない」


 俺は両手を上げた。鎖が鳴る。


「枷は俺の名を知らない。俺を後継筆だと照合するには、名前と拘束命令を結ぶ文書が必要だ」


 全員の視線が、一枚の紙へ集まった。


 机の端に置かれた拘束令状。


 オズワルド・ケインの署名と、王立写本局長の印が押された紙だ。


「馬鹿な」


 オズワルドが椅子を鳴らして立った。


「令状は法務文書だ。生活術式とは何の関係もない!」


「俺を追放した翌日に、生活術式の原本から補修記録を削らせた人が、文書同士の関係を語るのか」


「それとこれとは別だ!」


「便利な言葉だな。写本局では、責任を隔離する術式として教えているのか?」


 オズワルドの口が閉じた。


 皮肉は魔法より燃費がいい。魔力ゼロでも撃てる。ただし、撃ちすぎると人間関係が停止する。


 祖父が令状へ顔を寄せた。骨の筆になった右腕では触れず、左手だけで紙の端を持ち上げる。


「紙が二重だ」


「二重?」


「表面だけ新しい。下は古いぞ」


 言われて見れば、令状は妙に厚かった。


 罪状が書かれた面には新しい羊皮紙が貼られている。その下から、黒い繊維がわずかに覗いていた。局長印の周囲だけ糊が多い。剥がされないよう、印そのものを留め具にしている。


 紙を守るための印が、紙を隠すために使われていた。


 印章というものは出世すると、ずいぶん器用になるらしい。


「触るな!」


 オズワルドが机へ手を伸ばした。


 その手首を、リゼが掴んだ。


 爪は出ていない。ただ、机が軋むほどの力で押さえ込んでいる。


「証拠に触れるな、局長」


「辺境の騎士に王都での権限はない!」


「ならばこれは個人的な忠告だ。次に動けば、右腕を左腕として使う訓練が必要になる」


 祖父が骨の右腕を上げた。


「慣れるまで不便だぞ」


 実例を添えた忠告は強い。


 令状を持ってきた局員たちは動かなかった。先頭の男は剣の柄に手を置いていたが、その目はオズワルドではなく令状を見ている。


 命令に従った者まで一括で敵にすれば、真実は口を閉ざす。俺はそれを地下で嫌というほど読んできた。


「令状を水で湿らせてくれ」


 俺は先頭の男へ言った。


「俺が触れば、証拠を改竄したと言われる。あなたがやってくれ」


「……なぜ水を?」


「上の紙だけ新しい糊で貼られている。水を含ませれば剥がせる。下の文字まで削らずにな」


 男は一瞬迷ったあと、卓上の水差しを取った。


 布へ水を含ませ、令状の端をゆっくり濡らす。糊が白く浮き、新しい羊皮紙が薄皮のようにめくれていった。


 ピピが俺の肩から身を乗り出す。


「へくちっ、なのら! 下に意地悪な文字がいるのら!」


「意地悪かどうかは、読んでから決めよう」


「ピピのくしゃみは公平なのら」


 たしかに、相手の身分を選ばず鼻水を飛ばす点では公平だった。


 剥がれた紙の下から、古代語の細い文字列が現れた。


 文は令状の縁を一周し、局長印の裏へ続いている。生活術式の親文へ命令を渡すための子文だ。


『指定した後継筆の名を照合せよ』


『鉄枷の閉鎖をもって拘束完了とせよ』


『拘束完了後、王都生活術式の一斉停止を開始せよ』


 そして末尾に、命令を有効にする条件があった。


『王立写本局長の署名を承認とする』


 部屋が静まり返った。


 オズワルドの署名は、罪状を認めるためだけのものではなかった。


 王都を止める命令へ、鍵を差し込む行為だった。


「私は知らん!」


 オズワルドが叫んだ。


「その令状の様式は書庫から出されたものだ! 私は罪状を命じ、署名しただけだ!」


「十分だろう」


 祖父の声は穏やかだった。


「読まずに写し、読まずに署名し、人を捕らえた。その結果、街が止まりかけた」


「隠された古代語など読めるものか!」


「表の罪状は読めたはずだ」


 俺は言った。


「俺が何をしたか調べれば、王権簒奪未遂なんて書けない。読めない文字に騙されたんじゃない。読める事実を無視したんだ」


 オズワルドの顔から色が消えた。


 俺は彼を笑えなかった。


 読めないこと自体は罪ではない。俺にだって読めない人の心や、リゼが拳を握る前に逃げるべき正確な時刻がある。


 だが、読まないと決めて他人の人生へ印を押すなら、その印の重さから逃げてはいけない。


「ノエル、この命令は止められるか」


 リゼが尋ねた。


「止めるだけならな」


 命令文はすでに露出している。


 俺には新しい術式を作れない。崩壊を押し返す魔力もない。


 できるのは、いつも一語だけだ。


 問題は、どの語を変えるか。


『拘束』を『釈放』へ変えれば、俺が解放された瞬間に停止が始まる。


『停止』を『稼働』へ変えれば、隔離した故障術式まで無理に動き出す。治療所の保温炉が暖まる代わりに、西区画の排水路が汚水を噴き上げるかもしれない。王都の衛生と俺の評判が同時に溺れる。


 開始条件ではない。


 動作そのものでもない。


 命令の時間を変える。


「ペンを貸してくれ」


 先頭の男は腰の筆記具を抜き、俺へ渡した。


 枷の間から持つので、ひどく書きにくい。元写本係を罪人扱いするのは勝手だが、せめて字が汚くならない拘束具を開発してほしい。


 祖父が左手で小瓶を寄せた。先ほど親文を書き換えた血墨の残りが、底に一滴だけ溜まっている。


 俺はペン先へそれを吸わせた。


『開始』


 その一語へ触れる。


 黒い文字が指先にまとわりついた。冷たい。命令を実行できなかった苛立ちが、針のように皮膚を刺す。


 俺は二文字を削らず、輪郭を上から書き換えた。


『終了』


『拘束完了後、王都生活術式の一斉停止を終了せよ』


 令状が強く脈打った。


 鉄の枷から振動が抜け、机上の原本へ青白い光が走る。隔離された黒い枝はそのままに、幹を締めつけていた細い輪がほどけていった。


 壁の表示板から、赤い文字が一つずつ消える。


『停止命令――終了』


『再実行――不可』


『故障枝――隔離継続』


 今度こそ、原本の鼓動が止まった。


 王都全体を人質にした命令は終わった。壊れた箇所は止め、動ける箇所だけを残したまま。


 派手な光も爆発もない。


 俺の仕事としては上出来である。写本係の成功とは、だいたい何も起きないことだ。何も起きないので褒められず、失敗したときだけ建物が燃える。将来性に満ちた職業だった。


 先頭の男が長く息を吐いた。


 そして腰から鍵を外し、俺の枷へ差し込んだ。


「拘束令状の執行を停止する。この文書そのものに、王都への攻撃命令が隠されていた」


「私が局長だ!」


 オズワルドが喚いた。


「その判断を誰が許した!」


「あなたの署名です」


 男は静かに答えた。


 錠が開き、鉄の枷が床へ落ちた。


 乾いた音だった。


 追放された日から首に巻きついていたものまで、一緒に落ちた気がした。


 もちろん気のせいだ。過去は鉄より往生際が悪い。鍵一つで外れてくれるほど親切ではない。


 それでも、手首をさすると、隣でリゼが小さく息を吐いた。


「これで殴れるな」


「何を?」


「治ってから殴るという約束を忘れたのか」


「まだ手首が痛い」


「では治療所へ行こう。完治を確認してからにする」


 騎士は約束に誠実だった。相手が忘れてほしい約束ほどよく覚えている。


 局員たちがオズワルドの机を囲み、原本と令状を証拠として封じ始めた。黒塗料の缶も、削られた補修記録も運び出される。


 その途中、剥がした令状の裏から、小さな整理番号が現れた。


 俺は手を止めた。


 数字の前に『再写』とある。


 この令状は最初の一枚ではない。


「祖父さん」


 番号を見た祖父の顔が固まった。


 整理年は十五年前。


 原本の保管先は、写本局地下記録庫。


 俺は床の枷を跨ぎ、剥がした令状を掴んだ。


「地下へ行く。十五年前、最初にこの令状で捕らえられた人間の名を読む」


(第83話へ続く)

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